静聴雨読

歴史文化を読み解く

フランソワ・トリュフォー

2010-12-13 08:06:58 | 映画の青春

(1)神保町シアター

フランソワ・トリュフォー(1932-84)は、ジャン・リュック・ゴダール、クロード・シャブロルと並んでヌーヴェル・ヴァーグの旗手といわれますが、三人の映画手法はまったく異なります。ゴダール=破壊的・前衛的、トリュフォー=伝統継承的かつ前衛的、シャブロル=伝統継承的かつ家族的、という違いがあります。

トリュフォーの映画では、カメラは流れるように、シークエンスも流れるように、主題も家族・仲間・同志などが多いのが特徴です。代表作を一作だけ挙げるのは難しく、『突然炎のごとく』『アメリカの夜』『ピアニストを打て』『華氏451』などみな傑作です。

以上は、「私のバックボーン(近・現代外国人編)」というコラムで、トリュフォーについて述べたくだりですが、やや記憶から薄れかけたトリュフォーを呼び覚ます出来事が昨年秋にありました。東京・神田神保町の「神保町シアター」で、彼の没後25年を記念する回顧上映が企画されたのです。

トリュフォーは生涯に25編の映画を演出しましたが、そのうち14編を「神保町シアター」で見ることができました。

折角なので、プログラムを書き写しておきます:

・アントワーヌ・ドワネルの冒険を描く連作
1 『大人は判ってくれない』、1959年
2 『アントワーヌとコレット』、短篇、1962年
3 『夜霧の恋人たち』、1968年
4 『家庭』、1970年
5 『逃げ去る恋』、1979年
(以上5作は、トリュフォーの分身を連想させるアントワーヌ・ドワネルの少年時から30歳代までのスケッチです。)

・その他の作品
6 『あこがれ』、短篇、1959年
7 『ピアニストを撃て』、1960年
8 『突然炎のごとく』、1961年
9 『柔らかい肌』、1964年
10 『恋のエチュード』、1971年
11 『私のように美しい娘』、1972年
12 『終電車』、1980年
13 『隣の女』、1981年
14 『日曜日が待ち遠しい!』、1983年

今、14本のトリュフォー映画を見直してみると、長編第一作の『大人は判ってくれない』が圧倒的に優れているのがわかりました。文学者について、「処女作にすべてが胚胎している。」といわれますが、同じように、トリュフォーの長編映画第一作『大人は判ってくれない』には、彼のすべての美質が芽を出しています。 

(2)山田宏一

「神保町シアター」でフランソワ・トリュフォーの回顧上映を見た後、一冊の本を読みました。

 山田宏一『増補新版 トリュフォー ある映画的人生』(1994年、平凡社)

これが素晴らしい本だったので、それを紹介します。

これは、長年、トリュフォーと親しく接して来た著者の、「トリュフォーとその時代」ともいうべき評伝です。作家論ではありません。トリュフォーの来日時に学生であった著者は、通訳を勤めたそうです。それ以来、トリュフォーの文章を翻訳し、トリュフォーの映画に字幕を付け(「神保町シアター」で上映された14編のトリュフォー映画には、すべて「翻訳=山田宏一」のクレジットがありました)、トリュフォーにインタビューし、というように、トリュフォー漬けの日々を過ごしたようです。

そのような著者には、「トリュフォーとその時代」を語るにふさわしい経験の蓄積があります。

トリュフォーは少年時に親の愛に恵まれず、学業も嫌いな子になります。この点は、『大人は判ってくれない』にビビッドに描かれています。そういうトリュフォーは映画にのめり込みます。弱冠12歳で、自らの将来を映画監督に措定しています。
トリュフォーの後見人を引き受け、トリュフォーを映画界に紹介したのがアンドレ・バザンで、トリュフォーは生涯、バザンの死後までも、バザンへの恩義を感じ、バザンの顕彰に力を尽くします。この点は日本人の感性に極めて近いと思います。

トリュフォーの映画界でのキャリアは映画評論家として始まりました。クロード・オータン・ララやルネ・クレールなどの「既存の」大物監督をこきおろし、一方、ジャン・ルノワールやアルフレッド・ヒチコック、ハワード・ホークスなどのアメリカ映画の監督をほめちぎります。このような映画観がジャン・リュック・ゴダールなどの仲間に共通してあり、これが「ヌーヴェル・ヴァーグ」という潮流を生み出す原動力になりました。

やがて、監督に転じたトリュフォーは、家族・仲間・同志を主題に選びながら、「愛」を描く映画作家になっていきました。実生活でも多くの女性を愛し、その中にはカトリーヌ・ドヌーヴなどの女優もいました。
「反抗」から「愛」へ、というのがトリュフォーのたどった道で、彼の映画は彼の自画像のようなものです。

以上は、この本から得た知識ですが、この本の素晴らしさを要約すると:

1 「トリュフォーとその時代」の資料を広く博捜して、同時代の映画史の中にトリュフォーを浮かび上がらせていること。

2 トリュフォーへの親愛がにじみ出ていること。しかし、何でもトリュフォーを賛美するのではなく、一定の距離感をもって、トリュフォーの映画に接していること。

3 「反抗」、「愛」、「恩義」などの概念を抽出するのに成功していること。

おそらく、山田宏一『増補新版 トリュフォー』は、トリュフォーの評伝の中でも一番優れたものでしょう。フランス人による評伝よりもさらに優れている、と言っても言い過ぎではありません。 

(3)ゴダール

フランソワ・トリュフォーとジャン・リュック・ゴダール(1930-)。この二人はフランス映画の「ヌーヴェル・ヴァーグ」の旗手として、広く認知されています。

この二人は、映画監督としてのキャリアを始める前の経歴に共通するものがあります。共に、シネクラブ(映画上映運動)を主宰して、アメリカのハワード・ホークスやアルフレッド・ヒチコック、フランスからアメリカに渡ったジャン・ルノワールなどを称揚します。返す刀で、フランス映画界の既成勢力を鋭く否定しました。また、映画評論家としても、二人は頭角を現わしました。

映画監督としてデビューする前には、その準備段階として、二人はシナリオをいくつも書いたようです。

山田宏一『増補新版 トリュフォー』に面白いエピソードが紹介されています。ゴダールの監督デビュー作『勝手にしやがれ』(1959年)の最初のシナリオを書いたのが、実はトリュフォーだったというのです。
ゴダールはそれまで、何本も何本もシナリオを書きましたが、プロデューサーから却下されてしまいます。それで、トリュフォーがいつか自分で演出しようと温めてあったシナリオをトリュフォーから譲り受けたのです。その頃は、それほど、二人の仲は良かったようです。

もちろん、ゴダールはトリュフォーのシナリオを自己流に書き改めましたが、元になったアイディアやエピソードには、トリュフォーの残滓が刻印されているということです。
主人公のチンピラが、路上で死ぬ時に、自分で自分のまなこを閉じるシーンがありますが、このシュールな映像は明らかにゴダールのものですが、トリュフォーならこのシーンをどう演出したでしょうか。

トリュフォーの『大人は判ってくれない』とゴダールの『勝手にしやがれ』は、共に、1959年の製作です。

さて、その後、トリュフォーとゴダールは、1968年に、決定的な仲違いをします。この年は、フランスに「5月革命」が起こった年です。ゴダールは「5月革命」にコミットしましたが、トリュフォーは「5月革命」から距離を置きました。おそらく、それが仲違いの直接の原因でしょう。しかし、元を糺せば、監督として映画に取り組む姿勢の点で、二人は相容れなくなっていたのだと思います。トリュフォーは、家族・仲間・同志を主題に選びながら、「愛」を描く映画作家になっていったのに対し、ゴダールは映画そのものの破壊への道を突き進むようになりました。

トリュフォーがわずか52歳で早世したのに対し、ゴダールは生き延びて、今も生きていれば、80歳。何と、不可思議で不条理な二人の後半生でしょう。 (2010/1)

参考資料:

山田宏一『増補新版 トリュフォー ある映画的人生』(1994年、平凡社)
フランソワ・トリュフォー『わが人生 わが映画』(1979年、たざわ書房)
『ゴダール全集 全4巻揃い』(1970年・71年、竹内書店)
『ゴダール全評論・全発言Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』(1998年、筑摩書房)
ゴダール『映画史 Ⅰ・Ⅱ』(1982年、筑摩書房)