goo blog サービス終了のお知らせ 

奥井みさき、旅の記録と徒然日記

仕事の合間に旅行、旅行の合間に仕事。
フリーライター・奥井みさきの旅日記と、日々思うこと。
札幌からです。

オシラネップ原野を行く … オシラネップ特別教授場跡

2017-01-31 06:27:41 | 滝上町



場所は下雄柏10号、道路脇の畑の中にありますが、
草むらの向こうにあり草の背が伸びるころには発見が難しいかもしれません。

濁川から行くと道道の左側になります。

明治44年、オシラネップ特別教授場として開校しました。
40平方メートル、柾葺掘立小屋を校舎にし、児童数20数名とのこと。

開拓が奥地に進んだ事により大正9年、15号に移転し雄柏尋常小学校に、
更に開拓が進んだことにより昭和10年、12号に移転しています。

おや、学校が少し手前に戻ってきた。

これは昭和7年、24号に上雄柏特別教授場ができたため、
オシラネップ原野全体で学校のバランスをとるための移転です。

それでは年表です。


明治44年 渚滑第二教育所(後の滝下小学校)所属「オシラネップ特別教授場」として開校
大正 9年 15号に移転、「雄柏尋常小学校」と改称、独立
昭和10年 12号に移転
昭和16年 「雄柏国民学校」となる
昭和19年 高等科併置
昭和22年 「雄柏小中学校」となる
昭和48年 閉校
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オシラネップ原野を行く … はじめに

2017-01-30 05:52:54 | 滝上町
先日、滝上町の駅逓所跡のことを何日かにわたって書きました。
最後はオシラネップ官設駅逓所跡で終わっています。
    → http://blog.goo.ne.jp/okui-m/e/845e666b8965003bbeaf20adbc93bb78

濁川市街地から延びるオシラネップ原野にはその他、
いくつか見るべきものがあるので今日から紹介していきます。

オシラネップ原野は濁川に近い方から下・中・上雄柏(ゆうはく)の各地区があり、
上雄柏の奥地には昭和23年~43年まで存在していた拓雄(たくゆう)地区がありました。

2010年の国勢調査によれば下・中雄柏に計3戸7名の居住があります。

こう書くとここを貫く道道617号沿線はほぼ無人の原野だけが広がっているように思えますが、
現地を行くと道の両側には畑が広がりトラクターやトラックが走り回っています。

人は住まなくなりましたが畑は放棄されることな、く経済活動は活発なのでした。

地区の開拓は明治41年に下雄柏、翌年に中雄柏、大正5年に上雄柏で始まり、
昭和20年には拓雄の開拓が始まっています。

学校は雄柏、上雄柏、拓雄に設置され、上雄柏には簡易郵便局がありました。
また濁川を起点とする濁川森林鉄道オシラネップ線も敷かれていました。

オシラネップ(地元では“オシラ”と呼ぶこともあります)のことはこれくらいにして、
明日からはそこに点在する史跡を見ていくことにします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瀬戸瀬温泉、全国秘湯ランキングで4位に

2017-01-29 06:39:56 | 北海道のこと
遠軽町にある瀬戸瀬温泉は山中の一軒宿、
宿泊施設はありますが素泊まりだけ(自炊はできます)。

私が子供のころはたまにお邪魔していました。
数年前は冬に泊まろうとしたのですが爆弾低気圧でキャンセルしたということも…。

ここが楽天トラベルの“知る人ぞ知る本当に良かった全国の「秘湯」の宿ランキング”で、
全国4位になるという快挙を成し遂げました。

あらそうですか、知る人ぞ知るか。
確かに道内でもご存知も方は少ないかもしれません。

不便ですよ。

つながる携帯はソフトバンクだけ、テレビは地デジが映らず、
宿泊すれば食事は自分で調達しなければならず近くにコンビニもない。

最寄りのコンビニは遠軽か丸瀬布の市街地まで、約20㎞ほどもある。

私はそんな不便も関係なく食材を持ち込んで自炊を楽しんでしまう方ですが、
覚悟なしで泊まればかなりアレな一夜を過ごすことになります。

そんな宿を、楽天トラベルのユーザーはよく見ていらっしゃる。
さすが、ですね。

私も機会があれば泊まりたいのですが、如何せん実家に近すぎる。
どうしようかねぇ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

“如月祭~きさらぎさい~”のご案内

2017-01-28 07:21:41 | イベント



さっぽろ雪まつりももうすぐ。
天気が良ければいいな。

OYOYOでは雪まつりにあわせ、ゼミ主催のイベントを開催します。


※如月祭~きさらぎさい~

日時:2月11日(土)と12日(日)、11:00~18:00
場所:OYOYO(中央区南1条西6丁目、第2三谷ビル6F、東急ハンズの2軒西のビル)
料金:無料
主催:OYOYOゼミ

*出店一覧

 両日参加 

 古本とビール アダノンキ(樽生クラフトビール)
 貝塚商店 (オリジナルTシャツなど販売)
 セルフィーボックス(撮影ブース)
 例とか相談所(マッサージ)
 Konvalo(ポストカード中心、創作雑貨)
 甘味処(フェイクスイーツ・フード(ワークショップあり))
 アナログ企画(オリジナルイラストで制作した紙雑貨を中心に小物を販売)
 OYOYOゼミカフェ(ドリンク・フード)

 11日のみ

 肉屋のマリアとクラーケン(クラフト作品)
 Happy Favorite(シーグラスを使ったアクセ、雑貨。粘土、レジンアクセ)
 
 12日のみ

 中国足心道 出張足もみ治療「体花」(足もみマッサージ)
 うたかた庭園(似顔絵及びイラスト)

*イベント

 11日(土)19:00~ 如月朗読会
 12日(日)終了後クロージングパーティー

皆さま、雪まつりのついでにお越しくださいませ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR北海道、2020年度までに資金不足に

2017-01-27 06:11:15 | 鉄道
JR北海道は2020年までに資金不足になり、
道内で列車の運行ができなくなるとの報道がありました。

毎年、数百億円規模の赤字が続いている会社がそうなるのは当たり前です。

ですがこれはJR北海道発足当時からわかっていたことで、
赤字補てんのために経営安定基金が投入されました。

その利回りで何とか凌ぐという予定でしたが、低金利でそれが成り立たなくなった。
そのひずみがここにきてさまざま噴出しています。

この状態になるまで放置してきたJR北海道の責任は重い。
またこの期に及んで経営問題をJR北海道に押し付けている国や道、各市町村の責任も重い。

さて私は、札幌に住んでいます。

道央圏は廃線も駅の廃止もあまり現実味がないので傍観者でいることができます。
ですが今回の報道でその様子が変わってきました。

閑散路線の赤字が札幌圏の運行に影響があるという現実。
JR北海道の経営問題はこれで一気に北海道全体の課題となりました。

“廃線問題を早く片付けないとそれだけでは済まなくなりますよ”
という爆弾が投下された。

これが現実だ。

いつも申し上げていますが、いつまでも“JR北海道はけしからん”では通じません。
国や道、札幌市を含め全道の交通体系をどうするか考えなければ。

現実に目を背けていられる時間はそう長くありません。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR旅行センター(ツインクルプラザ)、5店閉店

2017-01-25 05:26:38 | 鉄道
JR北海道は「ツインクルプラザ」を3月に5店舗を閉店すると発表しました。

これによる経費削減額は年間7400万円を見込んでいるそうです。

今回閉店するのは小樽、手稲、新札幌、岩見沢、北見の各店で、
2015年度に閉店した8店舗に続く合理化となります。

2015年度は東京、仙台、琴似、桑園、滝川、千歳、網走、名寄が閉店し、
我が最寄り駅の琴似の跡地は今でも空きスペースのままです。

ところでJRが旅行センターを持つというのは実は微妙なものがあります。
というのは、旅行センターで発売しているきっぷやパック商品はみどりの窓口でも買えるから。

同じきっぷやパックでもみどりの窓口で発売すれば全額が鉄道事業としての収入となります。

しかし隣接する旅行センターで発売すれば旅行業としての発売となり手数料が旅行センターに、
残りの金額が鉄道事業としてJR北海道の収入となります。

JR北海道としてはどちらで発売しても結局同額が収入として計上されます。
ならば、人件費がかかるだけの旅行センターを廃止した方が経費節減になる。

それが今回の“事象”です。

であるなら、鉄道事業者が旅行業を兼営している意味はどこにあるのか。
JR他社や大手中小に関わらず交通事業者が旅行業を兼営しているのは何故なのか。

それは親会社が持つ経営資源をフルに活用して他社が真似できない商品を提供できるから。
それができないから、今回の閉店になりました。

例えば、中央バスはシィービーツアーズという旅行会社を傘下に持っています。
同社は産業観光や北海道遺産という強みを持ち異彩を放っています。

長年にわたり独自の観光資源を発掘し育ててきた。

身近にこんな例があるというのにJR北海道という親会社に胡坐をかき、
“JR北海道”としての独自性を持った旅行商品を提供できなかったので旅行業として成り立たない。

“旅行業”としてのJR北海道の失態の結果がこれだ。
店舗の閉鎖は“JRの旅行”に存在価値を見いだせなかったJR北海道の当然の帰結なのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

滝上町の駅逓所跡 … オシラネップ官設駅逓所跡

2017-01-24 04:56:51 | 滝上町



この場所はオシラネップ原野24号、上雄柏にあります。
画像のように、元簡易郵便局かと言われている建物の横に碑があります。





開設は昭和9年、取扱人は朝倉義衛(初代議会議長、14代町長)。
これに先立ち昭和7年には上雄柏特別教授場が開校しています。

雄柏地区の開拓が始まったのは明治41年、
ここ上雄柏で開拓が始まったのが大正5年。

滝上としては最も遅く開拓された地域です。

29号まで道路が開かれたのが大正13年、
昭和23年には上雄柏から拓雄(たくゆう)が分離され26年には拓雄分校もできました。

ですが拓雄は昭和43年に全戸が離農し地区が廃止されました。
短い間に盛衰が激しい地域ですね。

駅逓は制度廃止になった昭和21年に廃止され、
昭和25年にはバスの運行が始まっています。

※駅逓跡のお話はこれで終わります

追記(2017.05.03):
碑の奥にある建物は簡易郵便局として建てられたもので、駅逓とは関係ないそうです
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

滝上町の駅逓所跡 … 奥滝上官設駅逓所跡

2017-01-23 05:39:37 | 滝上町



滝上町の開拓は奥地に進み、開拓民の利便性確保のため更に駅逓所が設置されました。
この駅逓は今は無人の原野になっている国道273号線沿い、5区39線の滝奥にあります。

滝上から行くと廃屋になった山田商店を過ぎ下りカーブを降りた左手に。

開設は大正12年、取扱人は杉山要次郎。

ここに最初の開拓者が入ったのは大正2年、大正7年には戸数45戸という記録があり、
同年には滝奥特別教授場が開校し次第に市街地が形成されました。

道路は大正7年に45線まで開通、同13年に59線、昭和9年に上川まで開通しています。

駅逓開設の大正12年は59線まで道路が開通する前年、
この地区の開拓がいよいよ活発になろうかという時期です。

大正9年には道路もなかった55線に滝南特別教授場も開校、
さてこれからどんどん奥地を開拓するぞという意気込みが感じられます。

閉鎖は駅逓制度が廃止された昭和21年。

滝上の最奥地だけあって交通不便な地、
最後までその使命を全うしたのですね。

昭和25年、北紋バスがここまで路線を延ばしました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

滝上町の駅逓所跡 … 滝上官設駅逓所跡

2017-01-22 05:26:12 | 滝上町



ここは滝上で最初に開設された上渚滑官設駅逓所が移転したもの。
駅逓は開拓の進展により奥地へと移転した例が多数あります。

開設は大正3年、取扱人は宮地勝長。

場所は元町、芝ざくら滝上公園入口よりも紋別寄りです。

当時は濁川から紋別方面へ抜ける道は整備されておらず、
元町から雄鎮内へ向かう道路がその役割を担っていました。

駅逓はその性格上、他の交通機関が発達すると廃止されます。
渚滑線の開通は大正12年、駅逓の廃止は昭和3年です。

当時の滝上市街地はこの元町、役場があった旭町、駅ができた栄町、
それぞれに市街地が発達し現在の滝上の原形ができました。

昭和4年には3町あわせて486戸、人口は2251人という記録が残っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

滝上町の駅逓所跡 … 北滝上官設駅逓所跡

2017-01-21 05:55:55 | 滝上町
    


場所は3区20線、滝西の手前、20線のバス停から林道に入り100mほどのところ。
牧草地の中に建っていてわかりやすい場所です。

開設は大正2年、取扱人は鈴木金太郎。

当時ここはこの地区の中心でした。

駅逓が開設された翌年には滝西小学校の前身となる学校が、
大正9年には北滝上巡査駐在所が開設されています。

また森林保護区員駐在所、農業物検査員駐在所なども設置されましたが、
滝西に市街地が形成されるとこれらの諸機関は滝西に移転しています。

学校が20線から21線(現・滝西)に移転したのは大正8年か9年と思われます。
このときは児童が机を持って20線から21線まで歩いて運んだといいます。

駅逓は昭和5年に廃止。

滝西が発展したのが原因なのか、短命でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする