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安楽死に殺人罪を適用すべきか

2009-12-10 09:46:24 | Weblog
 川崎協同病院で98年、気管支喘息の発作で意識不明状態だった患者の気管内チューブを抜き、筋弛緩剤を投与して死なせたとして、殺人罪に問われた医師の上告審で、最高裁は被告側の上告を棄却、殺人罪の成立を認め、医師の有罪が確定しました。

 この種の事件があるたびに「殺人罪」という罪名に対して違和感を覚えます。死期を控えた患者の苦しみを見かねた遺族が医師に懇願したケースが、利己的な動機のための殺人と同じ殺人罪で処断されるということに対する違和感です。両者はかなり異質なものに思えます。

 また、生命は今後数十年間生きられる命もあれば、あと数時間、数分の場合があります。残り数分の命を縮めても殺人となります。

 つまり両者の動機には質的な差があるうえ、絶たれた生命の状態にも大差があります。これを殺人罪という同一の法律で扱うのはやはり乱暴だと思います。

 殺人という行為の法的な定義を適用し、論理を積み重ねるとこのようになるのでしょうが、少し単純すぎはしないでしょうか。法の論理を厳格に貫徹することが最終目的ではありません。社会に役立つことが法の最終目的です。

 遺族が当人の苦しみを見かねて、医師に死を早めて欲しいと依頼することは珍しいことではありません。医師が依頼を承知する場合もあるでしょうけど、被害者がいるわけでなく、たいていは問題にならないと思います。昔はよくあったこと、という話を聞きます。

 今回、なぜ問題が表面化したのか知りませんが、たまたま医師が殺人罪に問われたとき、遺族は「依頼」の事実が判明すると自身も殺人罪に問われるので、「依頼」の事実を否定することになるといわれています。したがって医師だけが罰せられるという理不尽なことになる可能性があります。

 今回の川崎協同病院の事件でも遺族は依頼の事実を途中で否定したと聞きます。二審では依頼の事実は否定できないと消極的に認定されたようですが、もし一審のように否定されたままであれば、医師はさらに気の毒なことになっていたでしょう。

 医師が依頼もなく、患者を死に至らしめるということはたいへん考えにくいことです。そして依頼があったと推定される場合、依頼した遺族が罪に問われないことは論理的な整合性を欠くものです。この種の事件に問われる医師は、たいてい同情心が強く患者の信頼も厚いことが多いだけに、いっそう違和感が残ります。

 むろん、依頼者を罪に問うべきだと言うつもりはありません。このようなケースに殺人罪を適用することの是非を問いたいわけです。この判決によって、医師は末期患者の死に関してより慎重な姿勢になることと思われます。

 回復の見込みのない患者に対して、意味があるとは思えない延命処置、蘇生処置がしばしば行われることはよく知られています。生命を助けるという医療の使命ゆえのことですが、遺族の訴訟などに備えるためでもあると言われています。

 私自身、苦しくて回復が見込めない状態になれば、早く命を絶ってほしいと思っていますが、これは多くの人が望んでいることだと思います。医師が法的なリスクを避けるため延命処置、蘇生処置に懸命な努力をする間、悶え苦しむのは遠慮したいものです。それならば、むしろ世界の主流となっている薬殺による死刑の方が楽かもしれません。

 それはともかく、強盗殺人も安楽死も同じ殺人罪という現状は何とかならないものかと思う次第です。
 関連拙記事 終末期医療と安楽死


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4 コメント

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Unknown (フラット)
2009-12-10 23:44:05
昨年のことです。寮で一緒だった会社の同僚が昼前に頭痛がヒドイといい、後輩に送らせて病院へ行きました。脳内に血栓が見つかり即手術となったのですが、その手術中に事前の検査では認知されていなかった別の血栓が破裂して手の施しようもなく術野を閉じて手術を終えました。そして彼は100%回復の見込みがない植物状態となり、生命維持装置の補助がなければ自発呼吸もできないようになってしまいました。
見舞いにも行きましたが当然意識はありません。でも心停止していないので日本の法律上「生きて」はいますから顔には赤みがあり、もう二度と目を覚まさないなんて信じられないような……しかし全身の筋肉は弛緩していて顔にも張りがありません。「あぁ、ダメなんだな」と納得するしかありませんでした。

結局彼の生命維持装置はその二日後、母親の意思表示で切られることとなり、彼は「亡くなり」ました。
仮に維持を望んだとしてもその後のしかかる医療費を賄いきれないでしょうし、現実的な判断であったと思います。
そうです。彼の実母の判断によってしか彼は永眠できなかったし、彼に安らぎを与えることができたのも彼の母親だけだったのです。「法的」に。

なんと残酷なのでしょう!彼のお母さんはこの先の人生をおくるにあたり、キツイ重りを携えていかねばならないのです。
実の息子を送る決断を母親が(一般的にも近親者が)くださねばならない現実…………それはやむを得ないことではあります。
辛く哀しく苦しい選択……しかしそれは他人に委任してもよいものでしょうか?

何年かが経過し、思い返してみて、それでも身内の判断ならばと納得することはできても、第三者による合理的判断によるとなるとなにやら釈然としないものもあるのではないでしょうか?


………結局のところこうした「倫理」に属する判断の一般化は宗教に対する理解同様非常に困難です。
同一の宗教に根差した国家ならば答を導きやすいのかもしれませんが、日本ではそれがなかなか………
しかもそれを法整備するとなると死刑の議論に匹敵する難しさが予想されます。


………また長文だf^_^;
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Unknown (okada)
2009-12-11 10:01:19
フラットさん、ありがとうございます。
残酷な出来事で、胸が痛みます。

2日後に生命維持装置が外された、ということですが、医師はよく外してくれたと思います。医師が殺人罪に問われる可能性がないとはいえない、というのが私の理解です。

射水市民病院の事件は同様なケースですが、殺人罪の容疑で捜査が進められました。最終的に不起訴になりましたが、現在も呼吸器外しの法的なリスクは消えていないと思われます。

法整備はたしかに難しいと思いますが、殺人罪をもって踏み込むという今の状態は何とかしないといけないと思います。このような状況において、外部のものが法をかざして介入することに、私は違和感を持ちます。ごく稀にしか起こりようがない悪質な殺人を防ぐために現行法を適用することは、自己決定権を奪うなどの副作用の方が大きいと思うからです。このような領域はグレーゾーンとしてもよいし、また、法の関与をできるだけ制限するような方法もよいと思います。
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Unknown (銘無し)
2009-12-11 10:20:36
自分は安楽死は認められるべきと考えています。
またそれとは別に、安楽死に偽装した殺人が起こらないとは言えませんし、それに怯える気持ちも分からなくもありません。

>ごく稀にしか起こりようがない悪質な殺人を防ぐために現行法を適用することは、自己決定権を奪うなどの副作用の方が大きいと思うからです。
同様な事件が起こるたびに考えるのですが、現状は「行われたのが殺人ではなく安楽死である」と言うのは当事者にしか分からないため、殺人容疑での捜査が必要になってしまうのではないかと思います。

安楽死を認めてもらうには、臓器移植における監視体制のようなものが必要になってくるのではないでしょうか。
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Unknown (okada)
2009-12-11 21:56:15
銘無しさん、少し誤解を招く表現がありました。私も安楽死の条件として複数の医師の認定などのガイドラインは必要だと思います。

 ただ依頼された安楽死に殺人罪を適用する現状には違和感があります。悪質な殺人とは別の法で規定するべきだと思います。

筋弛緩剤なら殺人と認められやすく、致死量のモルヒネならそうはなりにくい、などともいわれるように微妙な部分もあり、医療の専門家ではない司法に正確な判断ができるかという問題もあります。
(この問題の参考拙記事)
http://homepage2.nifty.com/kamitsuki/09A/tokyojoshiidaejiken.htm
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