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ネイビーブルーに恋をして

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女流パイロット列伝~ジャクリーン・コクラン「レディ・マッハ・バスター」

2014-01-24 | 飛行家列伝

女流飛行家と言えば?

世間一般の人、特に航空に興味を持たない人なら

「アメリア・イヤハート」

を最初にして最後の名前にあげるでしょう。


以前取り上げたリディア・リトヴァクは、
日本の萌業界でもどうやらおなじみで、

一昔前よりは名前くらいなら聞いたことがある、
という人が増えているようです。


しかし、一般に名前は膾炙していないが、賞をもっとも獲得しており、
最多記録保持者である女性パイロットをアメリカ人で
もし一人だけ上げるとすれば、
この人ではないでしょうか。

ジャクリーン・コクラン

1938年までには、彼女はアメリカ国内最高の
女性パイロットの地位を獲得していました。

1934年からレースに参加を始め、1937年には
ベンディックス・レース、つまり北米大陸横断の長距離飛行レースで、

唯一の女性参加者でありながら優勝をさらってしまいます。


このときの使用機は、なんと当時最新型の軍用機

セバスキーP-35.

陸軍が採用した最初の軍用機とされているものです。



このレース終了後、コクピットから降りる彼女の写真が残されていますが、
スマートな体をぴったりとした航空服に包み、
純白のマフラーを風になびかせる様子は
まるで映画女優のようです。

さぞかし彼女に憧れる世の男性は多かったのではないかと思われるのですが、
そのあたりの話は後回しにましょう。


彼女はこの男性ばかりの競技者を差し置いて
「最速記録」とともに「最高高度」も記録しました。

その後、

爆撃機を操縦して大西洋を横断した最初の女性」

となり、幾多の実績に対し、

優秀な飛行士に対して与えられる

「ハーモン・トロフィー」

を通算五回受賞しています。

そして、「スピード・クィーン」、
あるいは「レディ・マッハ・バスター」などと呼ばれました。
これは戦後、女性として史上初めて音速を超えたことから
つけられたニックネームです。



それにしても、1930年代後半、
女性が飛行機に乗るというだけでも珍しいのに、

最新鋭の、しかも軍用機でレースに参加するなんて、
いったいこの女性は何者なんだ?

と読まれた方も、そしておそらく彼女の競争者も思ったでしょう。




ジャクリーン・コクランは1905年、フロリダ州に生まれました。
生まれたときの名前はベッシー・リー・ピットマン
父親は水車の修理工で、家は決して裕福ではありませんでした。

ジャッキー、いやベッシーはなんと14歳で
海軍基地の整備員であるロバート・コクランと結婚。

結婚式の4か月後に男の子を出産します。
早すぎる結婚にはこの理由があったということのようですが、
この子供は5歳の時に裏庭で一人で遊んでいて
自分で服に火をつけてしまい、
悲劇的な死を遂げています。

子供の妊娠がきっかけで結婚したに過ぎない二人が
もはや一緒にいる理由はなく、
すぐに離婚になりますが、
コクラン(Cocklin)」というフランス系の名前が気に入っていたせいか、

彼女は離婚後も名前を変えることはしませんでした。 


ひとりになった彼女は美容師として働きだし、ニューヨークに上京します。

・・・・なんというか、典型的な
「野心のある女性の下積み時代」のような経歴ですが、

実際彼女は非常に上昇志向が強かったらしく、
サックス・フィフスアヴェニューにある名門サロンで

働くためにその積極的なパーソナリティと、
なんといっても美貌をフルに利用しました。


さらにそこで働きだしてからは、明確に
「成り上がる」ために 自己研鑽に励みます。

そしてベッシーという比較的もっさりした響きの名前から、
この時期に
いつの間にかどこからか引っ張ってきた名前、
ジャクリーヌを名乗るようになります。


ケネディ大統領夫人ジャクリーヌの旧姓はブーヴィエといい、
フランス系移民の家系でしたが、フランス系移民は
ファーストネームもフランス風発音にこだわるところがあります。
やはり同じ名前のイギリス人ジャクリーヌ・デュ・プレもそうですね。

彼女も結婚によって得たフランス系移民の名字に、ファーストネームまで変えて、
つまりルーツをフランスであるかに見えるように「細工」をしたということです。
このあたりの彼女の「自己演出」にも、その野心家の面影が彷彿とします。

そして、ついに彼女の作り上げた
「ジャクリーヌ・コクラン」という撒き餌に超大物がかかりました。

アトラスコーポレーションの創立者でCEOの
フロイド・ボストウィック・オドラム。

世界で長者番付のトップ10には入るといわれる大物です。

14歳年上のオドラムはジャッキーに夢中になりました。
すっかり骨抜きになってしまった男に、彼女はさっそくおねだりをします。

「化粧品会社をやらせてくださらないかしら?」


相手が超富豪ともなると、同じ「お店」でも銀座のホステスなんかとは桁が違います。

ちなみにこのときオドラムには妻がおり、つまり二人は不倫関係でした。
こののち、ジャッキーは同じ調子で

「飛行機を操縦してみたいの」

とおねだりして飛行機免許を取り、それが飛行家になるきっかけとなったわけです。



やってみたら思っていたより面白いのでのめりこみ、
男の財力にものをいわせて新型戦闘機を買ってもらい、
それでレースに出たというわけですね。


こういう事実を知ってしまうと、受賞の数々は彼女の実力というより単に

「彼女の使用機が高額で高性能だった」

おかげではなかったかと、つい意地悪な考えが浮かんでしまいます。
レースの競技者たちも、彼女の正体を知ってからは

「そりゃー最新型軍用機が買えたら、誰だって優勝できるさ」

と鼻白んだのではなかったかとふと考えてしまいました。

オドラムはその後彼女のためにそれまでの妻と離婚し、
1936年、二人は晴れて結婚しました。
オドラム44歳、ジャッキー30歳の時です。

よかったですね(棒)


「ジャッキー・コクラン」を作り上げた後、彼女は徹底的に出自を隠しました。
つまり、自分の過去と、それにまつわる実際の家族の存在を生涯否定し続けたのです。

家族を愛していないわけではなかったらしく、
再婚後所有したあちこちの土地の一つである牧場に家族の一部を呼び寄せ、
金銭的な面倒は見ていたといいますが、家族は
「他人にはあくまでもわたしとの血縁関係はないと言うように」
と彼女から言い渡されていました。


フランス系の名前を持つ富豪の夫人、
マリリン・モンローを(もちろん夫のつてで)顧客に持つ、
化粧品会社の若く美しい女社長、
自社製品「ウィングス」という化粧品ラインのイメージガールで、
自らがその宣伝のために空を飛ぶ。

こんな女性が実はフロリダの貧しい田舎の水車職人の家の出身、
となれば世間的に大変なダメージです。


うーん・・・・なんて言いますかね。


彼女がこの後飛行家としてなした実績の数々も、
こういうバックを知ってしまうと、
お金と彼女の夫のコネと口利きで
何とかなることばかりに思えてきてしまうんですが。

当時の女流飛行家のほとんどが女性であることを

「一見ハンディ、しかし実はプライオリティ」

としていたことを差し引いても、素直に
「実力ある飛行家だった」と思えなくなってきます。



さて、そんなこんなで、飛行家としての実績よりこの玉の輿ストーリーと、
彼女の野心的で冷淡な面ばかりが前半生では目につくのですが、
1940年ごろから、少し様相は変わってきます。


すでに「フライング・タイガース」の投入によって
実質的には日本と航空戦が行われていたアメリカでは、
航空戦力の確保拡大を推し進めていました。
そんな中、もうすっかりセレブリティとなった彼女は、
エレノア・ルーズベルトに手紙を書き、
女性パイロットによる飛行師団の設立を提案します。

陸軍婦人部隊Women's Army Corps (WAC)の始まりです。
1942年には、戦闘を行わない、輸送を中心とした
女子飛行師団を含む部隊が陸軍の補助部隊として設立され、
翌年には独立した組織となりました。


また、コクランはバトル・フォー・ブリテンという女性飛行部隊で、
アメリカからイギリスに航空機を輸送する部隊として、
イギリスまで爆撃機の輸送をしています。

これが最初に書いた、

「初めて大西洋を爆撃機で横断した女性」

のタイトルとなった任務でした。
そのままイギリスで現地を視察し帰国したコクランは、
女子パイロットの育成にあたりました。

彼女はその後、戦争への協力を讃えられ
殊勲賞航空十字賞を叙勲されています。

ちなみにWAC初の女性指揮官は、テキサスの有力な政治家夫人であり
法律家、新聞編集者でもあるオヴィータ・カループ・ホビーでした。


そもそもの創設のきっかけを作ったパイロットのコクランなのに、
彼女が初代指揮官になれなかったことの理由には
「彼女の出自」があったからではないか。

富豪と結婚した美容師上がりの美貌の女。
数々の彼女の栄光の陰で、やっかみ半分のこんな揶揄が
彼女にはまつわっていたのではないか。

そんなこともふと考えさせられてしまいました。



さて、アメリカではいまだに各種記録保持者であるらしい、この女流飛行家、
ジャクリーヌ・コクランですが、この人の後半生、 

「レディ・マッハ・バスター」

が、その前半生の

「貧しいが美しく野心のある女の華麗なるサクセスストーリー」

のせいで、すっかり眉唾なものになってしまいそうな嫌な予感。
はたして彼女のパイロットとしての実力はそのタイトルに相応しいものだったのか。

彼女のタイトルの中で最も人目を引くのはなんといってもそのあだ名の所以となった

「世界最初に秒速の壁を破った女性」

というものでしょう。

ちょうどそのころのコクランの勇姿。
音速を超えたF-86の翼の上に立っていますが、
左側の男性は誰あろう世界で最初に音速を超えたと(も)言われている、
チャック・イェーガー

おそらく1953年、彼女が音速に挑戦したころの写真と思われます。

イェーガーが音速を超えたのはこれに遡ること6年前のことですから、
日進月歩の航空界そのものにとっては
それほどすごいことではなかったともいえます。

しかし、F-86セイバーのスペックは最高速度570ノット、1,105 km/h。
この時彼女が出したセイバーの 平均時速は1,049.6km/hというものです。

飛行機の操縦については全くわかりませんが、
いくらセイバーの性能が良くても、
この数字が誰にも出せるものではないことくらいはなんとなくわかります。



ましてや音速を超えたこの女性が当時47歳であったというのは、
どんなに僻目でみても素直に賞賛するしかない快挙であるということも。




この写真はまさにその記録を破ったセイバーの操縦席のコクランとイェーガー。

イェーガは彼女より17歳も年下ですから、 記録達成のときは31歳のはずですが、
少し31歳にしては老けすぎのような気もするので、(コクランも) 
後日撮られたものかもしれません。

この17歳違いの「音速を破った男女」は生涯を通して大変親しい友人だったそうです。
彼女が音速を超えた飛行の時、イェーガーは右翼上を伴走?していました。

しかし、この写真のコクランを見る限り、若い時の
「美貌を利用し成り上がった女」という風情とは全く違う、
「航空人」としての面構えになっているとおもうのはわたしだけでしょうか。

 


大富豪で、実業家でもある有名人の彼女が、これを見る限り
当時普通に行われていたセレブリティには不可欠のしわ取り手術の類を
一切していないらしいことに、逆に不思議な気さえしてしまうのですが、
どうやら二次大戦のころ軍にその能力を奉仕し、
戦後中佐にまで昇進したころから、彼女は
そういう意味での「女」を捨てたのではないかという気がします。

逆に言いますと、もはや彼女は男を利用する必要は何もなくなったわけで。

そして、ひょうたんから駒ではありませんが、「当時の流行」から、
あるいは自己表現の一つの手段としてのめりこんだ航空の世界は、いつの間にか
彼女にとって彼女の世界そのものとなったのではないかという気がしてなりません。


さて、彼女は、また初めて母艦に離着陸をした女性」のタイトルも持っています。

これは、もう本物でしょう。
離艦だけでも熟練を要するのに、着艦もやってのけているのですから。

さらに「レディ・マッハバスター」と呼ばれるようになったのは、
ただ一度マッハ1を破っただけでなく、その後、ノーストロップ T-38タロンで、

マッハ2

に到達したという実績をあげたからなのです。
このときいったいいくつだこのおばちゃん。

戦時中に女性で初めて爆撃機で大西洋横断をした、という話をしましたが、
ジェット機による大西洋横断の女性初のタイトルも戦後取っており、
そして、わたしは心底驚いてしまったのですが、彼女は男女関係なく、

この世でブラインドランディング(計器による)を行った最初のパイロット

の称号も持っているのです。
その他、

●史上初のFAI( Fédération Aéronautique Internationale )、
国際航空連盟の女性会長

●固定翼によるジェット機で酸素マスクを使用し、
 大西洋を2万フィートの高度で越えた最初の女性


●ベンディックス・トランスコンチネンタル・レースに参加した初めての女性


などのタイトルを持っており、もしかしたら彼女にとって
「初めて」のタイトルコレクションは、生涯の
「趣味」だったのではないかとも思えてきます。

その他、彼女の出した記録の中にはいまだ男性パイロット、
もちろん女性にも破られていないものがいくつもあるのだそうです。

おそるべし。

さて、月日は流れて。

先日実に4日分のエントリを費やして、このイェーガーと、
マーキュリー計画の飛行士を描いた映画「ライトスタッフ」について
語ったわけですが、この計画は実質マーキュリー9号までが実地され、
予定されていた12号までの三計画は中止されました。

張り合っていたソ連が女性飛行士テレシコワを宇宙に打ち上げたため、
これに続くマーキュリー13号の打ち上げに、NASAは女性の採用を考えました。
コクランがマーキュリー13のスポンサーであったため、
これを推したのかもしれませんが、その辺の経緯についてはわかりません。

この女性飛行士採用計画には、マーキュリー7の飛行士ジョン・グレンと
スコット・カーペンター
が反対の立場をとり、さらにコクラン自身が
その女性飛行士たちの統括をするには、彼女自身に操縦士として知名度がなく、
世間の関心を得られないであろうこともあって、立ち消えになりました。


ついで彼女は政治に意欲を見せだします。

それまで培ったコネクションでアイゼンハワーとの知己を得ていた彼女は
夫の全面協力による選挙運動と、アイクの名前を武器に、
共和党からカリフォルニア議員に立候補します。

1956年、音速を破ってから三年目のことですが、
最終的な総選挙で彼女は敗れ、政治への挑戦は失敗に終わりました。


彼女は
晩年まで、この落選について気に病んでいたそうです。

今までやることなすことすべてがうまくいき、挫折を知らなかった彼女が、
マーキュリー計画に続き初めて世の中には自分の思い通りにいかないこともある、
と知った苦い経験だったに違いありません。

まあ、普通の人間はもう少し早くに経験するものだと思うんですけどね。





彼女の物語を始めるにあたって、

「なぜ彼女の名はアメリア・イヤハートと違って歴史に残らないのか」

と書いたのですが、両者の大きな違いは、

飛行家としてのピークで夭逝したか、

山ほど記録や賞を得たが、ピークを過ぎ、晩年はその実績どころか
存在そのものが世間から忘れられてしまったか、

ということに尽きるでしょう。
イヤハートの飛行家としての実績は、はっきり言って
これでもかとばかり長くに亘って飛び続けたコクランには遠く及びません。

しかし、生きて目の前で記録を出し続けるよりも、
絶頂で消えてしまった方が人の記憶には残るというのもまた
人の世の不思議な真実でもあるのです。


コクランは全く無学であったにもかかわらず、天性のカンで
ビジネスをし、それは実にうまくいっていました。
パイロットとしてもこうやって延々と語ってきたように、超一流です。

しかし、わたしも前半に言ったように、彼女の業績の多くが、
超富豪である夫の有り余る資産ゆえに達成可能だったと見る向きは
世間においても同じで、the rags-to-riches (ぼろ布からリッチへ)
成り上がった経歴が彼女の能力そのものによるものでなかったことは、
その評価に味噌をつけた(この場合妥当な表現ではないような気もしますが)
と言えるのかもしれません。

晩年の彼女は有り余る資産を慈善事業に費やし、社会事業を行いました。


自分のことを「ベッシー」と呼ぶこの世で唯一の両親、
しかし彼女が生涯その存在を隠し続けた肉親に対して、
どのように遇していたかまでは彼女のヒストリーには残されていません。




 


女流パイロット列伝~リディア・リトヴァクとマリナ・ラスコヴァ

2013-10-25 | 飛行家列伝

本日もう一人ご紹介するソ連の女性飛行士マリナ・ラスコヴァとともに、
この人物はこのように描けと言われたような気がしたので、
今日はマンガ風肖像でお送りしております。


リディア・ヴラジミロブナ・リトヴァク

ソ連邦の英雄で、ドイツ空軍からは「スターリングラードの白薔薇」
とあだ名されていたという戦闘機パイロットです。

やはりソ連のエカテリーナ・ブダノワとともに、史上ただ二人の女性エースの一人として、
とくに近年日本の萌界ではその名が有名になったリトヴァクですが、
このRytviaKは、どちらかというと「リトビャーク」という発音が近いのではないかと思います。
また、アメリカの博物館では彼女の名前はLilyaとなっているのですが、これは
ロシア文字を発音通りに表記した場合、こういう解釈をすることもあるということでしょう。

ここでは日本での通例通り、「リディア・リトヴァク」と表記することにします。

1912年、モスクワに生まれた彼女は11歳の時に「空に恋をした」といいます。
14歳で飛行クラブに在籍し、翌年には最初の単独飛行を果たしました。

Kherson(ヘルソン)の軍飛行学校を優秀な成績で卒業した彼女は
カリーニン飛行クラブで教官として働きだします。

14歳で希望すれば飛行機に乗れるというのもすごいですが、当時のソ連は共産主義革命後で
労働は美しい!額に汗して働く者がが報われる社会!みたいなことになってたせいでしょうか、
高校生くらいの若い女の子でも教官職にも就けたのですね。

彼女はそこで17歳までに旧式の複葉機を用いて、
45人ものソ連空軍パイロットを教官として指導しています。


1941年独ソ戦が勃発します。

もともと不倶戴天の敵同士であった両国の4年に亘る戦闘で、
共産主義革命を起こしたソ連と反共の尖峰であるドイツのあいだに
ポーランド分割を巡って利益が衝突した結果起きたものです。

ドイツ攻撃の報せを聴いた彼女は、軍航空隊に入隊することを希望しますが、
経験不足を理由にその志願は却下されてしまいます。

しかしおそらく優秀な彼女に活路を与えるために、上層部は意図的に100時間、
戦前の飛行時間を水増しして第586飛行部隊に配属されることになります。

これは、マリナ・ミハイロヴナ・ラスコワによって組織された女性だけの飛行部隊です。



宮崎駿監督には、もう一度(笑)引退を留まっていただいて、
ぜひこんなノリで架空女子飛行隊の映画など創っていただきたくなります。

余談ですが、このロシア名、女性形と男性形があって、
たとえば彼女の名前「ミヒャイロブナ・ラスコワ」であれば、男性形は

「ミヒャイロビッチ・ラスコフ」

と、同じ家族でも語尾が変わってくるんですね。
ラスコワも、ラスコフさんと結婚したのでこの名になったわけです。

わたしはロシア系アメリカ人で「スキー」のつく名前を持つ人物を知っていますが、
彼に、

「お母さんはやっぱり『スカヤ』なのか」と尋ねたところ、

「アメリカではそれは絶対にない」

という返事でした。ご参考までに。

ドイツ側には「東部戦線」、ソ連側では「大祖国戦争」と呼ばれた独ソ戦争勃発の時、
マリーナはすでに飛行士としてヨシフ・スターリンとの知己を得るほどの有名人で、
そのスターリンに頼んで女性ばかりの三つの飛行部隊を作らせます。

そのうち一つが戦闘機Yak-1を主力とする第586戦闘飛行連隊で、
リディアが入隊することができた部隊でした。

このマリーナですが、他のほとんどの女性飛行家の
ように小さい時から
飛行機に憧れていたわけではありません。

彼女は歌の教師であった父親の影響でオペラ歌手になることを夢みて育ち、
実際にも音楽の勉強をしていたのですが、父親が事故による障害で亡くなってからは
生活のために音楽をやめ、化学を勉強して染料工場で働きだします。

セルゲイ・ラスコフと結婚した彼女は女児を設けましたが、
図案工として、空軍のエアロナビゲーション研究所で仕事をするようになったことが
彼女の人生を変えます。

その後、彼女は爆撃機による長距離飛行記録を立て、パイロットとして、
そしてソ連初の女性ナヴィゲイターとしても国家的に有名な存在になります。

彼女の創設した女性だけの部隊、ことに夜戦専門の攻撃隊はきわめて成功し、
ドイツ軍は彼女らを

”ナハト・ヘクセン”(夜の魔女)

と呼んで恐れました。



さて、リディアの話に戻りましょう。

いったんは女性部隊に入ったリディアですが、
なんと初空戦一か月後に、男性ばかりの(ってこっちが普通ですが)飛行隊に配属されます。

このときに同時に移動になったのがもう一人の女性エース、カーチャ・ブダノワ、そして
マリア・M・クズネツォワとライサ・ヴァリァエワの計4人です。
女性部隊の中でも最も優秀な「四天王」(笑)というわけですね。 

リディアは二回目の初空戦で戦果をあげ、隊長のボリス・エレーミン(のちの空将)をして

「非常に闘争精神に富む人物」

「戦闘機に乗るために生まれてきたような人物」

と激賞させています。

彼女はまた、リヒトフォーヘンの遠い親戚にあたる
ヴォルフラム・フライヒャー・フォン・リヒトフォーヘン将軍が司令を務める
第54戦闘航空団第2飛行隊のエース、鉄十字賞三回受賞の勇者、
アーヴィン・マイヤーの乗ったメッサーシュミットBf 109を撃墜しています。


パラシュートで脱出したマイヤーはロシア軍の捕虜になるのですが、そこで

「自分を撃墜した『ロシアのエース』に会わせてほしい」

と頼みます。
よっぽど悔しかったか、あるいはその腕に舌を巻いたんでしょうね。
ところが彼の前に現れたのは楚々とした二十歳そこそこの女の子。

「おいふざけんなよんなわけあるか!」

とは言わなかったとしても、マイヤー空曹はてっきり自分が馬鹿にされていると思い、
最初は全く信じませんでした。
しかし、彼女が空戦について当人しか知りえない経緯を説明したため
初めて自分を撃墜したのが目の前の女性であることを認めたそうです。

知らない方が幸せだったってことって・・・・・・・・ありますよね。

ちなみにドイツ空軍はスターリングラードで、それ以外のBf 109を失ったことはありません。


1943年にはレッドスター賞授与、そして中尉に昇進したリトヴァクは、ブダノワとともに
okhotniki(狩人)あるいはフリー・ハンターと呼ばれるエリート部隊に配属され、
熟練パイロットがペアで索敵するという戦法で空戦を行います。

このころ彼女は二度被撃墜を受け、負傷もしています。


リトヴァクの知人によると、彼女は

「ロマンチックで、かつ反抗的なキャラクター」

の持ち主で、戦果をあげた空戦から戻ってくると、基地上空で禁じられていたアクロバット飛行を、
しかも司令が激怒していることを知りながらやってのけるようなところがあったそうです。
さらに友人によると

「彼女は自分が無敵だなんて信じていませんでした。
パイロットの生死なんて所詮運だと思っていたわ。
彼女はもし最初の空戦から生きて帰れたとしたら、さらに飛んでさらに経験を積むことで
生き延びるチャンスがさらに増えるだけのことだと固く信じていたの。
ただ、運をいつも味方につけておくべきだとは言っていた」

彼女はそして戦闘機隊という荒々しい職場にあっても女性らしさを意識して保っていました。
今日残る写真の髪はブロンドに見えますが、これは病院に勤める女友達に頼んで
過酸化水素水を送ってもらい、それで染めた色です。

彼女はまたパラシュートの端切れをいろんな色に染めてそれを縫い合わせたスカーフを巻き、
お洒落を楽しんでいましたし、機会をとらえては花を摘みブーケを作ることが大好きでした。
特に赤いバラが。

そして彼女の搭乗した後の座席にはにはしばしば花束が置かれていて、
機を共有するほかの男性パイロットはそれをコクピットから捨てることになったようです。


前述のラスコヴァは若い時に結婚した相手と、空で活躍するようになってから離婚しています。
若い、そして「ロマンチックな」リトヴァクはやはり恋をしていたのでしょうか。

彼女の僚機であったアレクセイ・ソロマチン大尉は彼女の婚約者だったともいわれています。
彼は15機撃墜した同じエリート部隊のエースでしたが、ある日の空戦で戦死します。

ヴェルニス・ポレタという小説家の記述によると、ソロマチン大尉は弾薬を使い果たしたところを
BF109に撃墜され、その空戦の模様をリトヴァクは飛行場から目撃した、
ということになっているそうです。

しかし、同じ作者の別のバージョンでは

「新人パイロットの訓練中に事故で殉職」

となっていて、こちらは日本語のウィキペディアの記述に採用されているようです。
どこの国の戦記小説にも創作はつきものですが、同じ作者が全く違うことを言っている、
というのはあまりない例かと思われます。

このポレタとかいう作家には、どちらが創作なのかはっきりとしていただきたいですね(怒)


しかし、動かぬ事実としてリトヴァクが彼の死後、母親にあてた手紙で


「お母さんも知ってるように、彼はわたしのタイプじゃありませんでした。
でも、彼がわたしを愛し、告白してくれたので、わたしも彼を愛していることを確信したの。
今言えることは、わたしはもう二度と彼のようなひとには会えないだろうということです」


という報告があり、これが彼女が結婚を申し込まれていたということの論拠になっているようです。
それにしてもソロマチン大尉の写真が出てこなかったので彼女の言う

「タイプじゃない」

というのがどういう顔かわからなかったのが残念です。

この部分も日本のウィキでは「死んでから初めて彼を愛していることに気づいた」
となっていますが、英語版の手紙を翻訳しても、そのような意味にはどうしてもなりません。

まあそのように多少の解釈の違いはありますが、
とにかく彼女は愛している人を失い、その後衝かれたように空戦にのめりこんでいき、
そして21歳のまだ咲き初めた花のような命を空に散らすことになるのです。

1943年、出撃した彼女はついに基地に戻ることはありませんでした。

一緒に出撃したイワン・ボリシェンコ

「リリーは(どうもこれが愛称だったらしい)ドイツの爆撃機援護のために飛んでいた
メッサーシュミットBF109に気づかなかったんだ。
ペアになったドイツ機が急降下してきて、それを彼女は迎え撃とうとした」

ボリシェンコはその後雲間に彼女の機を見失い、パラシュートも見ませんでした。

ドイツ軍の二人のパイロット、ハンス‐ヨルク・メルケル、そしてハンス・シュリーフの二人が
リトヴァクを撃墜したと今日では信じられています。


戦死したことが確定的になっても、すぐに彼女の戦功が称えられ英雄となったわけではありません。
彼女が捕虜になっていないこと、つまり完全に死んでしまったことを確かめるため、
ソ連は彼女の遺体を・・・・金属探知機まで動員して探しました。

そしてその結果、彼女らしい女性搭乗員がロシアのある小さな村に葬られており、
その搭乗員は頭部の損傷によって死亡していたらしいことが突き止められました。

これが1979年、彼女が死んでから実に36年後のことです。




捕虜になっていなかったことがわかり、ソ連政府のキャッチフレーズ呼ぶところの
「スターリングラードの白百合」、リディア・リトヴァクは、
初めてソ連の英雄として認められたというわけです。

ちなみに、敵だったドイツと英語圏では彼女を「スターリングラードの白薔薇」と呼んでいますが、
彼女が生前好きだった花を思えば、こちらの方がその名に相応しいといえるかもしれません。

彼女の短くドラマチックな生涯は内外の作家の手で様々な著書に記されていますが、
その中でも、わたしはロシアの作家による

「アハトゥング!アハトゥング!上空に『白い百合』」

(Achtungはドイツ語で『警戒』)

「 天空のディアナ リディア・リトヴァク」

(ディアナは狩りの女神)

が気に入りました。 
どうしてもこの人物はこのように表現されるのですね。

同じエースだったブダノワが、三機のフォッケウルフと交戦し、二機撃墜するも
被弾し撃墜されるという壮絶な最期を遂げて国民的英雄になったにもかかわらず、
今日の両者の知名度に全くの差があるのも
リトヴァクが美少女だったからということは否定できません。

いや・・・・ブダノワさんだって、戦死したのは若干27歳の時で、
しかも、もっと若い時はかなりおきれいな方なんですがね。

ロシア女性というのは若い時は妖精のように美しいのに、
ある年齢を超えると全く別のものになってしまう生き物のようで・・・おっと。 

不謹慎ですがリトヴァクももしあと5 、6年戦死するのが遅ければ
果たしてここまで信奉者を生んでいたかどうか。

マリーナ・ラスコヴァは、第125爆撃守備隊の司令であった1943年1月4日、
スターリングラード近くのヴォルガ川土手に不時着する際失敗して殉職しました。

彼女の死に対し、ソビエト連邦は独ソ戦始まって以来最初の国葬を行っています。 

そのとき彼女は32歳でした。 








女性パイロット列伝~ベッシ―・コールマン「ブラック・ウィングス」

2013-10-12 | 飛行家列伝

Elisabeth"Bessie" Coleman

ビリー・ホリディの名曲

ストレンジ・フルーツ」(奇妙な果実)

をご存知でしょうか。

 

Southern trees bear strange fruit 

(南部の木には奇妙な果実がなる)

Blood on the leaves and blood at the root 

(葉には血が、根にも血を滴たらせ)

Black bodies swinging in the southern breeze 

(南部の風に揺らいでいる黒い死体)

Strange fruit hanging from the poplar trees. 

(ポプラの木に吊るされている奇妙な果実)



この詩が書かれたのは1930年。
南部で強姦の疑いをかけられた黒人青年が二人、
怒り狂った民衆に警察から連れ出され、

リンチを受けて木につるされている衝撃的な写真を見て
ショックを受けたユダヤ人の教師が書き上げた「告発詞」です。

このころ、まだアメリカ南部では白人が黒人をリンチするという事件が相次いでおり、
またKKK団の団員が州知事になったり、あるいは過激な行動に走るなどして、
「白人至上主義」が暗黙の支持を受けていたころでもありました。

ベッシー・コールマンは、そのような世相の中、
アフリカ系アメリカ人女性として初めて飛行機で空を飛び、
アフリカ系の人種としては初めて国際免許を取りました。


社会的に認められているどころか、
迫害を受けていたといってもいいこの時代、

アフリカ系の女性がどうやって当時最先端だった飛行機で
空を飛ぶことができたのでしょうか。

たとえ白人でも、女性はそのような道を絶たれているのが普通のこの時代に・・。



ベッシー、本名エリザベス・コールマンは、
1892年、アメリカ南部のテキサス州アトランタに生まれました。


アトランタというと、あの「風と共に去りぬ」の舞台です。
マーガレット・ミッチェルのあの小説によると、南部の奴隷制度は
ときとして黒人奴隷たちを家族かそれ以上の存在として愛していた、
という風に描かれていますが、KKK団が結成された1900年初頭は
冒頭のような白人によるリンチが多発していたのも事実です。


しかもベッシーの父親にはチェロキーインディアンの血が流れていました。

23歳になった彼女は、理髪店でネイリストとして働いていましたが、
ある日第一次世界大戦に参戦し帰国したパイロットの客から
飛行機の話を聞きます。

彼の話にすっかり飛行機への憧れを掻き立てられた彼女ですが、
残念ながら
ただでさえ人種偏見の強いテキサス、
彼女には飛行学校の入学許可さえおりませんでした。


普通の女性ならここであきらめてしまうところですが、
彼女はあきらめなかったのです。


アフリカ系アメリカ人の読者のための新聞、
シカゴ・ディフェンダー新聞の創設者であった
ロバート・S・アボットのすすめにより、またこの会社の支援を受けて、
彼女は海外に留学して
そこで飛行免許を取ることにします。

シカゴにある語学学校ベルリッツ(このころからあったのですね)
でフランス語を学び、
パリにわたり、ニューポール82型の免許を取得します。

民族性別関係なく、アメリカ人が国外の飛行免許を取ったのは、
これが最初のことでした。


ベッシーの航空免許

彼女はスキルを磨くために、パリ郊外で
フランスのエースパイロットから二か月の特訓を受けました。

ニューヨークに 彼女が帰ってきたときには
メディアはセンセーショナルにそれを報じたといいます。


帰国後、さっそく
民間パイロットとして生計を立てるために
スタント飛行や地方巡業を始めますが、彼女はすぐに、
この競争の激しい世界で成功するためには、
より高度な技術や広範なレパートリーが必要であると実感することになります。


しかしながら、1922年当時のアメリカでは、黒人の女性を
喜んで教えようという飛行教師を見つけることすら

出来なかったため、彼女は再びフランスにわたり研鑽を積むことを決心します。
そしてその際、フランスだけでなくオランダに渡る計画を立てました。

世界でもっとも著名な航空機設計者の一人、
アンソニー・フォッカー に会うためです。


しかし、この行動力、向上心。
当時の有色系アメリカ人で、ここまで世間の偏見をはねのけたうえで
自分のやりたいことに向かって突き進んだ女性がいたでしょうか。

もちろん、だからこそ彼女は歴史に名を刻むことになったのですが。

オランダではフォッカー社のチーフ・パイロットからさらに追加の指導を受け、
彼女は自信と熱意をもってアメリカに帰国しました。
帰国後のアメリカメディアと世間は、以前より一層彼女を持てはやし、
重要なイベントはもちろん、メディアののインタビューを受け、
白人、黒人どちらの側からも
カーチス”JN-4”を駆る
「クィーン・ベス」は賞賛されることになります。



ベッシーは、第一次世界大戦に参戦したアフリカ系ヴェテランのために、
ロングアイランドでエアショーを開催。
この時のスポンサーはもちろん「シカゴ・ディフェンダー」でした。
ショウにはほかに8名のエースや、黒い落下傘で降下展示をした、
やはりアフリカ系の
ユベール・ジュリアンなどが出演し、
観衆の喝采を浴びたといいます。


人気の出た彼女には映画へ出演のオファーも来ました。
「光と影」という映画で、アフリカ系企業の出資によるものでした。
彼女はそれが自分のキャリアと、経営していた飛行学校の宣伝のために
一旦は引き受けますが、

「彼女がボロボロの服を着て背中に荷物を背負い、杖をついて現れる」

という予定された最初のシーンを知った瞬間、出演を拒否しました。

なぜなら彼女は飛行家として、時流に対し、
便乗することを良しとするオポチュニストでしたが、

自分の属する民族問題に対しては
決してオポチュニスト(日和見)でいられなかったからです。

そしてほとんどの白人が持っているほとんどの黒人への
軽蔑的なイメージを
踏襲する一助を担うことを良しとしなかったのでした。


しかし、飛行家としての彼女には厳然たる人種差別の壁が立ち塞がっていました。
ここで何度かアメリカ航空界の黎明期における女流飛行家を語ってくる中で、
彼女たちの飛行キャリアの証明でもある
「パウダーパフ・ダービー」に何度も触れましたが、

この「パウダー・パフ」の出場者の一覧を見てください。

THE FIRST WOMAN'S NATIONAL AIR DERBY

当然ですが、全員が白人女性です。
これが当時のアメリカだったのです。

いくら変わった経歴で多少世間の耳目を集めたところでそれは
「黒人のくせに頑張っている」程度の関心であり、
いざとなると有色人種は
「飛行家」のうちには入れてもらえなかった、
ということでもあるのです。



彼女はその現状をを少しでも「ブレイクダウン」するために、
黒人のパイロットを養成することのできる専門学校の創設を決意しました。

しかし、残念ながらそれを成し遂げるほどの時間は
彼女には残されていませんでした。



1926年4月30日。

彼女は購入したばかりのカーチスJN-4
ショウのためジャクソンビルに向かっていました。

ジェニーという名のその飛行機で彼女が飛ぶことを、
本人はもちろんのこと、
もはやだれも危険であるなどとは
夢にも思わなくなっていました。


次の日のショウでのパラシュート降下を予定していたため、
彼女はそのときシートベルトを外し、コクピットから地形を確認するために
大きく身を乗り出して地上を確認していたと思われます。

次の瞬間、10分間もの間飛行機は謎のスピンを起こし、
ベッシーは610メートルの高度で飛行機から振り落とされ、
地面に墜落して即死しました。


同乗していたナビゲーターのウィリアム・ウィルズは
機を立て直そうとしましたが、
コントロールを失った「ジェニー」は
地面に激突し焼失。

ウィルズも即死でした。

後から機体を調べたところ、エンジン修理に使うレンチが
ギアボックスに滑り込んでいて、
中で詰まっていたことが判明しました。


ベッシー・コールマン、34歳の早すぎる死でした。


アフリカ系アメリカ人のための飛行学校を創設するという彼女の希望は、
彼女の死によって潰えたということになりますが、彼女の死後、

「ベッシー・コールマン・エアログループ」

が創設され、ウィリアム・パウエルがプロモーターとして、
アフリカ系の才能開発に当たりました。

1931年、これはまさに「ストレンジ・フルーツ」のあのリンチ事件の次の年ですが、
このグループの主催によって、シカゴでは、
すべて黒人パイロットによるエアショウが行われ、
15000人もの観客を集めています。

しかしその後、このグループもまた大恐慌の影響を逃れることはできず
閉鎖されました。




とにかく彼女のなした先駆者としての業績が
後に続くアフリカ系の若者に希望を与えたことは間違いないことなのです。

エアログループのプロモーターを買って出たウィリアム・パウエル・Jr.は、
アフリカ系軍人であり作家でもあったのですが、
小説「ブラック・ウイングス」をベッシーに捧げ、
その中で

「我々は人種の壁よりさらに厄介なことを克服しなければならない。
それは自分たちの心の中にこそ存在する障壁を克服することすら、
あえて夢にしてしまうことだ」


と語っています。
パウエル・Jr.はベッシーと並び称されるアフリカ系パイロットの先駆者の一人ですが、
第一次世界大戦で従事させられていたガス取扱いの任務が原因で病死しています。






そして時は流れて2005年。

のちのアメリカ史上初のアフリカ系大統領、
バラク・オバマが上院議員に就任していたこの年、

U.S 
コーストガードに若いアフリカ系の女性が
パイロットとして採用されました。


ラ・シャンダ・ホームズ(La'Shanda Holmes)20歳。

孤児院で成長した彼女は逆境の中優秀な学業成績を収めていました。
そんな彼女の人生を変えたのが「チアー・デイ」にあった
沿岸警備のリクルートコーナーです。


基礎知識に始まりトレーニングとそれに次ぐスクリーニングを経て、
彼女は
回転翼操縦の資格を得、
MH-65Cドルフィンのパイロットとなりました。


アフリカ系の女性がU.Sコーストガードのパイロットになったのは
これが初めてのことだそうです。




 

 


女流パイロット列伝~パンチョ・バーンズ「リアル・キャラクター」

2013-10-08 | 飛行家列伝

飛行の黎明時代、男性に少し遅れて現れた女流飛行家たち。
今日残るパイオニアの写真を見ると、不思議なくらいの「美人揃い」です。

先日ご紹介したルース・エルダーはすぐさま映画界からのスカウトがあり、
あるいは旅芸人だったマージェリー・ブラウンも、目を見張る美貌の持ち主。
その実力と実績で絶大な人気があり歴史に名を遺したアメリア・イアハートも、
美人ではありませんでしたがキュートでボーイッシュな外貌が人気に拍車をかけました。

つまりこのころの女流飛行士たちが空を飛ぶためには、何らかの形の「支援」が必要で、
そのスポンサーとなるのが企業という「男性」であり、世間がそれを要求するがために
「美人でないと飛行家にはなれない」
というくらいの不文律があったのだと思われます。


という話を逆説の枕にしてしまうと失礼になってしまいそうなのですが、
この写真の女性は、その「楚々とした風情の女性が空を飛ぶ」という、
いわゆる「お約束」を完璧に覆しながら、かつその世界で絶大な人気があった、

フローレンス・ロウ・ ”パンチョ”・バーンズ。



彼女は女流飛行家としてはトップクラスの実力を持ち、
一度はアメリア・イアハートの最速記録を破っていますし、
以前お話しした「パウダー・パフ・ダービー」にも参加しています。

何と言ってもその後彼女は、アメリカで最初に「飛行スタント」のパイロット組合を創設し、
自分が飛んでいたという強者です。

そして、その豪快なキャラクターで、アメリカ中から愛された飛行家でした。



この「パウダー・パフ」の時の写真を見ても、当時の女流飛行家が
「美貌か、実力。間は無し」
の世界であったことがうかがい知れますね。
スタイル抜群、美人のルース・エルダーは右から2番目。

パンチョはもちろん左端です。

彼女は1901年、カリフォルニア州パサデナ(高級住宅街)に豪奢な邸宅を持つ
裕福な家庭に生まれました。



祖父は南北戦争時代陸軍で活躍した軍人で、アメリカ軍に航空隊を創設する
立役者ともなった人物、タデウス・S ・C・ロウです。

そんな祖父に10歳の時に航空ショーに連れて行かれたフローレンスは、
当然のように飛行機に憧れる少女となります。
しかし当時の女性ですから、18歳の時に結婚。お相手は牧師でした。



これは母親の意向でなされた、本人的には気に染まない結婚だったようで、
彼女はすぐに離婚してしまいます。

母親は彼女に上流階級の子女として相応しい装いをさせるべく
フランスから服やランジェリーなどをわざわざ購入して、
思春期の彼女に与えたりしたそうですが、フローレンスという名の割には
女性らしくすることを全く好まなかった彼女は、その、レースのたっぷりついた
ランジェリーの引き出しを決して開けることはなく、
ズボンに乗馬ブーツを好んで履くような女の子であったということです。

まあ、「自分に似合わない」ことを自覚してたんでしょうね。


そして、離婚した彼女はどういうわけかメキシコに向かうのでした。



パサデナというところは、ロスアンジェルス郊外の超高級住宅街で、
実はわたしたちがLAに住むかもしれないという話になった時に、一度見に行ったことがあります。
うっとりするくらい美しい邸宅の立ち並ぶ街で、そこには古いリッツカールトンがあり、
こんなところに住めたらもう日本に帰れなくてもいい、とすら思ったものです。
あの町の、英語で言うところの「マンション」(豪邸)に生まれ育った名士の娘、
すなわち「お嬢様」であった「フローレンス」がなぜ「パンチョ」になったのか。

冒険を求める気持だったのかどうかわかりませんが、とにかく彼女は
メキシコ革命のさなか、女だてらにかの地に渡り、これもいきさつはわかりませんが、
なんと武器弾薬を調達するパナマの武器密輸業者と行動を共にするようになるのです。

”パンチョ”というのはその際に付けられたあだ名で、なぜ男名前かというと、
彼女はその間男装していたからなのだとか・・・・。



若かりし日のパンチョ。
どうやらヘビースモーカーだったようですね。
しかしこうして見ると、知的な人間特有の、力強い光を持つ目をした、
魅力的な女性であることがわかります。

4か月のメキシコ滞在のあと、パンチョはカリフォルニアに戻ります。
両親の死により莫大な財産を継承することになったからでした。

まあ、このあたりがしょせんは「お嬢様の革命ごっこ」で、彼女が決してメキシコ革命に
骨をうずめる気がなかったことがわかります。
この「冒険」で彼女は「フローレンス」という名を捨て、その代わりに得たのは
”パンチョ”という「第二の名前、そしてキャラクター」でした。



そして彼女は次のスリルを今度は空に求めます。

第一次世界大戦のベテランでもある従兄弟のベン・ケイトリンを自らの教官にし、
飛行訓練を経て曲乗りの才能を開花させた彼女は、地方巡業の「航空ショー」を立ち上げ、
自らもそれに参加します。

飛行家”パンチョ”・バーンズの誕生です。

彼女は「リアル・キャラクター」と言われた強烈なキャラクターの持ち主で、
たとえば喫煙の仕方や、ダービーの宣誓での人をちょっと驚かせるような発言などに加え、
若い時からいわゆる「女傑」「姉御」タイプだったようです。

後年「ハッピー・ボトム・ライディング・クラブ」というバーのマダムとなり、
そこには近接のエドワーズ空軍基地の空の男たちがいつしか集うようになるのですが、
その中からは著名なパイロットや、あるいは宇宙飛行士になった者がいました。

先日映画「ライト・スタッフ」について特集を組んでお送りしましたが、この映画では
パンチョとそのバー、そしてそこに集うテストパイロットたちが描かれています。

飛行家として腕利きであっただけでなく、人が自然に周りに集まるような、
真に魅力のある人間であったのでしょうね。

「ハッピー・ボトム・ライディング・クラブ」では、彼女は
「エドワーズ空軍基地の母」と呼ばれていました。

どちらかというと雰囲気から言って「おっかさん」「おふくろ」という感じでしょうか。

 

1929年の女子エア・ダービーではパンチョはクラッシュしてしまいますが、
そんなことにはめげないパンチョ、翌年にはユニオン石油をスポンサーに、またもや復活。

墜落事故で重傷を負ったとたんに飛ぶのをやめてしまった日本の女性飛行家、
木部シゲノなどと比べると、やはりアメリカの女はタフだなあと思わずにいられません。

 

アメリア・イアハートの女子による最速記録を破ったのもこのころです。
レコードは 196.19 mph (315.7 km/h)。



ユニオン石油との契約が終了したのち、パンチョはハリウッドに移ります。
映画のためのスタントパイロットとして活動を始めたのでした。

モーションピクチャーで仕事を始めたパンチョは、スタント飛行パイロットの安全、
そして安定した賃金の供給を求める飛行家の組合を立ち上げます。

1930年のハワード・ヒューズの監督による映画「地獄の天使」の飛行シーンは
全てパンチョの率いるスタントクラブによるものです。



彼女はハリウッドにおいて絶大なコネクションを持っていました。

たとえば、MGMの有名な肖像カメラマンになったジョージ・ハレルも、
彼女がハリウッドのコネクションを通じて紹介し、そこで活路を見出した人物です。



ジョージ・ハレルの撮影によるパンチョ・バーンズ。

皆さんが記憶にあるモノクロームの「ボギー」ハンフリー・ボガートや、ジーン・ハーロウ、
こういった有名な写真のほとんどがこの写真家の手によるものといってもいいくらいです。



綺麗どころに囲まれたパンチョ。
この女性たちは彼女が面接し採用した、クラブのための「ホステス」たちです。


最初の結婚の後、見かけは中性的であっても「恋多き」女であった彼女は
その生涯に4回の結婚をしています。
4人目の夫は、見た目も明らかな年下の美青年でした。

しかし彼女自身、知人にこっそり語ったところによると

「生涯でもっとも愛した男は、殉職したテストパイロットだった」

ということです。



1930年代、アメリカを大恐慌が襲います。

女傑と言えどもこの嵐から逃れるすべはなく、1935年になって
彼女の手元に残っていたのはハリウッドのアパートただ一つでした。

タフな精神と周りを引き込んでしまうようなユーモアあふれるキャラクターで
人生を力強く生きてきたパンチョでしたが、さらに突然悲劇が連続して襲います。

彼女と、多くのパイロットたちの精神のよりどころであった
「ハッピー・ボトム・ライディング・クラブ」が、不審火によって全焼してしまったのです。

そして追い打ちをかけるように、右胸にできた悪性腫瘍を「良性」であると誤診され、
対処が遅れた結果、右切除したときには左側にも癌ができていることがわかり、
彼女は両方の胸を手術によって切除することになったのでした。

しかし、彼女は最後まで自分の不幸をユーモアで吹き飛ばしてしまう強さを持っていました。
彼女の知人はこう語っています。

「わたしが彼女から学んだことがひとつあるとしたら、誰かを傷つけるものでない限り、
たとえどんな種類のものであっても、笑い飛ばして構わないのだということかもしれない」

彼女は、病気について尋ねられた時にはあっけらかんと相手に手術跡を見せたり、
郵便局で乳がん切除患者用のパッドを受け取ったときにはその場で梱包を開き、

「見て見て!やっとわたしの胸が届いたの!」

とスタッフやほかの客に見せたりしました。
ユーモアに自分の内心の苦しみと死の恐怖を紛らせようとしていたのかもしれません。



彼女の死はあっけないものでした。

1975年4月5日、彼女の息子ビルが3月30日に電話が通じなかったという知らせを受け
自宅に行ってみると、死亡してすでに数日経ったと思われる母の遺体がありました。




日本ではほとんど無名と言っていいパンチョ・バーンズ。
しかしアメリカでは有名で、このように映画も作られています。
パッケージを見る限り女優さんがきれいすぎて、まったくリアリティを感じませんが・・。

彼女の魅力は要するに外貌とかそういうこととは全く別にあったのだから、
こんなところで「修正」しなくてもいいのにと思うんですが。


ところで、日本では無名ですが、日本語でこの名前を検索すると
真っ先に出てくるのが「大空の開拓者」シリーズのフィギュア模型。
それはいいのですが、その商品に付けられた説明が

「伝説的女流飛行士。エドワーズ空軍基地のテストパイロット

という嘘八百の情報で・・・orz

まあ、こちらは映画と違ってパンチョの容貌には一応似ています。



息子のビルは、アメリカ空軍の特別の許可を得たのち、火葬にした彼女の遺灰を、
愛した「ハッピー・ボトム・ライディング・クラブ」の跡地上空でセスナ機から撒きました。

飛行家、フローレンス・”パンチョ”・ロウ・バーンズの、最後の「グッド・ジョイ・ライド」でした。







 




 


女性パイロット列伝~ヴァレリー・アンドレ「マダム・ラ・ジェネラル」

2013-10-02 | 飛行家列伝

マージェリー・ブラウン MARGERY BROWN

「自由へと飛んだ女」


この夏訪れた航空博物館のうち「オークランド航空博物館」「ヒラー航空博物館」の二つが、
「女性パイロット」のコーナーを持っていました。
お届けしている写真はすべてそこで撮ったものです。

その中でも特に美しい容貌で目を惹いたのがこのマージェリー・ブラウン

彼女は歴史に大きな名を残しませんでしたが、当時は女性の飛行家の一人として
1930年代、非常に雄弁な「スポークスマン」の役割を果たした女性でした。

旅芸人であった彼女はそのエンターテイメント性と美貌を武器に(多分)発言の機会ごとに
空を飛ぶことは女性に自立と自信、そして自己独立を促すものだという自説を語りました。

「なぜ飛びたいか、ですって?

空と大地の間にいるときに、神様に近づけるように思えるからよ。

そこには壁があったら決して与えられない精神と心の平和と満足があるからよ。

飛行機が飛ぶのを見るとき、わたしはただすべてのものの上にアーチを描いてみるの。

流行だとかスリルとか、プライドのためじゃないわ。

女は自由を求めているのよ。空に。

彼女らは『女性らしさ』の呪縛から高く飛び立つんだわ。

飛ぶことは規制から本当の自由を手にすることなのよ」






ヴァレリー・アンドレ(Varerie Andre)1922~

「エンジェル・オブ・マーシー」(慈悲の天使)
「マダム・ラ・ジェネラル」

ヴァレリー・アンドレはフランス陸軍の軍医でありヘリコプターのパイロット。
先日ヒラー航空博物館のヘリコプターの説明で、
仏印戦争において最初に戦場からへりで脱出した人物、という紹介をしたアンドレですが、
女性男性関係なく、ヘリコプターを使って戦闘による負傷者を搬送した、
つまり史上初のドクターヘリ・ドクターでもあります。

そしてマダム・アンドレ(フランス人なのでやはりこうでなくてはね)は、女性として
初めてフランス陸軍で将官にまで昇進した人物で、あだ名は「ラ・ジェネラル」
「ラ」はフランス語の「女性冠詞」で、階級に「ラ」をかぶせてそれがあだ名になるくらい、
女性の将軍は珍しいということでもあります。

それにしても、神経外科医であり、陸軍の軍医であり、当時最先端のヘリパイロット。
しかもこの写真に覗う限り、実にエレガントな美人。

まさに天が二物も三物も与え給うた稀有な女性であったわけですね。

マダム・アンドレは1981年、それまでの将官から医学監察官に昇進します。
この「監察官」というのは日本にもある制度で、Inspecter general、略してIGといい、
官庁など内部の観察を要する機関に対して置かれ監督を担当する職名です。

ちなみに我が国自衛隊におけるそれは
監理監察官といい、
たとえば陸自と海自におけるその役職には将補が務める「幕僚監部」があり、
空自はどういうわけか陸海とは違って監理監察官という冠称がつきます。


陸軍軍医大尉としてインドシナ戦線に赴いたアンドレは、そこで、
ジャングルに閉じ込められた負傷者の回収の難しさを目の当たりにします。
そこで、彼女はヘリコプターを自らが操縦して彼らを収容することを考えました。

いったんフランスに帰ってヘリコプターの操縦を学んだ彼女は、そのまま単身
インドシナに自分の操縦で戻ってきます。

そして1952年から3年の一年間に、彼女は129回のミッションによってヘリをジャングルに飛ばし、
165名もの将兵救助を行いました。
緊急の手術を要する負傷者のために、彼女は二回、パラシュート降下をしています。

ジャングルに向けて単身パラシュート降下を決行するだけでなく、
その直後負傷者を救うための緊急手術を行う。
この勇気ある軍医はしかも若い(当時アンドレは30歳)女性です。

たとえば彼女の典型的なミッションの一つはこのようなものでした。

1951年12月、Tu Buで起こった戦闘の犠牲者たちは、
一刻も早くブラックリバーのから脱出を必要としていました。

たった一つ使用可能なヘリは、解体されていて組立て直さねばなりませんでした。
当時大尉だったアンドレは、濃い霧と対空砲火にもかかわらずそのヘリに乗ってTu Buに飛び、
たった一人でトリアージと応急手当てを行い、緊急を要する患者の手術と、
負傷者をハノイまで連れ帰るということを二回にわたってやってのけています。


1960年になるとアンドレは、1954年から勃発していたアルジェの独立戦争に、
軍医司令として参加することになります。

このアルジェリア戦争アルジェリアの内戦であると同時に、
アルジェリア地域内でフランス本国と同等の権利を与えられていたコロンと呼ばれるヨーロッパ系入植者と、
対照的に抑圧されていた先住民族
(indigene,アンディジェーヌ)との民族紛争であり、
親仏派と反仏派の先住民同士の紛争であり、
かつフランス軍部とパリ中央政府との内戦でもありました。

まあ要するにアルジェリアを舞台にあっちこっちの戦争となっていたわけです。
が、植民地として支配する側とされる側にこのような紛争が起きない方が不自然なのであって、
それというのも日本という国が白人優位の世界秩序にくさびを打ち込んだ戦争が終わっても、
「戦勝国」(笑)として相変わらずあちらこちらに植民地を持ち続けていたフランスという国は、
この戦争でかなり手痛いしっぺ返しをくらったという面があるのではないでしょうか。


ところで余談ですが、「国連」の正式英語名称をご存知でしょうか。

United Nations Security Councilですね?

この「ユナイテッド・ネイションズ」、日本では「国連」と訳していますが、
実はなんのことはない、「連合国」なんですよ。
第二次世界大戦における日本、ドイツ、イタリアの「枢軸国」に相対する「連合国」が、
「戦勝者グループ」として常任理事国に収まっている「安全保障委員会」。

つまり、第二次大戦の終戦処理の際に打ち立てられた世界秩序に基づいて
この国連というのは組織されているのです。

ですからよく言われますが、日本は世界で二番目に多い拠出金を
唯々諾々と払わされているのにいまだに「敵国条項」から外されていません。
ドイツもです。
今や世界でも常に「いい影響を与える国」のトップを競り合っているこの元枢軸国が
(枢軸国にもう一か国あったような気がしますが、それは置いておいて)
国連的には「敵国」なんですね~。

そして別に勝ったわけでもない中国が、常任理事国という不可思議な地位を得ているのも、
つまりは東京裁判で日本を裁いた側だったからなのです。

フランスが、親独政権のおかげでドイツに占領されるがままで、
「フランス軍って何やってたの?そもそもいたの?」みたいな状態だったのに
現在国連常任理事国であるのもまったくこれと同じ。
つまり「連合国側」にいて、やはり報復裁判で両国を罰した側だったからです。

ついでに言うと、常任理事国にロシアなんちゅう国が入っているのも、
日ソ不可侵条約をガン無視して、火事場泥棒のようにぎりぎりになって参戦してきて、
これも「戦勝国」の立場で東京裁判をしたからなんですね~。


まったく、ふざけんなよ(怒) 


・・・・・・・・・・・・・・・。

えー。

話をアルジェリア紛争のドクターヘリに戻します。
この戦争中にアンドレは通算365回目、飛行時間320時間のミッションを果たします。

そして、その功績を称えられて7つもの「クロワ・ド・ゲール(戦争の十字架)」勲章を与えられました。



傷ついた兵士たちの目には、天から降下してくるこの女性が「天使」に見えたに違いありません。
そして、フランス軍の将兵から、彼女は「慈悲の天使」というあだ名で呼ばれることになります。



ここに語った二人の「飛ぶ女性」には、時代の違いだけでなく大きな違いがあります。
マージョリーの時代、女性は「飛ぶこと」そのものが自由への逃避でもありました。
「なぜ飛ぶか」
ということに女性の人権解放の意味すら重ね、まさに飛ぶことが「目的」であったわけです。

しかし、それから30年の間に、航空機のあり方も、女性の地位も大きく変わりました。

少なくともマダム・アンドレのように優秀であったり、並みの男性より巧みに戦闘機を駆り、
「エース」と呼ばれたソ連空軍のリディア・リトヴァク中尉のような女性パイロットすら出現しています。

「何のために飛ぶのか」

マージェリーがスポークスマンとなって熱く語った「飛ぶ理由」は、マダム・アンドレにとっても
リディア・リトヴァクにとっても考える必要もないことだったに違いありません。

彼女らにとってすでに「飛ぶこと」は目的ではなく、単なる「手段」となっていたからです。


並み居る女性パイロットのなかでもこのヴァレリー・アンドレは、その飛行によって
医師である自分の価値を最大限に生かしたという点で、最もその業績を称えられており、
フランスでは最高殊勲賞であるレジオン・ド・ヌール勲章を持つ8人の女性の一人です。
彼女は2013年8月現在、91歳でまだ健在だそうです。



ところで、これが本題みたいになってしまいますが、国連の常任理事国についてもうひとこと。

現在常任理事国入りを希望している国は、4か国。
日本、ドイツ、インド、ブラジルです。

この4か国の常任理事国入りに反対しているのは、
いずれも

その国の周辺諸国

なのだそうです。
立場上、「4か国全部反対!」とは言っていますが、実は、

日本には中国と韓国、
ドイツにはオランダ、スペイン、ポーランド、チェコ、オーストリア、イスラエル、
インドにはパキスタン、
ブラジルにはアルゼンチン、コロンビア、メキシコ

が反対しているんですね。
隣同士のと仲のいい国はない、とよく言われますが、まさにそれを表していて、
なかなか面白い結果ですね。 

それにしても、韓国は何かというと日本に「ドイツを見習え」と言ってきますが、
これ、ドイツの周辺諸国やイスラエルにしたら噴飯もの(本来の意味の)なんだろうな。



 


女流パイロット列伝~アメリア・イアハート「クィーン・オブ・ジ・エアー」

2013-09-28 | 飛行家列伝

サンカルロスの「ヒラー・エビエーション・ミュージアム」に行ったとき、

「アメリア・イアハートだわ!」

と言って、この有名な女流飛行家の写真の前に立ち、
連れの男性に自分の写真を撮ってもらっていた女性がいました。

チャールズ・リンドバーグをしらないひとがいないように、
アメリア・イアハートのことを知らない者は世界でありません。
日本での知名度はそうたいしたことはありませんが、アメリカ本国では
彼女はいまだに国民的な英雄なのです。

単独による大西洋温暖飛行を女性で最初に達成したほか、輝かしい記録を次々と打ち立て、
かつその素顔は知的でシャイな面を持つチャーミングな女性飛行家。
その謎に包まれた最後はさまざまな憶測を呼び、神話を生み、
こんにちもその足跡を追って熱心な研究を続けている人たちがいるほどです。

ここで彼女の樹立した主な記録を一覧にしておきましょう。
 

  • 女性による達成高度の世界記録:14000フィート(1922)
     
  • 女性として世界初の大西洋横断(1928年)
     
  • オートジャイロで飛行した最初の女性(1931)
     
  • 世界で最初にオートジャイロで米国を横断(1932)
     
  • 女性初の空軍殊勲十字章授与者(1932)
     
  • 女性としては最初に東海岸から西海岸までを飛行(1933年)
     
  • 女性による大陸横断最速記録(1933年)


ここに挙げたのは「女性として」という冠が付くものが多いですが、
彼女は 

ホノルル(ハワイ)‐オークランド(カリフォルニア)
ロサンゼルス(カリフォルニア)‐メキシコシティ(メキシコ)
ニューアーク(ニュージャージー)‐メキシコシティ(メキシコ)

間の単独飛行を男性女性関係なく最初に達成しており、なお、

オークランドからホノルルまで、イースト・トゥ・ウェストの最速記録(1937)

を持っていました。

「女としてはすごい」ではなく、真に実力のある飛行家だったということです。
その飛行は繊細で、天性のカンを持ち、

『飛ぶために生まれてきたかのようにデリケートなスティック捌きだ』

と一緒に飛んだプロの男性パイロットは皆、彼女を激賞したそうです。




1897年、アメリア・イアハートはカンサス州のドイツ系アメリカ人の家庭に生まれました。

幼いころからお転婆だったアメリアは、野山を虫を取ったりして走り回るような子供で、
7歳のある日、納屋の屋根から通りにトタンを渡して自家製の「ジェットコースター」を作り、
それをすべり降りた・・・・と思ったら、乗っていた箱は地面に激突して潰れてしまいました。
しかし彼女は唇を怪我しながらも爽快な顔つきで箱から現れ、見ていた妹にこう叫びました。

「ああ、ピッジ、 まるで飛んでるみたいだったわ!」


理系少女だったアメリアはコロンビア大学で医学を学ぶために入学しますが、
肌が合わなかったのか一年で退学し、第一次世界大戦では看護助手をしています。

たまたま友人と訪れたカナダ・トロントの博覧会でアメリアは
第一次世界大戦時のエースの展示飛行を見、すっかり飛行機に魅せられます。
それが一時代を築いた「テキサコ13」乗りの飛行家、フランク・ホークスでした。
彼の飛行学校で操縦を習い、10分10ドルの飛行代と彼女自身の飛行機を買うために、
カメラマン、トラック運転手、電話会社での速記などでお金を稼ぎます。



負けず嫌いなアメリアにはこんな面もありました。

レザーの航空ジャケットを購入した彼女は、他のエビエイターの目を意識して、
ちょっとでもベテランらしい印象を出すために、三日間ジャケットを着込んで寝たそうです。
そして、イメージのため髪の毛を短く切ってまるで少年のようなスタイルに変えました。
そして、最初の飛行機、黄色いKinner Airsteの複葉機を手に入れます。

前回、映画スターでもあった飛行家、ルース・エルダーについてお話しした時、
チャールズ・リンドバーグが大西洋を横断するや否や、「最初にリンディに続く女性」
になるため次々と女流飛行家が名乗りを上げた、という話をしましたが、
この「名乗り」というのは、どうやら「これは商売になる」と踏んだ「仕掛け人」が、めぼしい女の子、
つまり出資する企業のイメージにぴったりな女性の飛行機乗りを探しに探して
これを成し遂げさせようとするコマーシャリズム紛々の「イベント」であって、
ほとんどの女性はこれに「乗った」という構図らしいことがはっきりしています。

アメリアに声がかかったのも、そもそも最初にエイミー・フィップスゲスト(1873~1959)
に白羽の矢を立てたものの、彼女では実力不足、ということで、
エイミーの代わりを探していたからです。


1928年の4月、アメリアはヒルトン・R・ライリー大尉と名乗る人物から電話を受けます。

「大西洋を飛んでみませんか?」

これが飛行家アメリア・イヤハートの始まりであり、後に夫となる出版業者であり、
彼女のコーディネイター、ジョージ・P・パトナムと出会うきっかけでした。



アメリア・イヤハートのことを調べていて初めて知ったのですが、
どうも最近、彼女の映画ができていたようです。

このパトナムを演じているのがリチャード・ギア


つくづくこの俳優は、こういう
「プリティー・ウーマンの王子様役」みたいな、女性をあれこれドラマチックに変える、
「マイフェアレディ―」のヒギンズ教授みたいな役がぴったり、と思われているらしいですね。
そしてギアはともかく、このアメリアを演じている女優が、写真を見る限り本人そっくり。

アメリアのその他についてはこの映画を観てから書くことにします。

ともあれ彼女はこの誘いにより

「初めて大西洋を横断した女性」

の称号を獲得したわけで、これ以降輝かしい飛行家人生を、
その謎に満ちた死を遂げる日まで歩み続けるのです。

しかし、ここでひとつ疑問が。

やはりルース・エルダーのときにお話ししたようにこの時の「横断」とは、
即ち男性パイロットの横に乗っているだけだったんですよ。

「それの何が快挙なのだろう」

と現代の私たちには奇異にすら思われるわけですが、当時の女性が
旧式秩序の因習に満ちた世界で女性らしさのステロタイプを要求されていたことを考えると
「女だてらに飛行機が操縦できる」
というだけで世間的には十分センセーショナルなことだったのです。
ですから、おかしな話ですが、

「飛行機の操縦ができる女性が

飛行機に乗って(操縦しなくても可)


大西洋を初めて横断する」


ということそのものが、競うに十分意味のある栄光だったということのようです。

さて。

19286月17日、ニューファンドランド島からウェールズを目指したフォッカーF.VIには

正操縦士、副操縦士兼エンジニア、そしてアメリア・イアハートが

チームとして乗り組んでいました。
そう、アメリアは副操縦士ですらなかったのです。

着陸後のインタビューで彼女はこのように語りました。

"Stultz did all the flying—had to.
I was just baggage, like a sack of potatoes.

”シュトルツ(正操縦士)が皆操縦したの・・・・しないといけなかったの。
わたしはただの荷物よ。ジャガイモの袋みたいなものよ”

ジャガイモの袋みたいな立場で「世界初」とか言われても、みたいな
彼女の小さな自嘲と反骨精神が垣間見える発言です。

この時に「仕掛け人」から声をかけられて「レディ・リンディ」の栄誉を目指した女性は
何人かおり、ことごとく失敗しているのですが、前述のように、自分が操縦しないまでも
命の危険のある飛行にか弱い女性の身空で挑む、ということに挑戦の意義があったわけです。

ですから彼女たちにとっては「芋の袋」となって飛ぶことそのものがゴールであり、
その結果得られる栄光が目標であったと思われます。

しかし、アメリアが「クィーン・オブ・ジ・エアー」アメリア・イアハートとなることができたのは、
こういう「女としての特別扱い」に甘んじず、むしろ反発し、
「次を目指す気持ち」を持っていたからこそでした。


彼女は自嘲的な「芋の袋」宣言の後、こう付け加えています。

"...maybe someday I'll try it alone."

「いつかわたしは自分一人で挑戦するわ」

その言葉通り、この飛行から5年後の1932年5月20日、アメリアは
チャールズ・リンドバーグのパリへの単独飛行と全く同じルート、
ニューファンドランド島のグレース湾からロッキード・ベガで出発します。

機械の故障でパリに到着することはできず、アイルランドの牧場に着陸したのですが、
ともかくこれは女性による初めての大西洋単独横断飛行となったのです。









女流パイロット列伝~ルース・エルダー「アメリカン・ガール」

2013-09-23 | 飛行家列伝

男の世界、と言われてきた航空パイロットの世界ですが、
黎明期からこれに挑戦する女性はたくさんいました。

現在は日本でも民間機の機長に10数名の女性パイロットがいますし、
回転翼や小型機、輸送機のパイロットは自衛隊に多数います。
よく考えるまでもなく、女性が飛行機の操縦において男性に「女性だから」と
不利になる原因というのはありません。

「資質」を言うなら、それは個人差であり、決して性差ではないのですから。

ただ、なりたいと思うものの母数が少ないと、希少さゆえ珍しがられて
一般のパイロットより過大に評価されがちという点はあったかもしれません。


そういえば、わたしがグランドキャニオン観光をした時の行きのセスナ、
この機長が(コパイではなく)女性でした。
まるで、のちにお話しするアメリア・イヤハートのような金髪で背の高い、
ほとんど青年のように見えるボーイッシュな「ハンサム・ウーマン」で、
あまりのかっこよさにほれぼれしたついでに、降りた後は一緒に写真を撮ってもらったほど。

発進の様子を見ていると、天井から下がったギアを二人で同時に手を重ねて前に押すときに
かなりの力がいるらしく、どちらの腕にもものすごい筋肉が浮いているのを見て、

「やはり操縦士というのは力仕事の部分もあるのだな」

と思った覚えがあります。



今一度アメリカで操縦士と思しき女性を目撃したのは、なんとサンフランシスコ動物園。
ここに、当時幼稚園児の息子を連れてきたときにトレインの順番を並ぶ列の前にいた二人組。

この片方がパイロットで、もう一人は彼女の”ガールフレンド” でした。

なぜこの、やはり背の高い筋骨隆々の女性がパイロットだとわかったかというと、
彼女の着ていたTシャツに、彼女の所属であるらしいヘリ部隊の記章とナンバーが書かれていたからで。

当時サンフランシスコに来て間もなかったので、白昼堂々このようなレスビアンのカップルを
しかも間近で見ることは初めてのことで、物珍しさについ観察してしまったものです。

そして面白いと思ったのは、このカップル、男役と女役が実にはっきりとしていて、
女性役のほうは髪を長く伸ばし、女らしい恰好をして、男性役の腕にぶら下がるようにしていたこと。

同性愛のカップルは、特に男性同士のそれはその後いやっっっというほど見ることになるのですが、
総じて言えるのは、こういう同性同士のカップルというものは、
必ずどちらかが「異性役」を務めて成り立っていることです。

完璧に対等な同性同士の「付き合い方」というのはもしかしたら存在しないんじゃないか。
「ゲイの聖地」であるところのサンフランシスコ生活でわたしが発見した一つの真理です。


話が脱線しましたが、ともかく、この女性同士のカップルにおいて男役の女性がパイロット、
しかも軍人である、ということは、女性役(って女性ですが)にとって「惚れるポイント」
であったのではないか、という気がしました。

とにかく、パイロットが女性にとって「男性に比して」「ハンディを克服する仕事」であるのは間違いありません。


と こ ろ で 。


冒頭の超美人、どうですか?
まるで映画女優みたいじゃありませんか。

もっとも女優みたいもなにも、この女性は事実女優でもあったんですね。
おそらく美人がパイロットとして有名になったから、映画会社がオファーをしたのだと思われます。



見よこの蓮舫を凌ぐ高さを持つ襟の屹立する様を。

いかにも仕立てのよさそうなエビエーションジャケットに、襟の大きなシャツ、
ネクタイがきりりと彼女のフェミニンな美貌に凛々しさのアクセントを与えています。

コクピットから嫣然と微笑む彼女は、1902年生まれ。
このファッションを見てもわかるように、非常に裕福そうに見えます。
しかし、彼女は元はと言えばただきれいな顔をした、23歳の歯科助手にすぎませんでした。


1927年、25歳の時に彼女は大きな賭けに出ました。

女性として初めてスティンソン SM デトロイター機で大西洋横断飛行に挑戦したのです。
やり手であったらしい彼女は野望を達成するために「投資家チーム」を構築し、
そのなかに航空機制作会社の「スティンソン」が関連した人物もいたようです。

これは男性パイロットの操縦で、とありますから、単に横に乗っていただけということです。
操縦できるとはいえ、ただ横に乗っていただけなのに、なぜそれが快挙になるかわかりませんが、
なにしろそれまで誰もしたことがなかったのだから「初」は「初」です。

この挑戦には実は訳があって、その5か月前の1927年5月、チャールズ・リンドバーグが
こちらは正真正銘初の飛行機による無着陸大西洋横断に成功したため、

「太平洋無着陸横断した史上初の女性」
「レディ・リンディー」 


を目指して、何人かの女性パイロットがこれを目指したわけですが、ルースはこの
先陣を切ったというわけです。
彼女の回想によると

リンドバーグがパリに着いたとき、素晴らしい、と思ったの。
それでわたしがそれに続く最初の女性であろうと決心した。
でも一人でそれを行うことができなかったので、副操縦士ではなく、
乗客として行くことに決めたの」

” If I win, them I'm on top.
If I lose – well (with a shrug of her shoulders),
I have lived and that's that.”

 「もしわたしが勝てば、わたしはトップよ。
もしわたしが負けても・・・・そうね(肩をすくめて)わたしは生きてる、それはそういうこと」 


しかし、これを見ると思いますが、少なくともアメリカにおいて女性は、
こと航空の世界においては男性とほぼ同時にスタートを切っているのです。
「名誉を目指す」
ということに女性が意義を見出しそのように何人かが行動したのも、
これがアメリカだったからでしょう。

しかしながら、この挑戦は失敗に終わりました。

ニューヨークの空港からパリを目指して飛び立った(この目的地もリンドバーグと同じです)
ルースとパイロットのジョージ・ハルドマンの乗った愛機「アメリカン・ガール」ですが、
あと300マイルというところでオイル漏れと悪天候のため、不時着を余儀なくされます。


このハルドマンというのはルースの操縦の教官で、彼女はこのときに

まだ免許を取ってもいなかった

まだ免許を取ってもいなかった

まだ免許を取ってもいなかった

ことから、「女性初」の快挙をこの美人に遂げさせ、
あわよくばわが社の新型航空機の宣伝を、という、デトロイター社の「企画」
であったとの説が有力です。


まあ、いつの時代にもありがちですが、女性、特に「美人すぎる」女性を
宣伝に利用するのは、衆目を集めるという意味で非常に有効な手段なのです。

ルースを先陣として、その後何回かのチャレンジが行われましたが、あの
アメリア・イヤハートがフォッカー F.VII、「フレンドシップ」に搭乗して成功したのは、
なんと1928年6月。

リンドバーグの成功からわずか1年後のことです。

開拓者の血でしょうか。
アメリカの女性というのは実にチャレンジ精神に溢れていると思うのはこういう点ですね。
 
彼女の挑戦はかくして失敗に終わりましたが、彼女はアメリカ国民を魅了しました。
ライバルのイヤハートが内気で取材を受けるのを恥ずかしがるような人物だったのに対し、
彼女は自信に満ち溢れ、自分の魅力を知りつくし、自己プロデュースに長けてもいたのです。

帰還後すぐに彼女には映画へのオファーがあり、

「海兵隊のモラン」(Moran of the marines)
「翼の騎士」( The Winged Horseman)

などの無声映画に立て続けに出演します。
いずれも彼女の飛行シーンをふんだんに含むと思われる題ですが、
どんな映画か知ることはできませんでした。

しかしながら彼女にとって残念なことに、ちょうどこのころから世に出始めたトーキー、
即ちセリフ入りの映画に、彼女は全くと言っていいほど向いていませんでした。
理由は、アラバマ出身の彼女の強い南部訛りです


彼女は映画女優の道をわずか一年であきらめ、また飛行へと戻っていきます。
 
アメリア・イヤハートなど、20名の当時の全米の女流飛行家ばかりで行われた
エアー・ダービー、サンタモニカからクリーブランドへの飛行競争に参加し、
14人の完走者の一人になりました。

このレース中、一度彼女は牧草地に着陸を余儀なくされたのですが、
地面に降りていく間、彼女は

「ああ神様、どうかあれがブル(牡牛)ではなくただの牛ですように!」

と祈っていた、と自伝で述べています。
この時のダービーは「パウダー・パフ・ダービー」(お白粉パフ・ダービー)という
全く女性をおちょくったタイトルのものですが、これに出場した20名の女性パイロットの
顔写真を掲載しているページを見つけました。
綺麗な女性も何人かいますが、やはり洗練さの点でルースはダントツです。


当時、メディアのもてはやしはあったとはいえ、一般には女性というものは
家でオーブンの番をしているものだ、という考えは根強くありました。

彼女が最初の挑戦をした時に、彼女の声明をアイルランドのある新聞はこう酷評しました。

「空を飛ぶのは女性の仕事ではない。
飛行のための準備に関する彼女の声明は、若い女のおしゃべりとでもいうべきもので、
彼女の愚かな虚栄心を満足させるために危険を負いかねない完璧に馬鹿げた仕業である」

まあ・・・・確かに、彼女の人生、一介の歯科助手が企業をパトロンにしたり、
何が理由かはわかりませんが、6回も結婚していたり、演技もできないのに映画に出たり、
「虚栄心」「功名心」といった野心をたっぷりと持っていた女性であることは確かですが、
しかしそれではどんな理由なら「空を飛ぶ」ことに挑戦するのにふさわしいといえるのでしょうか。

リンドバーグが大西洋を横断した、その挑戦にはもれなく栄光が付いてきたわけですが、
リンディは「ただ飛びたい」と思っただけで、その栄光を全く求めなかったでしょうか。

綺麗な女性だからといって持てはやされもすれば、このようにその動機を必要以上に
矮小化される、これも「美人税」というものかもしれません。
彼女だって、リンディのように「飛びたい」と思ったから飛んだ、それじゃダメだったのかしら。


彼女はその後、パイロットとして腕を磨き、デモンストレーションなどで大活躍。
1929年には全米の女性パイロットのトップ5の中に入っており、少なくとも
女優業よりはずっとパイロットが彼女の適性に合っていたらしいことがこれからもわかります。
また女性パイロットの国際クラブ、Ninety-nine Clubの創設に携わるなど
女性パイロットの発展に寄与し、
1977年、6番目の夫の腕に抱かれ、サンフランシスコの自宅で72歳の生涯を閉じました。