~Agiato で Agitato に~

再開後約20年になるピアノを通して、地域やほかの世代とつながっていきたいと考えています。

ベートーベン講座 第3回

2006年11月21日 18時54分59秒 | レッスン&セミナー
11月20日、最後のベートーベン講座が開かれた。

前回21番「ワルトシュタイン」までだったので、最後までいくのかしら・・と思っていたのだが、「今日は32番まで必ずいきます」とおっしゃって開始。

楽譜にそって技術的や表現的に難しい箇所の解説ももちろんあったのだが、
今回は、H先生にとってのベートーベンの存在、ベートーベンの音楽を介して人と人が関わるということ、音楽に携わっていくということ、などのお話があった。

H先生がまだ20代終わりから30歳くらいの頃に「自分がもしピアノが弾けなくなるような状況に陥ろうと、ベートーベンの音楽と共にいればずっと生きていける」と思われたことがあったそうで、先生にとってベートーベンは特別な存在で、自宅レッスン室には肖像画をかけ(コーヒーを供えるとかおっしゃっていたような・・・)、常に存在を感じながら対話しながら曲にのぞまれているということだ。
そういう、好きでたまらず、また生きる力をもらっているベートーベンのことを、演奏やこうした講座を通じて広く人に知ってもらうことが、自分の喜びでもあるとおっしゃっていた。
また最後には、演奏をするということは自分を映して見ることでもあり、自分自身と対話することによって、演奏も自分も深めていきたい、
そして、教える立場としては、子供達がピアノを習うことによって傷ついたり、音楽が嫌いになったりすることのないよう、配慮していきたい、
と(きちんと要約できているといいのですが・・・)語りかけられた。

以前先生のリサイタルに伺ったことがあるのだが
実はその時の印象と、今回講座で話されるお姿とは若干のギャップがあった。
ステージ上で別人といってもいいほど変わるのは演奏家には珍しいことではないのだが、
そういうこととは少し違った。
ステージで拝見したときは(マナー・演奏を含めてなのだが)、ゆったりと時間を感じておられる方で、きっとお話し振りも一言一言考えながら言葉にされるかたなのだろう、という印象だった。
というのは音楽が大きく、また音と音の間が充実したものだったからだ(間延びといいうことではない)。
なのに、プロフィールを拝見すると、大変エネルギッシュでたたみかけるように海外へ勉強に行かれているように思ったので、ちょっと意外な気もしたのだ。

ところが、実は結構早口でお話になられるかたで、レッスンのときなどはアッチェレランドすらかかる感じがする。頭の回転が大変速く、むしろ言いたいことが追いつかないくらいの印象だ。

この文脈で、私自身のことを持ち出すのはおこがまし過ぎるのだが、私自身、口も行動も速い傾向にあり(頭は違うが・・・笑)、それだけならまだいいが、「音と音の間も待てない」傾向が顕著なので、音楽の上であんなにも時間をたっぷり感じられるというのは、訓練だけでなんとかなるものなのだろうか・・・と講座の間ずっと考え続けていたのだった。

今回いろいろご自身のことをお話されたなかで、印象に残ったことは
「人は、自然のなかで生かされている存在だということを意識しておられる」ということ、
「ご自身にも悩み深い時期が何回かあり、瞑想などにも通われた」ということ、
だった。
やはり演奏についても自分自身についても常に常にかえりみて、深みを増してこられたということなのではないだろうか。


少し前に見たテレビで、指揮者の大野氏が
「私が海外に行って、師事した巨匠たちを見て驚いたのは、みながみな、偉大な過去の音楽家の前に頭をたれ、音楽のしもべとなっていたことです。当時若くて自分を表現しようと思っていた自分は大変恥じ、完全に一から出直しました」といったことを語っておられた。

そういう、音楽のしもべとなり、日々努力を重ねておられる真の芸術家の姿を今回間近で拝見した気がする。
すばらしい出会いをさせていただいと音楽の神様に感謝せずにおられない気持ちだ。

神様もですが、この講座の企画・運営をされた方々、そしてなによりも先生にこの場を借りて厚く御礼申し上げます。