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女流パイロット列伝~パンチョ・バーンズ「リアル・キャラクター」

2013-10-08 | 飛行家列伝

飛行の黎明時代、男性に少し遅れて現れた女流飛行家たち。
今日残るパイオニアの写真を見ると、不思議なくらいの「美人揃い」です。

先日ご紹介したルース・エルダーはすぐさま映画界からのスカウトがあり、
あるいは旅芸人だったマージェリー・ブラウンも、目を見張る美貌の持ち主。
その実力と実績で絶大な人気があり歴史に名を遺したアメリア・イアハートも、
美人ではありませんでしたがキュートでボーイッシュな外貌が人気に拍車をかけました。

つまりこのころの女流飛行士たちが空を飛ぶためには、何らかの形の「支援」が必要で、
そのスポンサーとなるのが企業という「男性」であり、世間がそれを要求するがために
「美人でないと飛行家にはなれない」
というくらいの不文律があったのだと思われます。


という話を逆説の枕にしてしまうと失礼になってしまいそうなのですが、
この写真の女性は、その「楚々とした風情の女性が空を飛ぶ」という、
いわゆる「お約束」を完璧に覆しながら、かつその世界で絶大な人気があった、

フローレンス・ロウ・ ”パンチョ”・バーンズ。



彼女は女流飛行家としてはトップクラスの実力を持ち、
一度はアメリア・イアハートの最速記録を破っていますし、
以前お話しした「パウダー・パフ・ダービー」にも参加しています。

何と言ってもその後彼女は、アメリカで最初に「飛行スタント」のパイロット組合を創設し、
自分が飛んでいたという強者です。

そして、その豪快なキャラクターで、アメリカ中から愛された飛行家でした。



この「パウダー・パフ」の時の写真を見ても、当時の女流飛行家が
「美貌か、実力。間は無し」
の世界であったことがうかがい知れますね。
スタイル抜群、美人のルース・エルダーは右から2番目。

パンチョはもちろん左端です。

彼女は1901年、カリフォルニア州パサデナ(高級住宅街)に豪奢な邸宅を持つ
裕福な家庭に生まれました。



祖父は南北戦争時代陸軍で活躍した軍人で、アメリカ軍に航空隊を創設する
立役者ともなった人物、タデウス・S ・C・ロウです。

そんな祖父に10歳の時に航空ショーに連れて行かれたフローレンスは、
当然のように飛行機に憧れる少女となります。
しかし当時の女性ですから、18歳の時に結婚。お相手は牧師でした。



これは母親の意向でなされた、本人的には気に染まない結婚だったようで、
彼女はすぐに離婚してしまいます。

母親は彼女に上流階級の子女として相応しい装いをさせるべく
フランスから服やランジェリーなどをわざわざ購入して、
思春期の彼女に与えたりしたそうですが、フローレンスという名の割には
女性らしくすることを全く好まなかった彼女は、その、レースのたっぷりついた
ランジェリーの引き出しを決して開けることはなく、
ズボンに乗馬ブーツを好んで履くような女の子であったということです。

まあ、「自分に似合わない」ことを自覚してたんでしょうね。


そして、離婚した彼女はどういうわけかメキシコに向かうのでした。



パサデナというところは、ロスアンジェルス郊外の超高級住宅街で、
実はわたしたちがLAに住むかもしれないという話になった時に、一度見に行ったことがあります。
うっとりするくらい美しい邸宅の立ち並ぶ街で、そこには古いリッツカールトンがあり、
こんなところに住めたらもう日本に帰れなくてもいい、とすら思ったものです。
あの町の、英語で言うところの「マンション」(豪邸)に生まれ育った名士の娘、
すなわち「お嬢様」であった「フローレンス」がなぜ「パンチョ」になったのか。

冒険を求める気持だったのかどうかわかりませんが、とにかく彼女は
メキシコ革命のさなか、女だてらにかの地に渡り、これもいきさつはわかりませんが、
なんと武器弾薬を調達するパナマの武器密輸業者と行動を共にするようになるのです。

”パンチョ”というのはその際に付けられたあだ名で、なぜ男名前かというと、
彼女はその間男装していたからなのだとか・・・・。



若かりし日のパンチョ。
どうやらヘビースモーカーだったようですね。
しかしこうして見ると、知的な人間特有の、力強い光を持つ目をした、
魅力的な女性であることがわかります。

4か月のメキシコ滞在のあと、パンチョはカリフォルニアに戻ります。
両親の死により莫大な財産を継承することになったからでした。

まあ、このあたりがしょせんは「お嬢様の革命ごっこ」で、彼女が決してメキシコ革命に
骨をうずめる気がなかったことがわかります。
この「冒険」で彼女は「フローレンス」という名を捨て、その代わりに得たのは
”パンチョ”という「第二の名前、そしてキャラクター」でした。



そして彼女は次のスリルを今度は空に求めます。

第一次世界大戦のベテランでもある従兄弟のベン・ケイトリンを自らの教官にし、
飛行訓練を経て曲乗りの才能を開花させた彼女は、地方巡業の「航空ショー」を立ち上げ、
自らもそれに参加します。

飛行家”パンチョ”・バーンズの誕生です。

彼女は「リアル・キャラクター」と言われた強烈なキャラクターの持ち主で、
たとえば喫煙の仕方や、ダービーの宣誓での人をちょっと驚かせるような発言などに加え、
若い時からいわゆる「女傑」「姉御」タイプだったようです。

後年「ハッピー・ボトム・ライディング・クラブ」というバーのマダムとなり、
そこには近接のエドワーズ空軍基地の空の男たちがいつしか集うようになるのですが、
その中からは著名なパイロットや、あるいは宇宙飛行士になった者がいました。

先日映画「ライト・スタッフ」について特集を組んでお送りしましたが、この映画では
パンチョとそのバー、そしてそこに集うテストパイロットたちが描かれています。

飛行家として腕利きであっただけでなく、人が自然に周りに集まるような、
真に魅力のある人間であったのでしょうね。

「ハッピー・ボトム・ライディング・クラブ」では、彼女は
「エドワーズ空軍基地の母」と呼ばれていました。

どちらかというと雰囲気から言って「おっかさん」「おふくろ」という感じでしょうか。

 

1929年の女子エア・ダービーではパンチョはクラッシュしてしまいますが、
そんなことにはめげないパンチョ、翌年にはユニオン石油をスポンサーに、またもや復活。

墜落事故で重傷を負ったとたんに飛ぶのをやめてしまった日本の女性飛行家、
木部シゲノなどと比べると、やはりアメリカの女はタフだなあと思わずにいられません。

 

アメリア・イアハートの女子による最速記録を破ったのもこのころです。
レコードは 196.19 mph (315.7 km/h)。



ユニオン石油との契約が終了したのち、パンチョはハリウッドに移ります。
映画のためのスタントパイロットとして活動を始めたのでした。

モーションピクチャーで仕事を始めたパンチョは、スタント飛行パイロットの安全、
そして安定した賃金の供給を求める飛行家の組合を立ち上げます。

1930年のハワード・ヒューズの監督による映画「地獄の天使」の飛行シーンは
全てパンチョの率いるスタントクラブによるものです。



彼女はハリウッドにおいて絶大なコネクションを持っていました。

たとえば、MGMの有名な肖像カメラマンになったジョージ・ハレルも、
彼女がハリウッドのコネクションを通じて紹介し、そこで活路を見出した人物です。



ジョージ・ハレルの撮影によるパンチョ・バーンズ。

皆さんが記憶にあるモノクロームの「ボギー」ハンフリー・ボガートや、ジーン・ハーロウ、
こういった有名な写真のほとんどがこの写真家の手によるものといってもいいくらいです。



綺麗どころに囲まれたパンチョ。
この女性たちは彼女が面接し採用した、クラブのための「ホステス」たちです。


最初の結婚の後、見かけは中性的であっても「恋多き」女であった彼女は
その生涯に4回の結婚をしています。
4人目の夫は、見た目も明らかな年下の美青年でした。

しかし彼女自身、知人にこっそり語ったところによると

「生涯でもっとも愛した男は、殉職したテストパイロットだった」

ということです。



1930年代、アメリカを大恐慌が襲います。

女傑と言えどもこの嵐から逃れるすべはなく、1935年になって
彼女の手元に残っていたのはハリウッドのアパートただ一つでした。

タフな精神と周りを引き込んでしまうようなユーモアあふれるキャラクターで
人生を力強く生きてきたパンチョでしたが、さらに突然悲劇が連続して襲います。

彼女と、多くのパイロットたちの精神のよりどころであった
「ハッピー・ボトム・ライディング・クラブ」が、不審火によって全焼してしまったのです。

そして追い打ちをかけるように、右胸にできた悪性腫瘍を「良性」であると誤診され、
対処が遅れた結果、右切除したときには左側にも癌ができていることがわかり、
彼女は両方の胸を手術によって切除することになったのでした。

しかし、彼女は最後まで自分の不幸をユーモアで吹き飛ばしてしまう強さを持っていました。
彼女の知人はこう語っています。

「わたしが彼女から学んだことがひとつあるとしたら、誰かを傷つけるものでない限り、
たとえどんな種類のものであっても、笑い飛ばして構わないのだということかもしれない」

彼女は、病気について尋ねられた時にはあっけらかんと相手に手術跡を見せたり、
郵便局で乳がん切除患者用のパッドを受け取ったときにはその場で梱包を開き、

「見て見て!やっとわたしの胸が届いたの!」

とスタッフやほかの客に見せたりしました。
ユーモアに自分の内心の苦しみと死の恐怖を紛らせようとしていたのかもしれません。



彼女の死はあっけないものでした。

1975年4月5日、彼女の息子ビルが3月30日に電話が通じなかったという知らせを受け
自宅に行ってみると、死亡してすでに数日経ったと思われる母の遺体がありました。




日本ではほとんど無名と言っていいパンチョ・バーンズ。
しかしアメリカでは有名で、このように映画も作られています。
パッケージを見る限り女優さんがきれいすぎて、まったくリアリティを感じませんが・・。

彼女の魅力は要するに外貌とかそういうこととは全く別にあったのだから、
こんなところで「修正」しなくてもいいのにと思うんですが。


ところで、日本では無名ですが、日本語でこの名前を検索すると
真っ先に出てくるのが「大空の開拓者」シリーズのフィギュア模型。
それはいいのですが、その商品に付けられた説明が

「伝説的女流飛行士。エドワーズ空軍基地のテストパイロット

という嘘八百の情報で・・・orz

まあ、こちらは映画と違ってパンチョの容貌には一応似ています。



息子のビルは、アメリカ空軍の特別の許可を得たのち、火葬にした彼女の遺灰を、
愛した「ハッピー・ボトム・ライディング・クラブ」の跡地上空でセスナ機から撒きました。

飛行家、フローレンス・”パンチョ”・ロウ・バーンズの、最後の「グッド・ジョイ・ライド」でした。







 




 



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2 Comments

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女流パイロット (しん)
2013-10-21 17:42:05
(`・´)ゞエリス中尉殿、女流パイロット列伝、読み終わりました。
まず、パンチョのコーナーの出だしの絵があまり素晴らしいので、驚いていましたところ、これは、絵画の写真添付なのですね。
Lt.エリスのサインがないので。
ハワードヒューズ制作の「地獄の天使」のスタントチームが、彼女の率いるチームだったとは驚きました。
というか、それなら、アビエーターの映画に、少しぐらいパンチョが登場してもよさそうなもんです。
何度も見てますが、パンチョは登場しません。
しかし、そんなことまで良く調べられますね(@_@;)
また、アメリアの、初大西洋横断便乗飛行の話し、
「ジャガイモの袋同然」と言うところ。
ライトスタッフでガスがしくじった時、イエガーが、「猿は危険を知らないが、人間は危険を理解している。だから、奴は立派だ」と言ったのを想い出しました。
便乗飛行でも大変なリスクが伴った冒険旅行だったんですね。
カプセルに入れられたモルモットが人間に代わる時と、良く似た状況だったんですね。
それから、マダムジェネラル、凄い人が居たんですね。
余りのすごさに言葉も有りません。
一気読みしましたが、超大作ですね! (`・´)ゞ
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ありがとうございます (エリス中尉)
2013-10-21 23:06:14
これらの女流パイロットシリーズは、来年にかけて週一ペースでアップ予定です。
どのパイロットも日本では無名で、イアハート以外は日本語での資料は殆ど見つかりませんでした。
よってほとんどが英語のサイト(航空博物館のものとか、航空史とか)を訪ねて集めてきた資料です。
これから登場するパイロットたちもすごい人たちばかりで、
「どうしてこんな女傑が日本では全く知られていないのだろう」
と不思議に思うくらいの人物もいます。
今までだれも日本語では書いていないことばかりなので、
これを読んで興味を持ってくださる方が一人でもいれば嬉しいです。
どうぞお楽しみに。

先日、「アメリア」という映画をやっと観ました。
「ただ荷物になって飛ぶ」だけでも、当時の飛行機というものがいかに危険か知れば、
その恐怖と、克服した女性に与えられる賞賛は
十分妥当なものであると納得しました。
この映画については少しイベントが落ち着いたら書きます。

あはは、パンチョの絵は、映画の為に制作されたもののようです。
黙って冒頭にあげるとわたしが描いたと勘違いする人がいるかなと思っていましたが・・・・。

もう少し後に、戦時中の日本の映画「燃ゆる大空」についてのエントリをアップする予定ですが、
この映画に主演している日本の俳優と、
パンチョ・バーンズに意外な関係があったらしいことがわかり、
たった一人で興奮してしまいました。
興味のない人には「でそれがなにか」なんですが、
こういうふうな点が線でつながるようなことがあると、何か謎が解けたようで本当に嬉しいです。
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