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No956『モーツァルト・レクイエム』~美しく重なる声と弦のハーモニー~

映画が始まるとともに、
若い人から、老夫婦まで、いろんな人たちが
ベテルブルクのきらびやかなホールに入ってくる。
演奏が始まるまで、おしゃべりをしたり、
本を読んだり、思い思いに時間を過ごす観客たち。
ソクーロフ監督は、そんな一人ひとりの姿を丁寧にとらえていく。

やがて照明が消え、薄暗くなり、演奏が始まる。
黒いマントやドレスを着た合唱団の男女が現れる。
歩きながら歌っているところが、とてもすてきだった。
すれちがいざま、目をあわせたり、小さく会釈する人もいた。
カメラは、ソロの歌手もふくめ、合唱の歌い手一人ひとりの表情を
とらえていく。
声が重なり、ハーモニーが生まれていく。

はじめ、悲しく重いメロディに思わず涙が出た。
音楽に身をまかせ、心をあずけて聴いているうちに
いろんなことを考えてしまった。

中学の美術の先生が、
子どものころ、ベートーベンの音楽(曲名は失念したが)を初めて聴いた時、
目を閉じていたら、自然、わけもわからず涙が出たと話してくれた。
帰宅して、なぜか父に話したところ、
クラシックを聴いて泣くなんて変な先生だと、少し馬鹿にされ、
私はその先生にあこがれていたし、すてきな話だと思っていたので、
心の中で少し腹が立ったことを、なぜか思い出した。
今でも、私は、悲しい曲を聴くと、すぐ胸の中が熱くなって涙が出る。

十三のセブンシアターで活躍中で、
高槻セレクトシネマの閉館まで、
数々の上映プログラムを考え、尽力してこられたNさんが、
交通事故に巻き込まれ33歳の若さで亡くなられた。
映画への並々ならぬ愛情と情熱、
若いわりに、落ち着いた、おだやかな風貌に、
これからの人だと、映画ファンの誰もが思っていた矢先のこと。
あまりに悲しいことで、今でも、やっぱり信じられない。
高槻で、いっぱい、いい映画に出会えたのも、彼あってのこと。
せっせと高槻まで通った日々が夢のように思える。
本当にいい映画館だった。
彼の映画愛を、皆が少しずつ受け継いで
これからも、映画に愛をそそぎ続けること、それしかないのだろうと
寂しさの中で思う。

レクイエムを聴きながら、なぜかふと、わが身を振り返った。
自分の前世ってなんだったのだろうとか、そんなことを考えた。
音楽を愛する魂、文学、映画などなど、芸術を愛する、熱い心だけは、
どんなみすぼらしい浮浪者であっても、持っている人だったらいいなあと思った。
いい音楽が聴こえてこれば、素直に体中で反応できるような人。

よくよく考えたら、自分の前世がうんぬん、というのは、
前世の人から、何を受け継ぎたいのか、ということで、
つまるところ、
今の自分がどういう人間でありたいのか、
最低限、何を大切に生きていたいのか、
そんなことなのだと、今になって気がつく。
ならば、音楽を、映画を、文学を愛する熱い魂を持ち続けたい、ということ…?

公開中の『ほかいびと 伊那の井月』。
井月は、家族と別れ、
30年以上、伊那の地で俳句を詠み、放浪を重ね、酒をこよなく愛した人。
十年以上も前、
つげ義春の漫画で読んで、すっかり共感して、伊那、高遠までひとり出かけた。
田んぼか畑が広がる中に、小さな小さな森があって、
そこに小さな石のお墓があったような気がする。
空が高く、鳥が鳴いていて、確か春、桜が咲く前だったろうか。

井月さんは、酔っ払って、田んぼに落っこちていたところを
村人に見つけられ、運ばれたそうだ。
井月さんのような人にすごくあこがれた。

そんなことを、いろいろ考えながら、レクイエムを聴き、
演奏が終わる。
終わってから数秒ほどの、
静寂の余韻を味わうかのような、しばしの間がよかった。
ゆっくりと拍手が始まり、観客がまばらに立ち上がる。
満足した顔で拍手を続けるおじさんの表情がいい。

演奏者たちが、舞台から去っていき、
観客も思い思いに帰っていく。
カメラは、最後、椅子に座ったまま、その余韻を確かめ、
まだ立ち上がれないままでいる若い女性の顔で終わる。

彼女と同じように、映画を観ている私たちも
この映画が終わった後、まだまだ立ち上がりたくない、
しばらく、この余韻に浸っていたい、そんな映画体験だった。


 

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