今はない急行「大雪」ですが、最盛期は6往復もありました。
その中で急行区間としては一番短い距離(旭川ー遠軽)を走っていたのがこの列車。
「大雪」に名前を変えて以来、一貫して名寄本線区間は普通列車として走っていました。
実はこの列車、急行列車の石北本線区間より普通列車の名寄本線区間の方がメインでした。
弘済出版社発行「弘済会の道内時刻表」(昭和49年12月1日発行)で見てみます。
名寄を8:23に出発。
天北峠を越え網走管内に入ると乗客を集め始め、
興部駅では興浜南線からの乗り換え客も収容し10:35、この地方の中心・紋別駅に到着。
この時点では2両編成での運転です。
ここで大半の乗客が入れ替わります。
ここからまた乗客を集め始めます。
中湧別駅では湧網線の網走行きへ接続。
そして11:46、遠軽駅に到着し再び大半の乗客が下車しました。
その乗客の流れに合わせるように2両編成だった列車も1両を切り離し、
遠軽から先の急行区間をキハ22の単行で旭川まで進んでいたのです。
普通列車として走る名寄本線区間は2両編成で走り多くの乗客で混雑、
晴れやかな急行区間は空いたまま単行で走るというのが当時の姿でした。
遠軽で降りた客はそのまま町へ出る人の他は、
お昼を挟んで接続した網走行き(12:44発)と旭川行き(13:34発)の列車へと乗り換えていきました。
そうすると網走管内の中心都市・北見駅には14:16着、
中湧別から乗り換えれば網走支庁所在地の網走駅には14:00着。
つまりこの列車の名寄本線区間は紋別地方同士の流動と、
同じ紋別地方から商業と行政の中心地への移動という大きな流れの核になっていたのです。
この役割は列車廃止まで一貫していました。
逆(興部止り)も全く同じ流れがあり、
私も遠軽や北見、あるいは丸瀬布へ行く際は頻繁に利用しました。
今思い返しても懐かしいですね。
石北本線区間のお話は次回。
その中で急行区間としては一番短い距離(旭川ー遠軽)を走っていたのがこの列車。
「大雪」に名前を変えて以来、一貫して名寄本線区間は普通列車として走っていました。
実はこの列車、急行列車の石北本線区間より普通列車の名寄本線区間の方がメインでした。
弘済出版社発行「弘済会の道内時刻表」(昭和49年12月1日発行)で見てみます。
名寄を8:23に出発。
天北峠を越え網走管内に入ると乗客を集め始め、
興部駅では興浜南線からの乗り換え客も収容し10:35、この地方の中心・紋別駅に到着。
この時点では2両編成での運転です。
ここで大半の乗客が入れ替わります。
ここからまた乗客を集め始めます。
中湧別駅では湧網線の網走行きへ接続。
そして11:46、遠軽駅に到着し再び大半の乗客が下車しました。
その乗客の流れに合わせるように2両編成だった列車も1両を切り離し、
遠軽から先の急行区間をキハ22の単行で旭川まで進んでいたのです。
普通列車として走る名寄本線区間は2両編成で走り多くの乗客で混雑、
晴れやかな急行区間は空いたまま単行で走るというのが当時の姿でした。
遠軽で降りた客はそのまま町へ出る人の他は、
お昼を挟んで接続した網走行き(12:44発)と旭川行き(13:34発)の列車へと乗り換えていきました。
そうすると網走管内の中心都市・北見駅には14:16着、
中湧別から乗り換えれば網走支庁所在地の網走駅には14:00着。
つまりこの列車の名寄本線区間は紋別地方同士の流動と、
同じ紋別地方から商業と行政の中心地への移動という大きな流れの核になっていたのです。
この役割は列車廃止まで一貫していました。
逆(興部止り)も全く同じ流れがあり、
私も遠軽や北見、あるいは丸瀬布へ行く際は頻繁に利用しました。
今思い返しても懐かしいですね。
石北本線区間のお話は次回。