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日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

私の名盤コレクション2 ~ Hejira / Joni Mitchell

2011-04-24 | 洋楽
ジョニ・ミッチェルの紙ジャケットがようやく発売されました。それにちなんで、彼女のアルバムの中で最高にお気に入りの1枚を取り上げます。


★ Hejira / Joni Mitchell

1. Coyote
2. Amelia
3. Furry Sings The Blues
4. A Strange Boy
5. Hejira
6. Song For Sharon
7. Black Crow
8. Blue Motel Room
9. Refuge Of The Roads

ジョニ・ミッチェルの音楽はアートです。彼女の音楽は内面をすべてさらけ出すかのような繊細さを常に感じさせ、その時々の心模様を非常にストレートに表現しようとしているように思えます。その軸になっているのが彼女独自の変則なオープンチューニングであり、そのチューニングの結果として得られる不思議な旋律もまた、微妙に揺れ動く彼女の内面を赤裸々に表わしているかのようで、一度はまると聞く者の心の耳を捉えて離さない不思議な魅力に満ち溢れているのです。決して美人とは言い難い彼女が、デビッド・ブルーやジェームス・テイラー、グラハム・ナッシュ、ジャコ・パストリアスといった音楽界の錚々たるイケ面たちと恋仲にあったという事実は、その繊細で謎めいた女性としての魅力に引きつけられた結果であろうと、彼女の音楽を聞いているだけでその人間的魅力が分かるような気がするのです。

彼女の音楽キャリアの中で、一般的な名盤と言えば初期のシンガーソングライター的告白アルバム「ブルー」や、ジャズメンとの美しすぎる融合作であった「コート・アンド・スパーク」あたりが常に上げられるのでしょうが、私のイチオシは76年の作品「逃避行」です。先に記した彼女の繊細さや謎めいた印象が最も強く表れた作品であり、このアルバムで初めて共演した、ジャズ界の鬼才ベーシストであるジャコ・パストリアスのベース・ラインがあまりにジョニの音楽性にマッチして、恐ろしいほどに深く、しかしながら恐ろしいほどに澄んだジョニ・ミッチェルの世界へと誘ってくれるのです。

アルバム全9曲は捨て曲なしの素晴らしい楽曲水準にあることはもちろんですが、やはり特筆すべきはジャコとの共演である①⑤⑦⑨が圧巻の出来栄えであると思います。まず①「コヨーテ」は軽快なジョニのギターとアンニュイなニュアンスのジャコのベースにボビー・ホールのパーカッションがアクセントに入る程度でありながら、冒頭からこの雰囲気はなんなのだという実に不思議な世界へといきなり引きずり込まれる思いがします。⑤「逃避行」は歌うジャコのベースがさながらジョニのボーカルとデュオを奏でている、そんな印象の1曲です。さすがにタイトルナンバー、アルバム全体を覆う言うに言われぬ独自のムードが最も強く感じられる名演であると思います。

⑦「黒いカラス」は、アルバムの内ジャケットでジョニ自身が翼を広げたカラスを模したアクションをとっており、アルバムのもう一つの主題と言っていい楽曲でしょう。ジョニのアコーステックのコードカッティングにジャコのエフェクティブなコーラス・ベースとラリー・カールトンの不思議なリード・ギター、3者の演奏だけで構成されるカラスの羽ばたきはまるで絵画を見ているかのような演奏です。音楽家であり画家・写真家でもある彼女の作品はどれもみな絵画的な表現が多いのが特徴でもあるのですが、この曲における写実性は他のどの作品よりもすさまじいものがあると思います。

このアルバムの共演を機にジャコとの蜜月が始まり、次作では芸術家同士の競演がやや一般リスナーとなかけ離れた芸術の領域に入り込む嫌いも出てきます。それは言ってみれば、出会って間もなくの舞い上がっていたジョンとヨーコとも相通じる、芸術家故の嵯峨であるのかもしれません。そういった意味からも、出会いがしらのギリギリの緊張感の中で、作られたこのアルバムこそが奇跡の1枚であり、ジャケット・アートとの統一感も含め長いジョニの音楽キャリアを通じての最高傑作と呼ぶにふさわしいアルバムであると、私は信じて止まないのです。

私の名盤コレクション1 ~ Tazana Kid / John Sebastian

2011-04-17 | 洋楽
震災以降、軽ネタをお休みしていたので70年代洋楽ロードがどう展開していたのか正確には分からなくなってしまいました。そんなこんなで書き上げ済で未ロードの原稿も含め読み返してみたのですが、突然の大震災による影響なのか、自分の今の気分がなんとなく、この企画のような悠長に時代の流れを検証するノリではなくなったとつくづく感じてしまったのです。そんな訳で、少なくとも気分が戻るまで一旦中断させてもらおうと思います。

ただ洋楽ネタは引き続き取り上げていきたいので、暫定的ではありますが違う切り口のものを初めてみます。もっと自分の嗜好を前面に出していこうと思います。ブログですから。以前、「アメリカで売れた」という基準で100枚のアルバムを取り上げました。今回は、個人的な名盤をなぜそれが好きなのかを思い入れを語りつつ自己分析しながら、取り上げてみたいと思います。1回に1~2枚づつ取り上げられればと思います。では第1回。


★Tazana Kid / John Sebastian

1. Sitting In Limbo
2. Friends Again
3. Dixie Chicken
4. Stories We Could Tell
5. Face Of Appalachia
6. Wild Wood Flower
7. Wild About My Lovin'
8. Singing The Blues
9. Sportin' Life
10. Harpoon

いきなりマニアックに、ジョン・セバスチャンです。
彼は60年代に、ラビンスプーンフルと言うバンドで「魔法を信じるかい」「ディドリーム」などのヒット曲を放っています。
このアルバムは74年のリリースで、ソロになってのスタジオ盤としては3作目。
実に彼らしいカントリーやルーツ・ミュージック的な音楽に溢れた、素晴らしく温かみのあるアルバムです。

オリジナル曲ではA2「フレンズ・アゲイン」A4「ストーリー・ウイ・クッド・テル」が白眉です。
彼の人柄がにじみ出るようなやさしいメロディは、その歌声と相まってとにかく最高に癒されること間違いなしです。

カバーではジミー・クリフのA1「シッティング・イン・リンボ」、リトル・フィートのA3「ディキシー・チキン」という今となっては超有名曲を、いち早く取り上げています。
特に「ディキシー・・・」では、作者の今は亡きローウェル・ジョージがギターを弾き同時期にリリースされたフィートのアレンジとは一味違う粋な演奏を聞かせてくれています。
フィートのオリジナルではビル・ペインのピアノがかなり強力なアクセントになっているのですが、ここではキーボードはなく完全ギターアレンジのジョンとローウェルのデュオ的な演奏が最高にイカしています(ローウェルとの共演はもう1曲、共作の「フェイス・オブ・アパラチア」が収められています)。

他には56年ガイ・ミッチェルの№1ヒット「シンギング・ザ・ブルース」なんていう、個人的に最高にセンスのいいカバーもあったり、「ワイルドウッド・アバウト・マイ・ラヴィン」や「スポーティン・ライフ」と言ったトラディショナルをもとにスプーンフル時代にカバー&改作していた曲のセルフカバーもあり、本当に彼の魅力の全てが凝縮された作品なのです。しかもゲスト陣には、ローウェルの他にもライ・クーダーやデビッド・リンドレー、さらにポインター・シスターズなど私の大好きな面々の名前がズラリ。このセンスすごいわと思ずにはいられない訳です。最高。古き良き70年代がここにあります。

この後76年に、テレビドラマの主題歌「ウエルカム・バック」の№1ヒットでにぎにぎしく表舞台に復活する彼ですが、同曲収録の同名タイトルアルバムよりもゲスト陣の活躍も含め楽曲、演奏とも断然こちらの出来が優っています。

レコード時代には日本発売された形跡はなかったものの、04年に限定紙ジャケで突如奇跡の国内リリースがなされました(来日でもないのに)。今はもう入手は難しい?手に入るなら、絶対に一聴して損のない名盤です。

P.S.アマゾンで輸入盤ありました。
http://www.amazon.co.jp/Tarzana-Kid-John-Sebastian/dp/B000IAZN9U

音楽夜話~アンコール1時間!現役感バリバリのコステロ・ソロライブ

2011-03-05 | 洋楽
エルビス・コステロを渋谷Bunkamuraミュージアムで見てまいりました。

今回は彼の完全ソロパフォーマンス。ギター一本でどんなライブを見せてくれるの興味津々でした。日本ではややマニアックな印象で受け止められているからなのか、客の入りは2、3階席は使用しない仕様の1階のみで約7割程度。本人のヤル気に影響が出るのではないかと少々心配になる状況下、定刻5分過ぎに客電が落ちてご本人登場!なんのもったえつけもなく、サッサと登場していきなり卓上のipadを操作すると打ち込みを多少入れて演奏スタートです。「最新IT使いこなしてるぜ」というパフォーマンスと紛れもなく本人に相違ないしゃがれ声にまずは軽く感動させられます。ギター一本であるだけに余計に彼の声が全面に出て、彼の声のファンでもある私にはけっこう嬉しい聞きごこちでの滑り出しでした。

2曲目に「レッド・シューズ」5曲目には早くもマイ・フェバリット「ヴェロニカ」が登場。さらに6曲目には「グッド・イヤーズ・フォー・ザ・ローゼス」なんていう意外なナンバーまで飛び出して(実はこのカントリー調が私は大好きだったりするのです)、早くも「元を取ったわい」と大喜びの前半戦でした。その後は、「この曲は嫌いなんだよ」と言いながら歌い始めた「エブリデイ・アイ・ライト・ア・ブック」(これがアルペジオギターでなかなかな聞かせモノだったりしました)、近作曲をはさみながら「オールモスト・ブルー」ではステージ縁に腰掛けてマイクを使わずに生声で熱唱したり。打ち込みバックにセミアコで歌った「ウォッチング・ザ・ディテクティブズ」、アラン・トゥーサンとの共演作からの「リバー・トゥ・リバース」で盛り上げて、最後は超名曲「アリスン」で約1時間の本編終了。「あれ?もう終わり?」ってややあっけない感じがしたものの、実はここからがコステロの本領発揮でした。

一度袖に引っ込んでまたすぐアンコール登場すると、そこから代表曲、近作曲取り混ぜのコステロ・ワールド全開で、怒涛のアンコール4回、アンコールだけで全13曲という大盛り上がり大会と化したのでした。終わってみれば、本編1時間、アンコール1時間の完全二分構成と言った趣でコステロ節にドップリと浸からせていただいたわけです。ちなみにアンコールでは、ハンドスピーカーと電飾警棒でアバンギャルドなアレンジを披露した最新作からの「ナショナル・ランサム」にはやや面食らったものの、「シー」「オリバーズ・アーミー」「シップビルディング」「ブリリアント・ミステイク」(個人的にはここいらあたりが最高に嬉しかったりします)「ピース・ラブ・アンダースタンディング」(僚友ニック・ロウの曲ですな)などの代表曲が続々登場して、大ラスは「パンプ・イット・アップ」で総立ち&大合唱の会場一体状態のうちに幕を閉じたのでした。7割の入りもなんのその、ギター一本で静かに始めて最後にはキッチリ総立ちで終わらせるあたりは、さすがの貫禄。現役感バリバリのコステロを十分すぎるほどに堪能させていただきました。

ちょうど時を同じくしてイーグルスが来日してドーム公演を繰り広げています。逆らうメンバーをクビにして“カネの亡者”と化したドンとグレンの再結成イーグルスは、7年前にドームで見てドン・ヘンリーが半分もドラムを叩かずボーカル屋に徹しての予定調和的な盛り上がりにひどくガッカリさせられたので今回は見送り。聞けば今回、歴史的円高の最中にもかかわらず、ドームのスタンド席でも12000円也とか。片やコステロは完全ソロとは言いながらも、6800円で現役感バリバリ予定調和なしの自然発火的大盛り上がりライブ。どちらに価値を見出すかは聞き手の自由ではありますが、70年代を彩った2組のアーティストが同じ時期に全く趣の異なったライブを日本で行ったことは、登場から30年以上を経たロックレジェンドたちのその後の生き様の違いを知る上でとても興味深い出来事であると思えました。私は当然、コステロの様に生きたいものです。


★好評更新中★「日本一“熱い街”熊谷発社長日記」
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「70年代洋楽ロードの歩き方34」~ハードロック 6

2011-02-27 | 洋楽
ベック→ツェッペリンの流れを受けて成立した第二期~第三期ディープ・パープルを、70年代ハードロックのプロトタイプとする本ブログでは純粋なハードロックには分類しがたいものの、触れておく必要のある英国勢を取り上げます。

まずはエリック・クラプトン。これまでもベック以前のヤードバーズのギタリストとして、またはその後のハードロック誕生前夜のクリームのギタリストとして、その活躍ぶりについては触れてきましたが、クリームはあくまで“ハード・ブルースバンド”であったと位置付けてきました(ただ我々世代の学生バンドでは、「ライブ・ボリュームⅡ」バージョンの「ホワイト・ルーム」や「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」を、パープル同様に“ハードロックの教典”としてこぞってコピーしたものです)。クラプトンのその後ですが、米国へ渡りデラボニとの出合いによるスワンプ・ロックへの傾倒が彼の音楽人生を大きく転換させました。一番大きな変化は自ら歌う道を選んだこと。この“歌えるギタリスト”への変貌は、当時の「敏腕ギタリスト+シャウト系ボーカリスト」という、70年代型ハードロック成立の基本要件を損ねる結果に至ったのです。彼はこの後、スワンプとブルースをこよなく愛する“歌えるギタリスト”路線を歩み続けることになります。

続いてはザ・フー(写真)。彼らは60年代モッズ系のロックバンドとして、英国本流のマージービート系ロックバンド(代表格はリバプールサウンドのビートルズ、ブルース系のストーンズとヤードバーズ)とは一線を隔する存在として君臨します。60年代末期に向けてはプログレッシブ・ロックともある意味で共通項も見出せる至極英国的なロック・オペラという画期的分野を開拓(同時期にキンクスもまたロック・オペラへの流れを標榜します)。歴史的名作である2枚組ロックオペラ「トミー」は69年にリリースされますが、相前後して時代はハードロックバンドの原型であるジェフ・ベックグループやレッド・ツェッペリンを次々生み落としていました。その影響を少なからず受けたであろう彼らは、翌70年に実にハードロック的手触りのライブアルバム「ライブ・アット・リーズ」をリリースするのです。ヒット曲「マイ・ジェネレーション」や「サブスティテュート」は重たく厚化粧を施されたサウンドで生まれ変わり、エディ・コクランの「サマー・タイム・ブルース」などは、およそ同じ曲とは思えぬほどにハードなアレンジで音楽ファンの度肝を抜いたのでした。

フーはピート・タウンゼントという敏腕ギタリストとロジャー・ダルトリーという実力派ボーカリストを擁し、十分なハードロック的資質を持ち合わせていながらも、純粋な70年型ハードロックには分類しがたいと考えます。それは主にロックオペラ構想に代表されるピート・タウンゼントの思慮深さに負う部分が、いわゆる能天気なハードロック・バンドとは一線を隔さざるを得ないと考えられる故です。71年の未完の巨大ロックオペラ「ライフハウス」プロジェクトの楽曲で構成された「フーズ・ネクスト」や、73年のロックオペラ第二弾「四重人格」などのハードロックの枠組みを大きく踏み越えた名作を次々生み出してもいます。そんな流れで見ると、「ライブ・アット・リーズ」は彼らにとってはやや異質なアルバムであると言ってもいいのかもしれません(ただし、90年代以降に出された本作の「25周年記念エディション」や「完全版」を聞く限りにおいては、「トミー」のステージ上での再現が実は本ライブのメインアクトであり、これらの形で聞くことで決して本作は異質な存在ではないと後付的には分かるのですが・・・)。

もうひとつ最後に、フリーというバンド。基本的にキーボードを排した潔さとポール・ロジャースという稀代の名ボーカリストとポール・コソフという腕の立つギタリストを中心としたバンドアンサンブルは、70年代初頭に誕生したハードロックの流れにのる資質は十分にあったバンドでありました。ただし彼らはこの時点ではブルースの影響が色濃く残る音楽性であり、ディープ・パープルに代表される“音楽的しがらみ”を感じさせない音づくりであるか否かと言う観点からは、やはり70年代型ハードロックには分類しがたい存在であるのです。むしろフリーの解散後、ポール・ロジャースがグラムロックの雄であった元モット・ザ・フープルのミック・ラルフスと結成したバッド・カンパニーにこそ、ややアメリカ的匂いが強く漂うものの、70年代ハードロック的要素をより強く見出すことができるのです(ちなみに、私がはじめて組んだ中学生時代のハードロック・バンドの初音合わせでプレイした曲は、バドカンの「キャント・ゲット・イナッフ」でした)。

★70年代ハードロックを深く知るアルバム
①「ライブ・アット・リーズ/ザ・フー」
②「BAD CO/バッド・カンパニー」

「70年代洋楽ロードの歩き方33」~ハードロック 5

2011-02-12 | 洋楽
ジェフ・ベックとレッド・ツェッペリンによって開かれた70年代ハードロックの扉は、ディープ・パープルによってルーツ的な音楽要素を排することでより明快で分かりやすい形に変貌を遂げ、新しい音楽スタイルのプロトタイプが出来上がったのでした。では、ディープ・パープルを70年代型ハードロックの誕生と位置づけた場合、一般的に元祖“ハードロックの雄”とされるレッド・ツェッペリンはどのようなポジショニングになるのでしょうか、少し考えてみようと思います。

ツェッペリンはその前身がヤードバーズであり、カバーを含めブルースの影響を強く受けているのは当然のことでありましたが、それと同時にギタリストでバンド結成の主導権を握っていたジミー・ペイジの特異な音楽嗜好が大きく反映されたバンドでもあったのです。ジミー・ペイジの特異な音楽嗜好とは、英国トラッド・フォークに代表される民族音楽的嗜好であり、彼はその音楽性を新バンドで反映させつつメンバーであるボーカルのロバート・プラントやドラムのジョン・ボーナムの個性をもっとも上手に生かす方法として、ジェフ・ベック・グループのハードロック的手法を取り入れツェッペリンをスタートさせたのでした。デビュー作「レッド・ツェッペリン」でも、A2「ゴナ・リーブ・ユー」やA4「幻惑されて」などトラッド・フォークをロック的に展開した曲が際立っており、ハードロックというよりはむしろ“ハードフォーク”と言ったほうがシックリくるのではないかと思えるほどなのです。

60年代にトラッド・フォークに根ざしたアコースティック・サウンドで独自の呪術的な音楽を展開していたマーク・ボラン率いるティラノサウルス・レックスが、70年代初頭にギターをエレクトリックに持ち替えてTレックスの名の下「ゲット・イット・オン」の大ヒットを皮切りとしたグラムロックの一大ムーブメントを起こしています。デビュー作~「ツェッペリンⅡ」を通じて、ツェッペリンがディープ・パープルによる70年代型ハードロックの成立に与えた影響の大きさは誰もが認めるところではありますが、Tレックスのケースも同じトラッドフォークを基調としたペイジ=ツェッペリンの“ハード化戦略”に影響をされてものと考えることができるのです。すなわち、ツェッペリンは単にハードロック誕生の起爆剤的役割を果たしだけでなく、70年代初頭においてすでに広く70年代ブリティッシュロックの流れに大きな影響を及ぼす存在であったと言えるのです。

ツェッペリンというと、A1「胸いっぱいの愛を」やB1「ハートブレイカー」に代表されるハードロック・アルバム「レッド・ツェッペリンⅡ」や、「Ⅳ」におけるロックの教典的扱いを受けたA1「ブラック・ドック」やA2「ロックンロール」の印象が強く、どうも“ブリティュシュ・ハードロック・バンド”として通り一遍の扱われ方をされがちです。しかしながら、音楽的リーダーであったジミー・ペイジの嗜好を考えるならむしろアルバム「Ⅲ」におけるトラッドフォーク的アプローチこそが彼らのオリジナリティの真骨頂であり、これが「Ⅳ」におけるロック史に燦然と輝く歴史的名曲「天国への階段」の誕生にもつながっているのです(この曲すらも単なるハードロックバンドの“箸休め的”ロックバラードのハシリ的に受け取られるといった誤った認識もいまだに多く存在してます)。アルバム「聖なる館」では「デジャー・メイク・ハー」でスカリズムを取り入れたり、アルバム「フィジカル・グラフィティ」の「カシミール」では遠く旧英国領であるインドに思いを馳せた名曲を作り上げるなど、その後もハードロックの枠組だけではくくりきれない独自性を確実に提示し続けたのです。

こうしてレッド・ツェッペリンは、ハードな一面を輝かせつつもトラッド・フォークに端を発した独自の音楽ミクスチュアを実現し、単なる「ハードロックの雄」という表現では語り尽くせない偉大なる「ツェッペリン伝説」を展開したのです。日本では、一時期人気を二分したツェッペリンとパープルですが、単なるハードロックで終わったかそうでなかったかかが、その後の評価を大きく左右したように思います。

「70年代洋楽ロードの歩き方32」~ハードロック 4

2011-02-06 | 洋楽
リフ系かつ達者なリードギターとシャウト系のボーカリストという組み合わせを基本としてブリティッシュ・ハードロックは形作られました。70年代型ハードロックの成立を第二期ディープ・パープルを基準として捉えてみると、70年代ロック音楽がどのようなバリエーションを見せていったかが分かり易くなります。

パープルは、ギターにリッチー・ブラックモア、ボーカルにイアン・ギランを配し、アートロック時代には中心的役割を果たしていたキーボードのジョン・ロードがしっかりと脇を固めたバンドでした。同時期にこの形に良く似たスタイルをとっていたのが、ユーライア・ヒープ(=写真)と言うバンドでした。ボーカルのデビッド・バイロン、ギターのケン・ヘンズレー、キーボードのミック・ボックスという三方向にバランスのとれたトライアングルは、まさしく70年代ハードロックの典型的パターンでありましたが、曲によってギターが前面に出てよりハードな一面を見せながらも、キーボードが前面に出る場面ではややプログレッシブ・ロック寄りのアプローチがうかがえたりもするバンドでした。彼らの代表曲「対自核」や「安息の日々」など70年代ハードロックの古典的ナンバーを送りだす一方で、キーボードが前面で活躍する大作「7月の朝」のようなプログレ的名曲も残しています。

他方、第二期パープルと同時期の英国で70年代ハードロック的アプローチで登場したブラック・サバスは、トニー・アイオミのギターとオジー・オズボーンのボーカルのコンビを前面にたて、重量感あふれるギターサウンドを核にしたよりハードなサウンド構成で、その名の通り黒魔術をイメージさせるおどろおどろしさを強調したハードロックを展開しました。この路線はすなわち、後にヘビーメタルと言われるジャンルにつながる流れをつくった訳です。「黒い安息日」「パラノイド」「血まみれの安息日」などはその代表的なナンバーで、そこにあるのはディープ・パープルのようなある意味“能天気”な音楽ではなく、オカルト的70年代カルチャーとロックを結びつけた点で革命的なバンドであったと言ってもいいのかもしれません(残念ながら日本では、レコード会社のプッシュの弱さとルックスの点でリアルタイムでは全くブレイクしませんでした)。

このように誕生間もない70年代型ハードロックは、ディープ・パープルを中央に置いて、よりキーボードサウンドに傾斜したユーライア・ヒープから先にはプログレッシブ・ロックが位置し、よりギターサウンドに傾斜したブラック・サバスの先にはヘビーメタルが位置するといった系譜が徐々に出来上がって来るのです。その一方で、60年代末期にハードロックの発火点となったバンドであるレッド・ツェッペリンは、ブルーズ、トラッド・フォークといったルーツ音楽への回帰を踏まえつつ、上記のストレートなハードロック・バンドたちとは一線を画する動きに入っていきます。この動きはまた、成長期のハードロック界に新たな“ロック美学”のあり方を形づくらせていくことにもなるのです。

★70年代ハードロックを知る名盤
�「対自核/ユーライア・ヒープ」
�「黒い安息日/ブラック・サバス」
�「レッド・ツェッペリンⅢ」

「70年代洋楽ロードの歩き方31」~ハードロック 3

2011-01-23 | 洋楽
ジェフ・ベックによって方向づけられ、レッド・ツェッペリンによって形作られたハードロックの基本形は、ベックとロッド、ペイジとプラントを手本として、70年代初頭には優れたギタリストとシャウト系のボーカリストを擁することを必要条件として形式が整ってきたのでした。

60年代後半に既に英国でクラシックの洗礼を受けたキーボード・プレイヤー、ジョン・ロードを中心としてアート・ロック的活動を開始していたディープ・パープルは、こうしたジェフ・ベックやツェッペリンの影響をもろに受けドラスチックな変貌を遂げます。70年代初頭に一部メンバーの解雇によりシャウト系の超人的ボーカリスト、イアン・ギラン(写真左端)を迎え、これを機に演奏面はリッチー・ブラックモア(写真右から2人目)のソリッドなギターリフを中心としたものへと移行。70年にその名も「イン・ロック」という一気にハードロックに転じたアルバムをリリースして、大きく飛躍したのです。A1「スピード・キング」は、まさにその変貌を象徴するナンバーでした。このアルバムとシングル「ブラック・ナイト」の大ヒットによって、「パープル=ハードロックの雄」という概念が定着したのでした。

その後パープルは、ハードロック史に燦然と輝く名曲「ハイウェイ・スター」「スモーク・オン・ザ・ウォーター」を含む72年のアルバム「マシン・ヘッド」により、その地位をさらに確固たるものにします。さらにこの勢いを駆って約半年後にはこれら生まれたばかりのハードロック名曲群を、ライブ・パフォーマンスにおいてより一層過激な再現をしてみせたアルバム「ライブ・イン・ジャパン(欧米では「Made In Japan」のタイトル)」をリリースし、ハードロック・ライブのひとつのプロトタイプを提示したのでした。「Made In Japan」は英米で大ヒット。特に日本では、自分たちが目の前で見たステージが正式ライブ盤としてワールド・ワイドに発売されるという“栄誉”も手伝って、歴史的名盤としてその後長きにわたり“ハードロック小僧”たちの間で教科書的に語り継がれていくのです。

大飛躍を遂げ、世にハードロックの在り様を明確に定義づけた第二期ディープ・パープルでしたが、急激な大ブレイクによりメンバー間に確執が発生し、73年には再びメンバーチェンジを余儀なくされます。天才ボーカリストの脱退によりパワーダウンが懸念されたパープルでしたが、新メンバーのデビッド・カヴァーディル(Vo)グレン・ヒューズ(B、Vo)を加え74年に再スタート。それまでのどの代表曲にも負けないハードロックの代名詞的名曲「紫の炎(キムタク出演のタマホームのCMで流れるあの曲です)」をフィーチャーしたアルバム「紫の炎」をリリースし、70年代ブリティッシュ・ハードロックにおける不動の地位を確立したのでした。このタイトル曲における、ブラックモアの印象的なギター・リフと強烈なギターソロは、ブルースの影響から解放された全く新しいジャンル、ハードロックのギターのお手本と言うにふさわしく、本当に素晴らしい作品に仕上がったのです。ベック→ツェッペリンときたブリティッシュ・ハードロック誕生期の流れは、ディープ・パープルによってブルース色が排除され、新たな音楽ジャンルとして確立期に入っていったのでした。

★ハード・ロックを知る基本アルバム★
①「イン・ロック/ディープ・パープル」
②「マシン・ヘッド/ディープ・パープル」
③「ライブ・イン・ジャパン/ディープ・パープル」
④「紫の炎/ディープ・パープル」

「70年代洋楽ロードの歩き方30」~ハードロック 2

2011-01-16 | 洋楽
ハードロックの元祖第一期ジェフ・ベックグループは2枚のアルバムを残して69年、彼の気まぐれからあえなく解散します。返す刀でベックが結成に動いたのが、アートロックの雄と言われたヴァニラ・ファッジのティム・ボガート(B・VO)、カーマイン・アピス(D)との新たなるハードロック・バンドでした。しかしながら、ベックが交通事故で重傷を負うという事態になり、ボガートとアピスはベックとのバンドをあきらめカクタスを結成。ベックの次なるハード路線は立ち消えになりました。聞くところによれば、ボーカルには第一期ベックと同じロッド・ステュワートを予定していたと言うのですから、このバンドがこの時期に結成されていれば洋楽の歴史は違ったものになっていたのかもしれません。

一方、ベックのバンドを手本にしてブルースを基調としながらもハード路線に打って出たバンド、レッド・ツェッペリンを結成したジミー・ペイジですが、69年にはハードロック・アルバム最初の傑作と言える「レッド・ツェッペリンⅡ」をリリースします。「胸いっぱいの愛を」「ハート・ブレイカ―」などの後世に語り継がれる名曲を多数含んだこのアルバムでは、ギターリフを中心としたハードロックのひとつのスタイルが確立されています。これによりギターを中心とした当時のバンドアンサンブルにおけるギタリスト第一人者の地位は、ベックではなくペイジとして歴史に刻まれ、いよいよ新たな時代である70年に突入することになるのです(クリームを解散させたクラプトンは、この当時もハードロックと言うよりは多分にブルース寄りであり、彼はその後のキャリアを通じても決してハードロック・ギタリストでないと思います)。

ベックはその後第二期ジェフ・ベックグループを結成しますが、ここで彼は新たにブラック寄りのアプローチとジャズ系キーボード奏者マックス・ミドルトンの影響によりその音楽ベクトルを急展開させます。これが後の「ブロウ・バイ・ブロウ」以降の“孤高のギタリスト路線”につながる重要なポイントなのですが、このあたりは別項で改めて触れたいと思います。彼が70年代初頭にやり残したハードロック路線の活動は、73年第二期ジェフ・ベックグループ解散後に待望久しいボガート、アピスと結成したベック・ボガート&アピス(BB&A=写真)として遅ればせながら実現します。しかしながらこのバンドは、ハードロック黎明期の69年に企画されたバンドであり、時代の流れが急速であった70年代前半において企画から4年後に結成の陽の目を見たバンドでは既に時代に共鳴を求めることは難しく、1枚のスタジオ盤と日本のみ発売のライブ盤を残してあっさりと解散、彼が再びハードロック路線に舞い戻ることはありませんでした。

※実はこのBB&Aは日本が当時、海外情報不足もあり英米ポピュラー音楽の時代の流れの外にいたことで、73年当時でありながらこのオールドスタイルのハードロックバンドが日本に限って熱狂的に迎えられ、「BB&Aライブ・イン・ジャパン」も名作ライブと言われていました。実際このライブアルバム、確かにボーカルが弱くキーボード不在という点が73年レベルからは古臭いのかもしれませんが、3ピースとは思えない重厚感溢れる良質なハードロック・ライブでして、重たいリズムセクションといつになくハードでソリッドなベックのギターが冴えわたっていて個人的には大好きなライブ盤です。40年近くにわたる愛聴盤のひとつだったりします。

★ハードロック黎明期を知るアルバム
①「レッド・ツェッぺリンⅡ/レッド・ツェッペリン」
②「ベック・ボガート&アピス・ライブ・イン・ジャパン/ベック・ボガート&アピス」

「70年代洋楽ロードの歩き方29」~ハードロック 1

2011-01-10 | 洋楽
洋楽におけるロックと呼ばれる音楽は50年代末期に黒人音楽と白人音楽の融合によってロックンロールとして登場し、60年代にビートルズ、ストーンズ、フーを代表格として短くロックと呼ばれる音楽ジャンルが確立されていきました。そして60年代の後半にはさらにそれらの中でより激しいビートを刻むハードロックの源流的な動きが活発化していきます。発端はエレクトリックなギターサウンドの台頭であり、その原点的アーティストとも言えるのがイギリスのヤードバーズだったのです。ヤードバーズは、当時の一般的なバンド形態であったボーカル中心の演奏から、腕利きのギタリストを前面に押し立てたギター中心で聞かせるブルース・ロック・バンドでした。そして、このバンドから生まれた3人のギタリストが、ロックの新たな流れを生みだすことになるのです。

その1人目がエリック・クラプトンです。彼は66年にヤードバーズを脱退すると、ギター、ベース、ドラムの3ピースバンドであるクリームを結成します。クリームは、音楽機材の当時の目覚ましい進歩にも助けられ、大音響とバトル的インプロヴィゼーションを特徴とした“ハードな”音づくりで人気を博すことになります。しかしながら、まだクリームはギターバンドではありながら、基調とする音楽はあくまでブルースであり、その意味ではハードロックではなく“ハードブルース”であったと言うのが正しい見方であるのかもしれません。クラプトンの後を受けた2人目がジェフ・ベック。彼も68年にはヤードバーズを抜け、自らのバンド第一期ジェフ・ベック・グループ(=写真)を結成します。この時のメンバーには、ボーカルであのロッド・ステュワート、ベースではロン・ウッド(現ローリング・ストーンズ)がいたのです。

第一期ジェフ・ベック・グループの音楽は、ベックのギターとロッドのボーカルがすさまじく対決するまさしくハードロックであり、ロックがまだロックンロールであった時代のプレスリーのナンバーなどを敢えて新たな解釈で取り上げているのは、「ハードロック誕生」を高らかに宣言しているかのようにも思えます。「ギタリストには2通りしかない。ジェフ・ベックとそれ以外だ」と言われたように、当時としては突出してハードなギターを弾きまくり、まさに世界初のハードロック・ギタリストとしてその名を世界にとどろかせたのでした。このバンドは2枚のアルバム「トゥールース」と「ベック・オラ」を残していますが、迫力と衝撃度合いでは前者、作品的まとまりでは後者という感じの出来になっています。

ベックを継いだヤードバーズ3人目のギタリストはジミー・ペイジ。彼は同バンドを発展的に解消させ、ハードロックバンド、レッド・ツェッペリンを立ち上げました。デビューアルバム「レッド・ツェッペリン」を制作した際に、「バンドの音作りの参考にしたのはベックの『トゥールース』だ」と言っているのは有名なお話です。ツェッペリンの原点すなわちハードロックの原点は、第一期ジェフ・ベック・グループであったと言えるのです。
(この項つづく)

★ハードロックの歴史を知るアルバム~その1(プレ70年代)★
①「トゥールース/ジェフ・ベック・グループ」
②「ベック・オラ/ジェフ・ベック・グループ」
③「レッド・ツェッペリン/レッド・ツェッペリン」

「70年代洋楽ロードの歩き方28」~ローリング・ストーンズ6

2010-12-26 | 洋楽
しばし間が空いてしまいましたが、年内最後にストーンズまで終わらせておきます。

60年代末から始まった“ストーンズ・スタイル”づくりはロン・ウッドの加入で遂に完成し、不動のメンバー構成が確立されました。時を同じくして70年代後半に音楽界に新たなムーブメントが巻き起こります。ひとつは空前のディスコ・ブーム、今ひとつは“アフター・ザ・ビートルズ”時代の終わりを告げるパンク、ニューウェーブの勃興でした。このような新しい流れを受けて、70年代前半に隆盛を誇った英国のグラムヒーローや米国のスワンプロッカーたちは翻弄されすっかり影を薄くしていきます。そんな状況にあって自分のスタイルを完全に確立したストーンズは、全く動じることなく時代の荒波の中、自身のスタイルを基調にした活動で一層存在感を増していくのでした。

ロン・ウッドが初めて全編参加した79年のアルバム「サム・ガールズ」はまさしく、王者ストーンズによる新たな時代の到来に対する堂々たる返答でありました。まず、何よりも驚かされたのは、ストーンズがディスコ・ビートを全面的に取り入れたA1「ミス・ユー」(2010年の現時点で彼ら最後の№1ヒット)。当時ビージーズをはじめとしたホワイト系ディスコ・ナンバーが人気を集める中、リズムこそディスコのそれを借りながらも黒っぽさも感じさせる完璧な“ストーンズスタイル”に仕上がった驚くべきナンバーでした。このあたりのストーンズの凄さは、同時期に「アイム・セクシー」でディスコに挑戦したロッド・ステュワートが、完全にディスコ・ブームに媚びて飲まれていたのと好対照だったことからもよく分かると思います(こちらも曲は№1になったものの、ロッドはここをピークに急激な人気下降線をたどるのです)。

さらにパンク・ニューウェーブに対しても、新勢力から真っ向勝負を挑まれた王者としてB2「リスペクタブル」B5「シャタード」などのソリッドなナンバーで正面から受けて立つ姿勢を崩しませんでした。この貫禄とも言える対応に、過激なニューロッカーたちの登場を少なからず疎ましく感じていた長年のストーンズ・ファンは、「さすが兄貴!」と溜飲を下げ、来るべき80年代も「ストーンズ健在なり」を確信したのです。実際この後80年代以降のストーンズは、70年代に確立した“ストーンズ・スタイル”を決してゆるがせにすることなく、時代時代の新たな波も自身のスタイルのなかに取り込み決して、他のどのバンドも真似が出来ないようないわゆる“ストーンズ的な”活動を現在に至るまで続けているのです。

さて最後に、70年代のローリング・ストーンズの「正しい聞き方」を総括しておきます。60年代末期ルーツ・ミュージックへの接近を機に、シングル・ヒットメーカーからの脱皮をはかり、独自の音楽性を築き上げたストーンズ。70年代のアルバムはすべて必聴盤であると思います。なぜなら彼らは、他の誰よりも70年の音楽的メインストリートのド真ん中を歩いていきたバンドであり、ルーツ・ロックを基調とした60年代の総括的①「スティッキー・フィンガーズ」②「メインストリートのならず者」、都会派に移行しつつもつかみどころがなく混沌とした印象が強い70年代中期の③「山羊の頭のスープ」④「イッツ・オンリー・ロックンロール」⑤「ブラック&ブルー」、そしてスタイル確立後ディスコ、パンクに対して明確な回答を突き付けた⑥「サム・ガールズ」の各アルバムは、単に彼らのルーツや歴史にとどまらず、ある意味70年代の音楽界の流れをかなり明確に教えてくれる生きた資料でもあるのです。

少しでもストーンズや70年代ミュージックに関心のある人は、ぜひこれらストーンズの70年代アルバム6枚を年代順に聞いてみることをおススメいたします。彼らの歴史だけでなく、70年代の音楽シーンがどのような変遷をたどって80年代以降の「MTV全盛→洋楽不毛」の時代に入っていったのかが、ご理解いただけることと思います。この6枚の他にもう一枚忘れてならないのがライブアルバム⑦「ラブ・ユー・ライブ」。30年以上を経た今も“現役”を続ける“世界最強のライブバンド”ストーンズが、すでにこの時代に今の“王道スタイル”を確立させていたことを実感できる最強のライブなのです。70年代の洋楽を正しく理解する上では、これを加えた①~⑦の7枚すべてが必聴と言えるのです。
(この項おわり)