日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

暴言事件とユニクロ、ワタミがブラックと言われる所以の関係性

2013-06-19 | 経営
岩手県小泉県会議員が自身のブログに、番号で自身を呼んだ病院の支払いを刑務所呼ばわりし支払いを拒否して帰ったことを記し炎上した事件。これを受けて結局謝罪したという話が話題になっています。

その一週間ほど前にもよく似た事件がありました。復興庁の水野参事官が、ツイッター上で「左翼のクソども」などと市民団体への中傷を行なっていたことが問題となり、更迭の憂き目に会ったという一件がそれです。いずれも根っこは同じものであり、一見飛躍するように思われるかもしれませんが、実は私はユニクロやワタミのブラック騒動とも同根の問題であると捉えています。

その根っことは何か。それはコンプライアンスに対する誤った理解です。コンプライアンスとは一般的に「法令順守」と訳されていますが、これがそもそも大きな誤解を生んでいるのです。あるべきコンプライアンスにおいては、決められたルールや法を守ることは最低限の行動規範であり、本来の意味合いは道徳やモラルを含め社会秩序の混乱や法令違反を引き起こす恐れのある行動に対して厳正な態度を持ってこれを慎むことなのです。

この問題を考える時に一番の焦点となるのが、道徳やモラル、社会秩序の混乱や法令違反を引き起こす恐れのある行動という言葉の持つ幅です。この部分において一番履き違えがえてはいけないことは、人や企業にとって最低の道徳やモラルは最低限で共通するものはありますが、その人や企業の置かれた立場によっては社会秩序に対して与える影響力の違いから、守るべき道徳やモラルのレベルもおのずと変わってくるということなのです。

小泉県議のブログ発言にしても、水野参事官のツイッターにしても、同じレベルの事を名もなき一般人がつぶやいたのなら、「なんだコイツ」と一部の人に思われ多少非難の書き込みをされることがあったとしても、それが大きな社会問題となり本人が公で謝罪をするような事態にはまず至りません。一方、それが犯罪の実行を示唆するような書き込みであるなら、その人の人となりに関わらず社会問題化することは確実です。この事実はすなわち、法令は万人に同様に求められる最低限守るべきものであり、道徳やモラルはその人が社会の与える影響力から見た立場によって求められるものが違うということを表しています。

小泉県議や水野参事官の放言・暴言は、一般的にその地位にあることによる「思いあがり」がさせていると言われます。確かにその言葉の思いつき自体は確かに「思いあがり」によるものかもしれませんが、そのことを公言させてしまう行動は、むしろ自分の地位が持つ影響力や求められている道徳やモラルのレベルを低く見過ぎている“思いさがり”にあると思うのです。

この観点で考えると、ユニクロやワタミがなぜブラック批判を受けるのかもよくお分かりいただけると思います(法令を守っていない企業をブラックと定義するなら、彼らはこの意味ではブラックではないのになぜ別の定義でブラックと言われるのかという観点です)。

ユニクロもワタミも業界を代表する企業なのです。となるなら、彼らのコンプライアンスにおける守るべき道徳やモラルのレベルは、同業の中小企業レベルであっていいはずがないのです。ユニクロの柳井さんもワタミの渡邉さんも「うちに法令違反の事実はなく、ブラック呼ばわりされる覚えはない」と胸を張っていますが、私から言わせればそれはご自身方の置かれた立場を全く理解しているとは思えない発言ということになるのです。

街の中小零細の洋品店や居酒屋なら仮にサービス残業が発生しようとも、「会社として法を守っています」で済むかもしれませんが、業界を代表するリーダー企業において、サービス残業が必然的に生まれるような管理体制をよしとし見て見ぬふりをしていると思われかつ、その部分に有効な対策を講じる意思を感じさせないなら、それは企業の置かれた立場からみて違うのではないかと言うことになるのです。ユニクロ、ワタミが「ブラックだ」と言われる最大の理由はここにあるのです。

立場をわきまえた本気のコンプライアンスへの取り組みを志しているのなら、IT出退勤管理や警備システムを駆使して、サービス残業が物理的にできないような管理をすればいいだけの話です。現実に、10年ほど前まではサービス残業の巣窟だった金融機関でも、今や警備システムやPC稼働管理と連動させた徹底した出退勤管理で、サービス残業の撲滅をはかっています。やればできることをやらないだけのことなのです。

コンプライアンスという言葉が安易に「法令順守」という全容を捉え切れていない訳語で浸透した故に起きている、「法令を守ること=コンプライアンス」という誤った風潮が、むしろ地位や立場によって求められるべき道徳やモラルへの意識を危うくしているのではないかと大変懸念しています。小泉県議や水野参事官の放言・暴言事件は、単に個人への責任追及に終わらせることなく企業モラルの欠如との共通性の観点も含め、地位ある個人や企業に対し正しいコンプライアンスへの理解を求める機会として欲しいと思うことろであります。