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日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

郵政の“大家業”進出は、官僚改革の足かせにならないか

2013-03-28 | その他あれこれ
先週オープンで話題を集めた、日本郵政(以下JP)が初めて手がける商業施設「KITTE=キッテ」の話を少ししておきましょう。

旧東京中央郵便局局舎を一部保存、再生し建設されたこと(いつぞや、旧建物の解体時に鳩山弟が大騒ぎして余計なカネのかかる一部保存建築に変更させたなんていう話もありましたっけ)、地下1階地上6階に98の店舗から成る豪華絢爛な商業施設がオープンしたこと、フロアごとに木材や瓦、織物、和紙 など日本古来の素材を使用してコンセプトである「Feel JAPAN」が表現されていること、等々話題に事欠かない新施設に関する報道が先週末にかけて展開されておりました。

施設の良し悪しはまだ見ておりませんのでなんとも申し上げようがないのですが、実は私はこのJPの商業施設運営事業に関してはちょっと嫌な懸念を抱いているのです。

商業施設運営事業と聞くと、似たようなケースですぐに思いあたるのがJRの駅ビル、駅ナカ事業です。JRの駅ビル、駅ナカ事業は確かに交通機関利用者にとっては大変便利なものであり、その部分だけを見るならありがたくかつJRも潤って良いことづくめであるかのように思えています。しかし、先月件の雪予報前日間引運転決行事件の時にもそのあまりに自己中な対応の杜撰さを指摘させていただきましたが、JRの施策の目線の高さは相変わらずで顧客目線には程遠いというのが現実なのです。

原因の一端は、企業としての競争意識のなさということが広く指摘されてはいるのですが、私はもう一つの原因として不動産テナント事業がJRの利益の大きな部分を担うようになったことも少なからず影響があるように思えています。不動産テナント事業とは言ってみれば“大家業”です。モノを売るのはテナントであり大家は直接消費者とは相対しない。かつ、日本の大家というものは古くから根付いている地主文化を踏襲して、偉そうにするわけです。「貸してやっているんだ」と。

実際、JR駅ナカに出店しているお店のお話を聞くと、「売上が落ちれば撤退命令が出る」とか、売り上げが下降線に入ろうものなら「何にやってるんだ」ぐらいのことは平気で言われてしまうとか。もちろん、これは他のショッピングモールでもよく聞かれる話で、JRだけがテナントに対して横柄であるということではないのですが、JRにおけるこの点をあえて問題視するのは、以下のような理由があるからです。

モールはイオンでもヨーカドーでも、そもそもが消費者目線のビジネスを生業として発展してきた企業ですから、多少テナントに厳しく当たろうとも、それが顧客目線への変化を及ぼすと言ったことにはならないだけのしっかりとした顧客目線風土が出来上がっているわけです。ところが、JRはもともとが親方日の丸の国家事業三公社の一角である国鉄なわけで、根本の文化そのものに顧客目線がないのです。ただでさえ、競争相手のいない顧客目線欠如文化がいつまでも抜けきらない彼らに、“大家業”を新たな事業の柱としてやらせたことで、ますます顧客目線は遠くなるばかりであると実感することしきりなのです。

JPはどうか。こちらは三公社どころではなく国家直営事業として、長らく運営されてきた超親方日の丸事業です。「郵便局は庶民的で十分、顧客目線だよ」とおっしゃられる方がいるかもしれませんが、それはあくまで現場末端の話。JRのケースにしても問題の焦点は、現場の行動ではなく本社の意識と行動です。雪予報の間引き運転にしても、一向に改まらないスイカによる新幹線利用の不便にしても(駅ナカ改装に次々投資をするなら、先にやるべき利便性向上は山ほどあるはず)、全て本社の顧客目線の欠如が原因であるのです。私の懸念は、同じことがJPにおいても、今回の“大家業”への進出で起きうるのではないのかということです。

「KITTE=キッテ」に味をしめてJP本社が“大家業”の楽さ加減と横柄の心地よさに安住するなら、次々と大所JP施設のテナント化の流れは容易に想像できる展開であり、そうなれば本業における施策の顧客目線欠如も目に見えて表れることは確実な気がするのです。それを阻止するためにも必要なことは、民営化郵政の民間競合他社、すなわち銀行、保険会社、宅配便会社とのイコール・フィッティングによる健全な競争環境の確保であったはずなのですが、郵政法案の“改悪”にそれすらも実現はほど遠くなってしまったという現実があるわけです。

官僚制度改革に向けた官業的なるものの改革は、まず何より消費者との接点を多く持つJRやJPの顧客目線の基準化によるサービス姿勢の改善にこそあるはずです。今回の「KITTE=キッテ」オープンによるJP“大家業”進出は、最終的には官僚改革をまたしても遅らせる要因になるのではないかとの懸念の色を濃くさせられて、なんとはなしに気分が悪いというわけなのです。そんな懸念が杞憂に終わることを心より祈ります。

使いたくないe-Taxから漏れる官僚文化の匂い

2013-03-15 | その他あれこれ
個人的なお話で恐縮ですが、昨日無事24年度の確定申告書書類の提出を完了したしました。ここ数年、この作業中に毎年出くわす事象。「今年こそはe-Taxに移行するか」と思いつつも、「やっぱり、やーめた」になるという流れです。

一番のネックは何と言っても、自宅あるいは事務所のPCとネット接続環境だけではe-Taxの手続きが完結しないとい言う点です。電子証明書の取得とICカードリーダライタなるものが必要になるんだとか。私は毎年毎年「今年は、やり方が変わったかな」と思いつつ動き出しとともに、e-Taxの説明を読んで「なーんだ、まだ変ってないのか、じゃ今年も見送り」を繰り返しているわけです。

電子証明書は、住民票のある市役所等の窓口で住民基本台帳カードを入手し、「電子証明書発行申請書」等を提出して電子証明書(公的個人認証サービスに基づく電子証明書)の発行を受けるそうです。その際に手数料が、市町村によって若干の上下はあるようですが500円程度はかかるそうです。しかも、有効期限があって3年ごとに作成のしなおしをしないといけないんだとか。ICカードリーダライタは、この入手した電子証明書で本人確認をして、納税義務者本人として納税データの送付をおこなうために使うものだそうです。市販で2~3千円程度。

なんでこんなめんどくさいやり方にしたのでしょう。念には念を入れた本人確認の徹底がその理由なんでしょうか。本人確認の重要性はよく分かりますが、でも入口の本人確認さえできればIDとパスワードの発行をするなりなんなりで、あとはそちらのシステム内でうまく対応するなりなんなり、もっと簡便にできないものなんでしょうかね。だいたいが納税を「なりすまし」で赤の他人にやられるリスクってそんなに大きいのかと、ちょっと疑問に感じなくもないです。素人考えではありますが、やり方が非常に悪いような気がしています。

それと心象の問題。要するに納税の電子化は、国税庁、税務署関連の納税事務の効率化が目的なわけじゃないですか。それを納税者本人の負担を経てすすめようという態度が見えて心象悪いわけです。電子申告者への税金軽減措置もあるようですが、なぜ軽減措置であって奨励金による一律配布にしないのか。それも疑問です。納税額の有無によって恩恵の有無が違うのって、電子申告を奨励するという趣旨から考えて非常におかしな感覚でもあり、この点もまた心象を悪くしているわけです。

そもそも、自己のメリットのために何か物事をすすめるのであれば、利用者サイドの金銭的、労力的負担を前提とするやり方はおかしいと、やる前に気がつくべきじゃないのでしょうか。電子証明書とICカードリーダライタを使ったやり方では、利用者の立場に立って考えられていないとなぜ導入前に気がつかないのかです。そういうところが、日本の官僚文化のもっとも正さなくてはいけない部分であり、この辺りの考え方に「これではまずい」と気がつかない限りは、官僚制度改革などというものは結局、永遠に実現することはないのではないかとすら思わされてしまうのです。

昨年はe-Taxによる申告の比率が、個人納税者の所得税申告で4割を超えたという話ですが、この利用率には税務署で申告相談に訪れた人をPC申告に誘導して、スタッフのヘルプの下、その場でe-Taxを使って手続きをとらせた人の数がカウントされているそうで、これが利用者数の大半を占めているのが実態のようです(税務署の相談窓口に行くと、手書き申告書持参でも即PCコーナーに誘導されます)。つまり、個人ベースでの本当の普及は、悲惨な状態であるのは想像に難くないところです。

国税庁としては、普及率が低いままだと「多額の開発費をかけてこの普及率はなんだ。この税金泥棒!」と言われることが怖くて、数字だけをカクフラージュで作っているというのが実情なのでしょう。このままで良いわけがないです。いつまで、確定申告時期に多くのヘルプ作業員の膨大な人件費をかけて、カムフラージュを続けるのでしょうか。

こんな状況下で常識的にまずやるべきことは、なぜ「利用率が上がらないのか」を正直に自覚し、「その原因となっている問題の解決のためにやるべき改善策」に動き出すべきなのです。すなわち、先の電子証明書とICカードリードライタを使用するやり方の見直しに、早期に着手すべきなのではないでしょうか。

毎年確定申告のたびに、官僚文化の嫌なにおいを感じされるのはなんとも不快です。日本の行政をあるべき姿に変えていくためには、生活者に近いこの辺りからしっかり変えていく意識を持ってほしいと思います。

猫とオタク

2013-02-12 | その他あれこれ
連休明けですし、今日のエントリは肩の力を抜いて聞いてください。主観満載なので、あまり真剣に受け止めていただく必要はありません。息抜き程度に軽く読んでいただければ。

パソコン遠隔操作事件の容疑者は逮捕されました。私が気になっているのは、ニュースで盛んに伝えられている犯人と猫の関係です。江ノ島にいる猫の首にデータチップ付の首輪をつけたことが足がつくキッカケになったとか、逮捕前日まで猫カフェに出入りするなどなかりな猫好きだったとか、猫がかなり重要なキーワード的に登場しています。

報道から知る容疑者の人となりや写真を見るに、いかにもオタクといった印象の人物であるなと私は思いました。これ、あくまで主観です。ちょっと待てよと、ここで思ったのは、私の周囲にいる多くの知り合いの方々で、けっこうな猫好きという人の顔を浮かべてみたのですが、確かにオタクっぽい要素を多く持ち合わせている人が多い、と感じました。これもまたかなりな主観ですが、個人的には言い得ているような気がします。

そこでフェイスブックで私の友だちに「オタクって猫好き?」という問いかけをしてみたところ、猫をオタク的とするおもしろい回答を何人かからいただくことができました。

「犬は散歩が大好き。猫は散歩不要」
確かに。犬は散歩が必要ですが、猫は不要。犬は外を駆け回りたいけど、猫は家の中でグタグタが好き。活動的に外を飛び回るオタクってあまり見たことがありません。たいていは家にいて四六時中パソコンと向き合っている的な。言われてみると猫の習性って、かなりオタクっぽいのです。

「犬は人につく。猫は家につく」
これも昔から言われていることですよね。犬は人と良好な関係を結ぶことでペットとしての主従関係を結ぶわけですが、猫はそういうコミュニケーションがない。家にはつくけど、人にはつかない。組織には属するけど、上司にはこびない?コミュニケーションを軸に考えると、やはりオタク的要素を感じるところです。

「上司に従順な犬型。マイペースな猫型」
人間のタイプ分けでも、よく犬型、猫型という分析があります。犬型は上司に従順なサラリーマン的タイプで、猫型はマイペースな一匹オオカミタイプというやつです。上の話と捉えどころがややダブりますが、組織内でもオタク系の人たちはたいてい後者ですよね。パソコン以外は信じない的なマイペースぶりを見せてくれたりします。

「ドコモは犬、オタクが大好きなアップルは猫」
これ、大きく主観ですが、言われてみればなるほどねと思います。

何でこんなことを書いたのかですが、今回の事件を機に(と言うのも変ですが)オタクと猫の関係が明確化されるなら、猫カフェに限らず猫をキーにしたオタクビジネスっていろいろ成立するわけじゃないか思ったもので。日本国中に一体何人のオタクがいるのかは存じ上げませんが豊富な資金を持っていそうなオタク市場はかなりの規模であるわけで、PCとかアイドルとかアニメとか、オタクの人たちの好物と猫の習性を上手に結び付け新しいビジネスを立ち上げることができたなら、WEB上も含めてかなり有望な新ビジネスが作れるような気がします。

今日は結論のないエントリなので、最後はなぞかけで締めてみます。
「オタクとかけまして猫ときます。そのこころは?どちらも“マウス”が大好きです」
おあとがよろしいようで。

国民はより良い「革新的保守思想」を望んでいる?

2012-12-11 | その他あれこれ
日本中は選挙戦真っ只中です。総選挙は各政党勝ったり負けたりの繰り返し。結局のところこの繰り返しおこなわれる政党の勝ち負けというものを左右するところの、日本の有権者が求めている政治的思想ってなんなのだろうかと、ちょっと考えてみたくなりました。

その前提として、意識すべきこと。日本は以前より1億総中流社会と言われているように階級社会や人種差別的なものは社会全体を覆うような明確な形では存在しません。加えて、階級や人種の問題が存在しないということにも関係があるのかもしれませんが、宗教というものも国民性を覆うような形では存在しません。しかも、陸続きの他国からの侵略の脅威という概念もありません。

こういった世の中では基本的な国民の意識はたいてい、現状に100%満足ではないもの、大きく変わりすぎるリスクには不安を感じている、となるのではないかと。大まかに言って似たり寄ったりのひとつの考え方に集約されがちなわけで、対立する階層や人種や宗教等の利益に立脚するような主義主張に拠る政党制というものはなかなか存立し得ない環境にあるとも言えると思います。だから現状総選挙前の各党の主張を見るに、細かい足の引っ張り合いはあるにしても突き詰めれば基本は「保守」といった感じに思えてしまうのでしょう。

ではそんな日本において、基本「保守」に立脚した国民が求めより多くの支持を受ける政党の主張とはいかなるものであるのでしょう。ここ20年ほどの流れを振り返ってみると、それは一言で言うなら「革新的保守思想」とでも言えそうなものかなと思えてきます。もちろん古く昭和高度成長の時代はまったくの「保守」一辺倒だったものが、バブル経済崩壊後に様相が変わぅたのかなと。細川政権の成立は、「保守」一辺倒に対する国民の最初の拒否反応だったのでしょう。ここに「革新的保守思想」の流れが誕生したように思われます。

その流れの強さは、近年2000年以降の政界ではより明確になります。自さ社連立で過去との決別をイメージさせ政権を奪還した自民党。さらには「自民党をぶっ壊す」とぶち上げてかなり高い国民の支持をあつめた小泉政権が、自民党の生き残り策を古い体質からの脱却と定義し、国民受けする「革新的保守思想」を政権のイメージにダブらせることで実に見事にゆるがせのない長期政権を確立したのでした。

ところが小泉後の自民党は、小泉人気を守ろうとした保守性ばかりが目につきはじめます。前進感を失った印象の政権運営に国民は嫌気し、1年毎に入れ替わったどの政権にも「革新性」を見出すことができずに、支持率は下降線の一途をたどったわけです。そこで、自民党枝分かれの人間もメンバーに加わわることで「保守」的な安心感を一部に感じさせながら、かつ「変えてくれそうだ」という期待感すなわち「革新性」を抱かせた民主党に一度政権を渡してみることを国民が望み、前回の総選挙では民主党が圧勝して政権交代が実現したわけでした。

では今回はどうなのか。民主党の支持率が下がりながらも依然「革新性」を欠く自民党の支持率が上がらないという状況が長く続いていた中、登場した「第三極」政党。雨後の筍のごとく発生し離合集散を繰り返し今回の選挙に至った背景には、表向きの主要政策の違いこそあるものの、どの政党も「第一極」「第二極」から「革新性」が感じられないが故の政党立ち上げであったと思われるのです。格差の拡大やかつてない隣国の脅威は、より一層国民に「革新性」を求める気持ちを高めたかもしれません。しかし行き過ぎはダメ。大きすぎる変化を望まない日本人には、基本線が「保守」でなくては受け入れられないからです。

私は今回選挙戦では各党党首レベルの演説を極力多く聴きまわっていますが、選挙戦に入ってようやく「第一極」も「第二極」も自分たちは「革新性」が高いのだというイメージの打ち出しに腐心している様子がうかがえました。一方の「第三極」各党は、まず「第一極」「第二極」の「革新性」のなさを叩き、その上で「第三極」の中でもっとも現状を守りながら「革新的」であるのは自分たちである、「安心でき確実な変化を実現するのは我々」と、そんな主張を戦わせているように感じました。主要政党は皆、自分たちなりの解釈で国民が好むであろう「革新的保守思想」を説いて回っている、そんな印象です。

バブル崩壊以降、少しづつ形を変えながらも日本国民に支持される「革新的保守思想」の現状における具体像とはいかなるものであるのでしょう。選挙戦も終盤にさしかかり世論調査等を見る限りにおいてすでにそれなりの答えは出つつある状況ではありますが、5日後の総選挙の結果を見届けてその視点からの検証を是非してみたいと思っています。

石原、小沢がカギを握る「第三極」の古臭さ

2012-12-03 | その他あれこれ
さていよいよ明日から選挙戦が本番に突入します。注目は、台風の目であるところの第三極と言われる新政党得票の行方です。日本の浮動票が大きな割合を占める選挙では、政党のイメージが得票に大きく影響しますが、実績に乏しい新政党ではなおさらです。

政党のイメージ戦略における大きな柱は「人」と「政策」です。しかし、いかに「政策」重視と政党が叫ぼうとも、浮動票層にとって政党選択は何より第一印象が大切。「あの人がいるからイイ」あるいは「イヤだ」と、その第一印象を左右し「政策」に先んじて政党のイメージを決定づけるのが「人」なのです。確固たる支持基盤を持たない第三極政党にとっては「人」イメージが雌雄を決する選挙であると言ってもいいでしょう。

今回第三極に分類される中でも特に注目の政党は、日本維新の会、みんなの党、日本未来の党の三党でしょう。総選挙に向けた彼らのイメージ戦略における「人」を巡る思惑たっぷりの動きを振り返ってみると、おもしろいことが浮き彫りになってきます。

メディアの力を有効に使った党首の好感度をあげる事で、とりあえずの支持を集めることに成功したのが橋下大阪市長率いる日本維新の会です。自身のタレント弁護士としての知名度を活かし大阪の改革をぶち上げた後、国政への殴り込みを宣言。今回の“台風の目”となるべく支持を伸ばした維新の会でしたが、選挙が近くなるにつれて経験不足や人材不足をつつかれるようになり、橋下氏は自身以上の「人」を求めて石原慎太郎氏との合流を決めました。

石原氏の国民的人気俳優の兄であるという一族人気、政界での実績と歯に衣着せぬ物言いで尖閣問題でも多くの国民の支持を得るなどした知名度にあやかろうとしたものの、結果は必ずしも思惑通りに運んでいるとは思えません。日に日に「政策」面での不一致を端に発したほころびが見え始めたところに、代表に据えた石原氏の過激発言が物議をかもすシーンも多く見受けられます。使い方を間違えれば毒にもなりうる「人」の扱いが果たしてうまくいくのか、注目です。

一方、第三極という言葉生みの親と言われる老舗第三極みんなの党。みんなの党は、渡辺代表以上の「人」がなく、イメージ向上を狙って当初は橋下氏の人気にあやかろうと維新へのラブコールをおくります。しかし、維新の石原氏との合流を機に維新とは距離を置く戦略をとりました。“危険人物”石原氏との合流によるイメージダウン警戒から「政策」重視のイメージ戦略へ転換したと見ています。維新と組んだなら、共倒れもあると尻込みしたのか。石原氏影響力を認めた上での「人」イメージ戦略のもうひとつの結論がここからは見て取ることができるでしょう。

次に、脱原発を掲げ大同合併した日本未来の党。表向きは「人」で人気上昇をはかれない新政党たちが選んだ「政策」重視の合流と映りますが実際はどうか。実はここでも「人」がからんでいて、それは旧国民の生活が第一代表の小沢一郎氏です。メディアが作り上げた小沢氏の「人」としてのマイナスイメージは選挙に向けては致命的であり、このマイナス「人」イメージ挽回の切り札が「脱原発+女性代表」を全面に立たせた大同合併であったわけでしょう。

嘉田代表が国民的な人気者であるかと言えばそうではなく、あくまで反原発を女性のソフトなイメージで印象付けようというための用意周到な戦略であったのでしょう。合流を決意した各政党が、マイナス「人」イメージが強い小沢氏が代表を務めるなら実現しなかったであろうこの大同合併に合意した理由は、間違いなく嘉田氏を前面に立てた「人」イメージの改善です。この「脱原発+女性代表」でどこまでメディアが作り上げた小沢氏のダーティなイメージを払拭できるのかは、第三極イメージ戦における石原氏の影響力と並ぶ今回の注目点です。

こうして見てくると良いにつけ悪いにつけ、今回の選挙得票において第三極を巡るイメージ戦のカギを握っているのは実は石原氏と小沢氏という“旧勢力”であるということに他なりません。政界に新風を吹き込むべき第三極の得票のカギを握っているのがいまだに“旧勢力”であるという事実には、日本の政治的低迷感の理由を見る思いがしませんか。

各党政策委員様、マニフェストはロジカルにお願いします

2012-11-20 | その他あれこれ
衆議院が解散し、二大大手政党の民主党、自民党が国民的支持の決め手を欠くなかで、“第三極”をキーワードとした空前の新党ブームが巻き起こっています。現在各政党とも12月16日の投票日に向けマニフェスト(=選挙公約、みんなの党はアジェンダ)のとりまとめにおおわらわといった様子ですが、どうも巷では前回選挙ほどマニフェストに注目が集まらなくなっているムードがあるように思われます。

もちろんその最大の原因および責任は、政権を奪取しながら前回選挙時のマニフェストをほとんど守らなかった民主党にあるわけで、どうせ守られもしないものを一生懸命聞いてもしょうがないといったシラケムードが漂っているのではないかと思うのです。ならば、いっそマニフェストなんてやめてしまったらどうだ、と言いたくもなるところです。

前回の民主党のマニフェストにおける最大の公約違反は、「この先任期の4年間は、消費税増税はいたしません」であるでしょう。消費税の増税が正しいか間違っているかは別問題として、マニフェスト上説明がつかない増税を決めたわけで、結局のところマニフェストは「できるかどうか詳しいことは分からないけど、とりあえず耳障りの良いアメ玉を紙に書いて並べてみました」的な作文であったということが、もろくも明らかになってしまったのです。

消費税に関して言うなら、将来のビジョンなく状況把握すらできていない下で作られた民主党のマニフェストは認識が甘かった。甘すぎです。結局政権をとってみて、財政再建、福祉財源の確保という観点から消費増税は必要との判断に至って、簡単に公約は破棄されてしまったということです。消費税以外の問題でも同じこと。国家公務員の総人件費2割カットも、年間31万円の子供手当も、年金制度の一元化と最低月7万円の確保も、終わってみれば公約はみな絵に描いた餅でした。結局何も変わらなかった。

なぜこんなことが起きるのか。それは、民主党のマニフェストがビジョン設計に基づきしっかりと練られた戦略の下生み出されたマニフェストではなかったからに他なりません。一言で申し上げるなら、まったくもってロジカルでなかった。思いつきのアメ玉の寄せ集めに過ぎなかったのです。

マニフェストにビジョンが明示されているのなら(ミッションではなく近未来に向けたビジョンです)、震災等の予想不可能な環境の変化を理由に、ビジョン実現に向けた施策の変更・追加はあってしかるべきですが、結局出たとこ勝負のマニフェストではそんな説明すらできないのです。前回の失敗を繰り返さないために、各党にお願いしたいのはビジョンレスに「マニフェストを一人歩きはさせるな」と言うことです。そのためには、4年間と言う衆議院議員の任期の中で、日本をどう変え国民生活をどうするのかという明確なビジョンをまず掲げることが肝心です。

具体的な例をあげるなら、「10年後に○○になるために、この4年間は××は努力しますが△△はこの4年で基礎を作った上で次の中期計画に引き継ぎます。この間GDPは何パーセント増をめざし、国民一人あたりの所得は○パーセント増加を実現します。そのためには①○○②××③△△という政策を実行し、□□はやめさせます」といった具合に、ビジョンを明示しつつそこから導き出される形で納得性をもって個々の施策は明示されるべきだと思うのです。

このようなビジョンに裏打ちされロジカルに施策展開をするなら、仮に今回の消費税増税のような施策の一部変更があろうとも、ビジョン実現を動かさないために施策の見直しが必要なのだと言う説明がつくのなら、嘘つき呼ばわりをされることもなく国民の理解を得た上での柔軟な施策の見直しも可能になると思うのです。少なくとも、前回の民主党のようなビジョンレスな相互になんの脈絡もない単発的な、耳障りがいいだけのアメ玉マニフェストはもう金輪際お断りです。

まとめます。前回マニフェスト選挙の大失敗を受けて、政治が国民を同じようにだまし討ちにすることがないよう、各党はビジョンを明確にしロジカルに施策とのつながりを持たせた上でマニフェストを国民の前に提示すべきであると思います。

白バイの“隠れ取締り”は、どう考えてもおかしいと思う件

2012-11-07 | その他あれこれ
前回エントリのテーマ「再発防止」に近しい言葉として、「予防」というものがあります。「予防」とは、読んで字のごとく「予(あらかじ)め防ぐ」ことです。その意味からすれば、「再発防止」は「予防」一部であるとも言えます。「予防」はなぜ必要かと言えば、事故が起きることにより被害を受ける人が出ることを未然に防ぐために他なりません。従い、いかにして事故を起こさせないようにするか、その点こそが「予防」最大のポイントになるのです。

ちょうどある過去のエントリに対して読者の方からコメントを頂戴し、それを上記の観点で考え改めて「おやっ?」と思わされました。白バイの交通取締りです。我が家の近くにも日常的取締りポイントがありまして、見通しの良い直線道路のショッピングモール脇入口前に信号のない横断歩道があり、その横断歩道近くのT字路に隠れて毎度白バイが待機しています。横断歩道を渡る歩行者を優先して車両が一時停止するか否かを見て、歩行者を無視した者を軒並み反則切符切りするわけです。

先の「予防」の観点からしたときに、このやり方はどうなのかと思いせんか。要するに、白バイは隠れて見ていることで、わざわざ車両に横断歩道を渡ろうとしている歩行者を無視して通行するという違反をさせて検挙するというやり方についてです。事故防止と言う「予防」を第一に考えるのなら、自らが見ている目の前でみすみす違反をさせるということ自体がおかしくはないのかと。目の前で事故が起きたらどうするのかと。白バイの行為には、「予(あらかじ)め防ぐ」努力が見られないのです。この場面で本来あるべき「予防」は、白バイは自らの姿を通行車両に大々的に見せることで、交通法規に従ったあるべき運転を促すことであるのではないのでしょうか。

ではなぜ、あるべき「予防」活動をせずにパトロールの白バイがこんな違反行為を容認するような行為をしているのか。これはもう、よく耳にする警察内部の反則金ノルマ制度の弊害以外に考えられません。反則金というものはなくて当たり前、もっと言えば反則金をゼロにすることすなわち違反者をなくすことが、本来警察関係者が共有すべき目標であるはずのなのです。どうしてこんなにおかしなことになってしまっているでしょう。警察がもし「予防」という自己の役割の認識や、反則金は少ないことが「善」であるという正しい理解ができていないのなら、それは猛省すべき問題であると思うのです。

先の取締りポイント、実によく捕まっています。私がこの地に越してきて7年近くになりますが、相も変わらずこの場所で定期的に白バイが隠れています。よほどの反則金ドル箱ポイントなのでしょう。一方でこの場所が重大事故多発地点なのかと言えば、そんな話はついぞ聞いたことがありませんし、事故多発地点であるのならなされるはずの信号機の設置もされていませんから。

警察は我々市民の安全を守ることがそのミッションであるはずです。事故多発地点でなくとも反則金がよく取れるから白バイの潜伏ポイントにしているということ自体に、その業務に携わる白バイ隊員一人ひとりが問題意識を持てるような組織であって欲しいものです。

警察関係の皆さまからの本エントリに関するご見解・ご反論、歓迎いたします。

村上春樹のノーベル文学賞受賞は永久にないと思う件

2012-10-12 | その他あれこれ
今年のノーベル文学賞が発表され、中国の莫言氏が中国人として初めて受賞しました。下馬評で最有力候補と言われていた村上春樹氏の受賞は今年も叶わず、早くも「来年こそ受賞」に期待する声が聞かれています。

以下はあくまで個人的な感覚ですから、村上春樹ファンの皆さまは気を悪くなさらないで欲しいのですが、どうも私にはいくら最有力候補と言われようとも村上春樹氏がノーベル文学賞というイメージが全然湧いてこないのです。そもそも村上氏の著作が文学?もとい、文学って何でしょう。音楽は私を含めどんなド素人が作曲しても音楽ですが、文学はそうではありません。ある一定の基準をクリアしたもののみが文学の評価を受け、文学としてこの世に存在するのではないでしょうか。だとすれば、より文学らしい作品がノーベル賞を受賞するのではないかと。もちろん、その一定の基準は個人の感覚に依るところも大きく、ノーベル賞選考委員の方々の感性にかかっているのかもしれませんが。

日本人として初めてノーベル文学賞を受賞した川端康成や、川端の受賞はこの人の受賞辞退宣言のお陰と言われた本来の初受賞最有力候補者三島由紀夫の作品は、確かに文学と言われるにふさわしい何かがあったと思いませんか。彼らの作品群を、川端文学、三島文学という言葉で語られることも、ごく自然におこなわれることであり何の違和感も感じないところです。

日本人として二人目のノーベル文学賞受賞作家である大江健三郎はどうか。社会派であるか否かは別としても、ノーベル賞受賞の理由のひとつにもあげられたその独自の散文的な表現方法はやはり文学と言われるにふさわしい匂いがそこにあるようには思われませんでしょうか。いささか個人的な感覚ではありますが、大江文学と言う言葉で表現してみても特に違和感ははなくさらりと受け止められる印象に感じられるところです。

村上氏はどうか。「ノルウェーの森」「風の歌を聞け」「1Q84」等々、文学の定義は不明なままあくまで感覚的な物言いでありながら、氏の代表作にいわゆる文学作品的な匂いに満ち溢れているかと言えばノーかなと。村上文学という言葉も、どこか耳馴染みが悪くピンとこないのが正直なところでもあるわけです。さらに、村上春樹ファンからの叱責を恐れずに言ってしまうなら、氏はどうしても文学者とは程遠いところに位置し流行作家の域を脱していないという気がするのです。

今回のオッズメーカーによる村上氏の本命予想も、その作品に込められた文学的な色合いを取り上げてのものと言うよりは、受賞の大きな要件とされる世界各国語への翻訳件数の多さによるものと言われています。一方、受賞の栄冠を勝ち取った莫言氏はと言えば、むしろその現実と幻想の入り混じった独自の作風が高い評価に値するとの見地から、対抗馬と目されていたと。結果はやはり、より「文学賞」にふさわしい作品が選ばれたのではないかと思えるわけです。

こうやって考えてくると、毎年毎年候補者に挙げられながら、落選を続けている氏の作品に対する評価は、この先もそんなに大きく変わることがあるのだろうかという疑問が頭をもたげてきませんか。すなわち、村上春樹氏は我々日本国民の期待とは裏腹に未来永劫ノーベル文学賞を受賞することはないのではないかと。ノーベル著作賞だったら受賞できたかもしれないのに文学賞は無理かなとか。やはり私には来年以降も、村上春樹氏がノーベル文学賞受賞というイメージが全然湧いてこないのです。

人工卵子生成に思う「倫理」の砦

2012-10-06 | その他あれこれ
iPS細胞から卵子 世界初、マウス誕生 京大院グループ成功-。
さまざまな組織や細胞の元になる能力がある人工多能性幹細胞(iPS細胞)から卵子を作り出し、マウスを誕生させることに、京都大大学院医学研究科の斎藤通紀(みちのり)教授(発生生物学)らのグループが世界で初めて成功した。5日付の米科学誌サイエンス電子版に掲載された。グループは昨年8月にマウスのiPS細胞から精子を作製しており、理論的には、iPS細胞から作製した卵子と精子を受精させ、新たな生命を生み出すことが可能になった。(産経ニュースhttp://sankei.jp.msn.com/science/news/121005/scn12100508100001-n1.htm)

人工的に作られた卵子により新たな生命を誕生させることに成功したとのニュース。この手の世界の技術研究に関して全くの素人である私からすれば、すごいことであるという言葉以外に適当な表現が見つかりません。ニュース原文にあるように、この技術により人工の卵子と精子により人間の生命でも生みだすことが可能になると。“近未来”を描いたSF映画の世界だけかと思っていたお話が、今や現実のものになりつつあるということ。今まで“近未来”は近そうに思えていながら決して来ることのない遠い未来であったものが、今や本当に近いところに位置する存在なのだと改めて感じさせられるニュースでもあります。

人の生命誕生にかかわる問題に常に議論がつきまとうのが、「倫理問題」といわれるものです。すなわち、生命の誕生と言う“神の領域”的な問題に、いくら技術革新が行われたからと言って人が踏み込んでよいものであるのかどうかという議論です。至って素人的な受け止め方からしても、iPSの卵子細胞は恐らく不妊治療には劇的な効果を持つものなのではないかとは思います。もちろん、人工的に作られた卵子をもって生命の誕生を手助けすることにも様々な議論があるであろうことが想像に難くなく、現実の世界で利用されるにはまだまだ越えるべきハードルが多く存在するのでしょう。結果はどうあれ、多くのハードルを越えさせるという過程、それは正しい。ましてや、人工生成の卵子と精子の受精よって新たな生命を生み出すなどと言うことには、例え技術的には可能であっても、易々と実現されてはいけないことであるというのは、人類共通の認識であって欲しいところです。

こういったニュースを耳にするにつけ、技術の進歩に賭ける人間の研究努力とその成果に比べて、「倫理問題」に関する人種や宗教を越えた全人類を巻き込むようなあるべき論づくりに向けた議論の過少さに、少なからぬ危機感を覚えるのです。比較対象としてふさわしいかどうか分かりませんが、原子力技術の開発とその利用方法に関しての世界レベルでの倫理的な議論がないまま兵器として使われたことが広島や長崎の悲劇を生み出し、ひいてはいまだに兵器として持ち続ける国が存在するという好ましからざる脅威にもつながっているのではないかとも思えるのです。革新的な技術の進歩においては、過去の人間の常識をベースにした想定を超える問題が潜んでいることも多く、その点におけるできる限りの先回りの議論は必要なのではないのかと。

素晴らしい革新的技術も、いつ何時「倫理」を越えて悪用する国や集団やあるいは個人が出てこないとも限らないのです。それを国際世論によって事前に抑止するためには、技術開発と並行した人間的な部分での議論が世界レベルで必要になっているのではないでしょうか。原子力爆弾開発の時代からは想像もつかないほどにあらゆる技術開発が進んでいる今、小さな領土問題を争うことよりも前に世界の先進各国が未来の共存共栄に向けて話し合うべき課題は山積しているように思います。

「ブレードランナー」という往年のSF映画の名作があります。核戦争により酸性雨が降り注ぐ地球上に、人間が生みだした労働力としての人工的な生命体レプリカントたちが反乱を起こし、人々の生活を脅かしている姿が見事に描き出されていました。私は、今回のニュースを聞いて、この映画で見た“近未来”の世界は、人々が責任ある議論をしていかなければ本当に近い将来に実現するような気がして、そこはかとない恐ろしさを感じた次第です。