急行「天都」は廃止された名寄本線の興部と石北本線の北見、網走を結んでいた列車です。
運転開始は昭和37年でこのときは準急でした。
昭和41年に急行になり、昭和55年に廃止になっています。
運転は朝に興部を出て夜に戻るという、
名寄本線から北見・網走方面へ向けてのビジネス列車でした。
廃止になった渚滑線の北見滝ノ上に住んでいた私にとっても、
北見へ行くには大変便利な列車なので頻繁に使っていました。
ではこの急行「天都」は実際にどんな列車だったのか、
昭和54年1月発行の「弘済会の道内時刻表」で見てみましょう。
急行「天都」の始発駅は名寄本線の興部、行き先は北見。
時間は8:07、キハ22の単行でまずは走り始めます。
私は渚滑線の北見滝ノ上を6:47発の紋別行きに乗り7:44着の渚滑で下車。
急行「天都」の渚滑発は8:28ですが私はその前の8:00発の普通列車に乗ります。
この普通列車はキハ22の2両編成で前1両は紋別から急行「天都」に併結し網走まで、
後ろ1両は普通列車のまま遠軽まで行きます。
ちなみにこの遠軽行きに乗ると終点の遠軽で函館行きの特急「おおとり」に接続しています。
8:06に紋別に着いた私は後から来る急行「天都」との併結を待ち、8:39に出発。
渚滑では後から来る急行「天都」に乗るという選択肢もあるのですが、
私は先行する普通列車に乗っていました。
それは何故かというと、そっちの方が席が空いていて確実に座れるから。
当時はオホーツクのローカル線といえども中心都市・北見へ行く需要は旺盛で、
優等列車は結構混んでいたのです。
先頭が網走行、2両目は北見行きになった列車は中湧別、上湧別と停車し
9:30に石北本線との接続駅・遠軽に到着します。
後編へ続く
運転開始は昭和37年でこのときは準急でした。
昭和41年に急行になり、昭和55年に廃止になっています。
運転は朝に興部を出て夜に戻るという、
名寄本線から北見・網走方面へ向けてのビジネス列車でした。
廃止になった渚滑線の北見滝ノ上に住んでいた私にとっても、
北見へ行くには大変便利な列車なので頻繁に使っていました。
ではこの急行「天都」は実際にどんな列車だったのか、
昭和54年1月発行の「弘済会の道内時刻表」で見てみましょう。
急行「天都」の始発駅は名寄本線の興部、行き先は北見。
時間は8:07、キハ22の単行でまずは走り始めます。
私は渚滑線の北見滝ノ上を6:47発の紋別行きに乗り7:44着の渚滑で下車。
急行「天都」の渚滑発は8:28ですが私はその前の8:00発の普通列車に乗ります。
この普通列車はキハ22の2両編成で前1両は紋別から急行「天都」に併結し網走まで、
後ろ1両は普通列車のまま遠軽まで行きます。
ちなみにこの遠軽行きに乗ると終点の遠軽で函館行きの特急「おおとり」に接続しています。
8:06に紋別に着いた私は後から来る急行「天都」との併結を待ち、8:39に出発。
渚滑では後から来る急行「天都」に乗るという選択肢もあるのですが、
私は先行する普通列車に乗っていました。
それは何故かというと、そっちの方が席が空いていて確実に座れるから。
当時はオホーツクのローカル線といえども中心都市・北見へ行く需要は旺盛で、
優等列車は結構混んでいたのです。
先頭が網走行、2両目は北見行きになった列車は中湧別、上湧別と停車し
9:30に石北本線との接続駅・遠軽に到着します。
後編へ続く
網走支庁管内の3市を結んでいた準急は何だったっけ?とこちらにたどり着きました。「紋別」だったような気がしたのですが、「天都」だったとはちょっと意外。これは網走の天都山に由来すると推測しますが、天都山って、そんなたいそうな山じゃないような。
準急だったころに北見から紋別まで一度だけ乗りました。興部が終点だったとはこちらで初めて知りました。
滝ノ上のご出身なんですね。両親とも滝ノ上出身で、私も小学生のころ(1960年代)は毎年行きました。
これからも贔屓にさせてください。
網走の天都山は昔からローカルな観光地でしたが、
今はいろいろな観光施設が集まっており面白いエリアになっています。
ところで急行「天都」の運行区間は興部ー網走間でしたが、
時期により名寄からの普通列車を併結したり、
渚滑や紋別から増結したりといろいろな変遷をたどっています。
ですが一貫して紋別地方から北見・網走への連絡輸送を担っていたのは変わりません。
全国的には超ローカルな急行だったので知る方も少ないですが、
少しでもご興味を持っていただいて幸いです。
これからもよろしくお願いします。