goo blog サービス終了のお知らせ 

奥井みさき、旅の記録と徒然日記

仕事の合間に旅行、旅行の合間に仕事。
フリーライター・奥井みさきの旅日記と、日々思うこと。
札幌からです。

富丘駅跡(興部町)

2024-10-11 05:29:33 | 渚滑線・名寄本線

富丘駅は廃止になった名寄本線にあった駅です。

1956年、富丘仮乗降場として開業、1987年の国鉄分割民営化によって駅に昇格、
1989年の名寄本線の廃止と共に富丘駅も廃止になりました。

仮乗降場から始まった駅なので、1面1線の板張りの構造でした。

駅のあった場所は興部町富丘、渚滑駅と沙留駅の間になります。
今は北紋バスの「富丘停留所」がある他、国道239号線に富丘方面への案内板があるのでわかりやすいと思います。

この辺りの名寄本線は国道よりも高い海岸段丘の上を走っています。
ということで、駅へのアプローチは防雪のための覆いを持つ階段を上がるようになっています。

階段を上って、駅のあった場所に行ってみました。

駅跡から遠軽方面は線路あとの路盤がはっきり確認でき興部方面の路盤もわずかに確認できます。


その他は夏だったということもあり草が茂り、駅の痕跡をみることは出来ませんでした。

草が枯れた冬なら、何か見つかるかもしれませんね。

ところで渚滑ー興部間の名寄線の廃線跡はGoole Mapを見るとかなりはっきりわかります。
国道を走っていても、それらしき痕跡を見ることもできる。

いいか悪いかは別にして廃線跡に利用価値がないということなのですが、
複雑な気持ちにはなりますね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

十六号線仮乗降場跡

2021-07-19 05:17:52 | 渚滑線・名寄本線

昨日の続きです。

渚滑線・下渚滑ー中渚滑間には十六号線という仮乗降場がありました。
場所は15線と17線のバス停の中間でした。

一昨年までは、この国道沿いに「元西」と同じく「16号線」の接近票がありました。
が、先日通りがかった時にはそれがなかった…。

ということで画像はありません。
私が見つけることができなかったのか、はたまた撤去や倒壊してしまったのか。

いつも国道沿いに当たり前のように建っていたので、
それを画像に残すということをしてこなかったツケがきた。

現地の事情を知る方がいらっしゃれば、ご教示ください。

開業は1955年12月25日、廃止は1985年4月1日です。

※旅行記はこれで終わります

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元西仮乗降場跡

2021-07-18 05:31:38 | 渚滑線・名寄本線

 

 

渚滑線は国鉄が設置した正式な駅の他に、濁川ー北見滝ノ上間を除き各駅間に仮乗降場がありました。
渚滑ー下渚滑間には「元西(もとにし)仮乗降場」がありました。

“仮乗降場”とは鉄道管理局の判断で設けられた駅で、
営業距離は設定されず運賃は次の鉄道駅までの営業距離で払っていました。

正式な駅ではなく、全国版の時刻表には載っていなかった。

さて元西仮乗降場は路線バスの「8線」のバス停の付近にありました。
駅跡は痕跡もなく牧場になってしまいましたが、国道沿いに接近票が残っています。

よくぞここに移設し残してくれたものよ、どなたがそうしたのかわかりませんが偉い。
わずかでも駅の痕跡が残っているというのは嬉しいものです。

開業は1956年5月1日、廃止は1985年4月1日。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渚滑(しょこつ)小学校、敷地内を走る渚滑線

2021-07-17 05:31:06 | 渚滑線・名寄本線

 

 

久々に、廃止になった渚滑線の話題を書きます。

渚滑線の列車は起点の渚滑駅を出発すると左に曲がり内陸に向かっていました。
曲った先にあるのが渚滑小学校で、線路はその校門と運動場の間を横切っていました。

小学校の敷地内を鉄道が走るとはかなり珍しく、全国唯一だったらしい。
ちなみに渚滑小学校の開校は1900年、渚滑線の開業は1923年です。

渚滑線が廃止されたのは1985年ですが、渚滑小学校にはその歴史が今でも引き継がれています。
渚滑小学校の敷地内には線路が復元され残されているのです。

 

 

 

 

画像は校門から校舎を見たところ、敷地に入ってすぐのところに線路などが復元されています。
その線路の先の建物は教員住宅、校舎の手前が運動場です。

案内板も設置されており、それによると平成元(1989)年に設置されたと書いてあります。

 

 

 

 

小学校の敷地に線路が走るなど、それはどうなのかと思いますが問題はなさそうだ。
何しろこの小学校の敷地の広いことこの上ないのだ。

校門から校舎まで運動場を挟んで200mほどあります。
これならその途中に多少何があっても問題はなかろう。

どういう経緯でこうなったのかはわかりませんが、面白いことですね。

日本唯一の存在がそこにあるとは、私には想像もできないな。
渚滑線在りし日の在校生はどんな思いで走る列車を見ていたのか、聞いてみたいなぁ。

今も昔も誇りなのでしょうしだからこそ復元された、のでしょうね。
羨ましいことですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名寄駅

2020-12-09 05:20:44 | 渚滑線・名寄本線

 

 

1903年、天塩線が士別から延伸し開業しました。
かつてはここから深名線と名寄本線が伸びており、大層賑わっていました。

私の一番の想い出は急行「紋別」で往来したこと。

渚滑線・北見滝ノ上駅を早朝5時台の始発で出発、渚滑駅で急行「紋別」に乗り換えます。
そうすると旭川には10時頃、札幌には12時頃に到着しました。

当時、滝上から道央圏に行くにはこれが一番便利な列車で、その度に名寄を通過していました。
急行「紋別」は名寄駅でスイッチバックしていたのでちょうどいいアクセントになっていた。

きのこご飯の駅弁も美味しかった。

さて駅舎は「鉄道旅行地図帳(新潮社)」により名駅舎100選に選ばれています。
昭和期の中核駅の風情を今に残す、風格のある駅舎ですね。

現駅舎は2代目、1927年(昭和2年)に完成しています。

駅内にはキオスク、ツインクルプラザ、また製紙工場などへの専用線も出ていましたが、今はなにもない。
特急や快速なども発着していますが新型コロナウイルスの感染拡大でどの列車もガラガラだ。

路線自体も名寄以北の存続もどうなるかわかりません。

なかなか厳しいのが現実ですが、さてどうなるのやら。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上名寄駅跡

2020-10-28 05:55:31 | 渚滑線・名寄本線

 

 

駅名に“名寄”とありますが、所在地は下川町です。

開業は名寄線(当時)が下川まで開通したと同時の1919年10月20日。
当時、ここがいかに栄えていたのかわかりますね。

駅の痕跡は何もありません。
国道沿いの「上名寄12線」の前に駅名板のレプリカがあります。

本来の駅は国道より少し入ったところにありました。
その場所に駅の痕跡は全くありません。

駅名板のレプリカだけがここに駅があったことを物語っています。

周辺は典型的な農村地帯、今では大正時代に駅ができたとは思えません。
わずかな痕跡は上名寄郵便局があることくらいか。

郵便局が現存していることこそが、ここがかつて栄えていた証なのですが。

駅名板のある場所は名士バス「上名寄12線」バス停の前、
「上名寄地区バス待合所」の小屋があります。

せめて私が高校生の頃に来ていれば、何かを感じることができただろうに…。
それが残念。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中名寄駅跡

2020-10-27 05:42:43 | 渚滑線・名寄本線

 

 

廃止になった名寄本線の、名寄の隣の駅です。

1947月9月21日、仮乗降場として開業、1950年1月15日に駅に昇格しました。
1989年5月1日に名寄本線の廃止とともに駅も廃止になっています。

ウィキペディアによると荷物扱いもしていたらしい。

プレハブの駅舎が残っており、日中は中も見学できます。
地域の方が今でも駅を大切に思い、残しているらしい。

駅舎自体も廃止になって31年も経つのに外観が綺麗に整備されています。
駅周辺も雑草が放置されることなく、地域の方に本当に大切にされているのがわかります。

駅の中には昔の鉄道風景を写した写真パネルが飾られています。

 

 

 

 

今は考えられませんが、昭和の鉄道は賑やかだったな。

場所は名士バスの「中名寄5線」の停留所の前、近くには中名寄小学校があります。
中名寄小学校の児童数は今年度は19名。

それがどうしたと言われそうですが、超過疎地で生まれ育った私にとっては驚きだ。
そんなに児童数が多いのか。

この地域、豊かなのだろうな。
それがこの駅の保存に繋がっている。

お金がないとこんな小さな駅の管理も大変なんだよ。
それを成し遂げる中名寄地区、天晴れです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紋別市立奥東(おくとう)小学校跡碑

2016-08-05 06:06:30 | 渚滑線・名寄本線






国道273号線を上渚滑から滝上方面へ向かい渚滑川を渡ってしばし。
国道がカーブする、その内側にこの碑はあります。

ここには渚滑線の奥東仮乗降場がありました。

さてこのあたりに最初の学校ができたのは明治41年4月12日、
当時の渚滑村により「渚滑第二教育所」が開校しています。

場所は40線、設置命令は4月1日に出ていますが建設資金は地元住民が負担、
農産物を抵当に入れたり借金をし資金を調達、29名の児童を迎えての開校でした。

開拓が進むにつれ通学域が奥地まで拡大し明治45年7月24日に49線に移転、
大正2年5月6日に「第四渚滑尋常小学校」として独立しています。

この学校の移転先は現在の滝上町域になりますが、
当時は渚滑村の公立学校として現在の紋別市域と滝上町域から児童が通っていました。

大正7年、渚滑村から滝上村が独立、「第四渚滑尋常小学校」は滝上村所属の学校に。

これにより付近の渚滑村域内に学校がなくなりました。
地域の児童は上渚滑まで通っていたのでしょう。

そこで大正10年9月1日、「奥東特別教授場」が開校します。
これが後の「奥東小学校」となり、昭和46年3月31日に閉校しています。

碑ではこの開校からのことを述べていますが、記述したような前史がありました。

付近は純酪農地帯、数軒の農家が点在しています。

がかつて駅があり学校もあったということは、
開拓時代はここは何らかの中心だったということ。

その学校も、一度は消滅したものの再び設置された。
奥東という地区、その歴史を紐解きたい興味深いところではあります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小向(こむかい)駅跡

2016-08-04 05:53:04 | 渚滑線・名寄本線



沼の上駅跡から紋別に向かい数キロ、小向の市街地があります。
国道から曲がってすぐのところにあるのが小向駅跡。

開業は1921年、廃止は1989年で沼の上駅と同じです。

この駅も沼の上駅と同じ私の記憶に中では2面2線の交換可能駅でしたが、
これは沼の上駅とは違い廃止時もそのまま交換可能駅だったらしい。

駅跡は「小向農村公園」となり、レプリカの駅名標、模擬ホームと転轍てこが設置されています。
その向こうには2006年に移転新築された小向小学校が建っています。





公園内には駐車場、パークゴルフ場、多目的広場などがあり、
周囲を含め綺麗に整備されています。





本当に広くてきれいな公園だ。

その中心にあるのが駅跡で東屋もある。
それが何ともいえない寂しさを漂わせています。

広くて綺麗すぎるのもまた寂しいものよのう…。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沼の上駅跡(紋別市)

2016-08-02 06:06:25 | 渚滑線・名寄本線






湧別駅と同じ、廃止になった名寄本線にあった駅の跡です。
開業は1921(大10)年。

この当時は道央から網走まで行くには今の石北本線は開通しておらず、
旭川から名寄、紋別、そして遠軽経由という遠回りをしていました。

沼の上駅開業当時は道央から網走まで行くメインルートだったのです。
その後石北本線が開通、名寄本線は1989年に廃止になりこの駅も運命を共にしました。

私が記憶している沼の上駅は2面2線の交換可能駅、
駅前には市街地が広がっていました。

名寄本線廃止時には単式ホーム1面1線になっていたらしい。

駅跡はホームと駅名標がありますがホームは市が公園として整備したもの、
駅名標は同じくレプリカとなっています。

原形はとどめていないとはいえ、現地に何らかの形で駅跡が残っている。
そして市が公園としてその記憶を残している。

その事実だけでも良しとしなければいけませんね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする