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奥井みさき、旅の記録と徒然日記

仕事の合間に旅行、旅行の合間に仕事。
フリーライター・奥井みさきの旅日記と、日々思うこと。
札幌からです。

オシラネップ原野を行く … 北紋バス雄柏線

2017-02-04 04:24:28 | 滝上町



北紋バス雄柏線は北紋バス滝上営業所から雄柏まで走っていたバス路線です。

路線の開設は昭和25年、この時の行き先は「オシラネップ」ということですが、
オシラネップのどこが終点だったのかはわかりません。

拓雄地区が成立したのが昭和23年なので、拓雄まで走っていたのかもしれません。

昭和41年には拓雄の残存農家は6戸で、
「5号橋」までだったバス路線が「上雄柏29号」まで短縮されました。

「5号橋」や「上雄柏29号」のバス停がどこだったのかは、
上雄柏から先が現在立ち入り禁止区域になっているのでわかりません。

昭和43年に拓雄地区が廃止されています。

昭和50年の時刻表を見ると拓雄線の終点は「25号」となっていますので、
上雄柏小・中学校跡付近となります。

滝上営業所から18.4㎞、所要時間は40分。

昭和63年と平成8年の時刻表では終点は「21線」、平成10年では「12線」と、
過疎化の進行により路線が短縮されていきます。

「12線」は雄柏小中学校があったところです。

路線は平成13年まで存在していたことは確認できましたがその後廃止になりました。
いつ廃止になったのかは定かではありません。





オシラネップを探索中、使われなくなったバス停が放置されていました。

※オシラネップのお話はこれで終わります
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オシラネップ原野を行く … 拓雄開拓地・小中学校跡

2017-02-03 05:19:14 | 滝上町
ここまでオシラネップに点在する記念碑を見てきました。

おさらいすると「オシラネップ官設駅逓所跡」「オシラネップ特別教授場跡」
「上雄柏小・中学校跡」「小檜山博文学碑」です。

実はもう一つ、記念碑があります。
それが「拓雄開拓地・小中学校跡」です。

場所はオシラネップの最奥地、拓雄にあるのですが、
そこに通じる道道617号は上雄柏から先が通行止めになっていて行くことができない。

現地はどうなっているのであろうか。
ゲートをくぐってその先、拓雄を探検をする方は熊にはご注意ください。

それでは、拓雄地区の年表です。


昭和20年 開拓が始まる
昭和23年 上雄柏地区から拓雄地区が独立
昭和26年 拓雄小学校が開校
昭和29年 洞爺丸台風で大量の風倒木が発生
昭和33年 中学校併置
     (風倒木処理が終わり離農者が増加)
昭和42年 地区の全6戸、離農を決意
昭和43年 集落解散、拓雄小中学校閉校、拓雄地区消滅

昔はここまでバスが通っていたのですが…。

また洞爺丸台風の倒木処理終了で人口が減ったのはここだけではなく、
滝上町全体でおこったことでした。
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オシラネップ原野を行く … 小檜山博(こひやま はく)文学碑

2017-02-02 05:31:07 | 滝上町
    


小檜山博(1937年~)は滝上町オシラネップ出身の作家です。

1976年に発表した「出刃」が北方文学賞を受賞、芥川賞候補になりました。

1983年発表の「光る女」は北海道新聞文学賞、泉鏡花文学賞を受賞、
更に1987年には相米慎二により映画化(主演・武藤敬司)され、
日本アカデミー賞音楽賞(三枝成彰)、新人俳優賞(秋吉満ちる)を受賞。

その他いろいろ受賞歴などがあるのですが、割愛します。

碑の建立は2009年、場所は生家があった18号、道路の左手になります。
碑には「風少年」の一節が刻まれています。

その他、除幕にあたり小檜山博が寄せたコメントや略歴なども展示されています。

また滝上町栄町にある図書館には小檜山博ゆかりの品が展示されています。
ご興味のある方はそちらも合わせてご覧ください。
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オシラネップ原野を行く … 上雄柏小・中学校跡

2017-02-01 06:08:46 | 滝上町



場所は24号、道道のすぐ脇にあります。
綺麗に整備され広場にもなっているのですぐわかると思います。

上雄柏の開拓が始まったのはすでに述べたように大正5年、
人口の増加により昭和7年、雄柏尋常小学校付属上雄柏特別教授場として開校しました。

ここに学校ができるまで冬季は24号から常設馬橇に乗り、
15号にある雄柏尋常小学校まで通っていたそうです。

閉校は昭和50年で、雄柏小中学校より遅い。
上雄柏は駅逓、簡易郵便局もありオシラネップの中心だったことがわかります。


それでは年表です。


昭和 7年 「雄柏尋常小学校付属上雄柏特別教授場」として開校
昭和15年 「上雄柏尋常小学校」となる
昭和16年 「上雄柏国民学校」となる
昭和19年 高等科併置
昭和22年 「上雄柏小中学校」となる
昭和48年 中学校が滝上中学校に統合、上雄柏小学校となる
昭和50年 閉校
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オシラネップ原野を行く … オシラネップ特別教授場跡

2017-01-31 06:27:41 | 滝上町



場所は下雄柏10号、道路脇の畑の中にありますが、
草むらの向こうにあり草の背が伸びるころには発見が難しいかもしれません。

濁川から行くと道道の左側になります。

明治44年、オシラネップ特別教授場として開校しました。
40平方メートル、柾葺掘立小屋を校舎にし、児童数20数名とのこと。

開拓が奥地に進んだ事により大正9年、15号に移転し雄柏尋常小学校に、
更に開拓が進んだことにより昭和10年、12号に移転しています。

おや、学校が少し手前に戻ってきた。

これは昭和7年、24号に上雄柏特別教授場ができたため、
オシラネップ原野全体で学校のバランスをとるための移転です。

それでは年表です。


明治44年 渚滑第二教育所(後の滝下小学校)所属「オシラネップ特別教授場」として開校
大正 9年 15号に移転、「雄柏尋常小学校」と改称、独立
昭和10年 12号に移転
昭和16年 「雄柏国民学校」となる
昭和19年 高等科併置
昭和22年 「雄柏小中学校」となる
昭和48年 閉校
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オシラネップ原野を行く … はじめに

2017-01-30 05:52:54 | 滝上町
先日、滝上町の駅逓所跡のことを何日かにわたって書きました。
最後はオシラネップ官設駅逓所跡で終わっています。
    → http://blog.goo.ne.jp/okui-m/e/845e666b8965003bbeaf20adbc93bb78

濁川市街地から延びるオシラネップ原野にはその他、
いくつか見るべきものがあるので今日から紹介していきます。

オシラネップ原野は濁川に近い方から下・中・上雄柏(ゆうはく)の各地区があり、
上雄柏の奥地には昭和23年~43年まで存在していた拓雄(たくゆう)地区がありました。

2010年の国勢調査によれば下・中雄柏に計3戸7名の居住があります。

こう書くとここを貫く道道617号沿線はほぼ無人の原野だけが広がっているように思えますが、
現地を行くと道の両側には畑が広がりトラクターやトラックが走り回っています。

人は住まなくなりましたが畑は放棄されることな、く経済活動は活発なのでした。

地区の開拓は明治41年に下雄柏、翌年に中雄柏、大正5年に上雄柏で始まり、
昭和20年には拓雄の開拓が始まっています。

学校は雄柏、上雄柏、拓雄に設置され、上雄柏には簡易郵便局がありました。
また濁川を起点とする濁川森林鉄道オシラネップ線も敷かれていました。

オシラネップ(地元では“オシラ”と呼ぶこともあります)のことはこれくらいにして、
明日からはそこに点在する史跡を見ていくことにします。
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滝上町の駅逓所跡 … オシラネップ官設駅逓所跡

2017-01-24 04:56:51 | 滝上町



この場所はオシラネップ原野24号、上雄柏にあります。
画像のように、元簡易郵便局かと言われている建物の横に碑があります。





開設は昭和9年、取扱人は朝倉義衛(初代議会議長、14代町長)。
これに先立ち昭和7年には上雄柏特別教授場が開校しています。

雄柏地区の開拓が始まったのは明治41年、
ここ上雄柏で開拓が始まったのが大正5年。

滝上としては最も遅く開拓された地域です。

29号まで道路が開かれたのが大正13年、
昭和23年には上雄柏から拓雄(たくゆう)が分離され26年には拓雄分校もできました。

ですが拓雄は昭和43年に全戸が離農し地区が廃止されました。
短い間に盛衰が激しい地域ですね。

駅逓は制度廃止になった昭和21年に廃止され、
昭和25年にはバスの運行が始まっています。

※駅逓跡のお話はこれで終わります

追記(2017.05.03):
碑の奥にある建物は簡易郵便局として建てられたもので、駅逓とは関係ないそうです
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滝上町の駅逓所跡 … 奥滝上官設駅逓所跡

2017-01-23 05:39:37 | 滝上町



滝上町の開拓は奥地に進み、開拓民の利便性確保のため更に駅逓所が設置されました。
この駅逓は今は無人の原野になっている国道273号線沿い、5区39線の滝奥にあります。

滝上から行くと廃屋になった山田商店を過ぎ下りカーブを降りた左手に。

開設は大正12年、取扱人は杉山要次郎。

ここに最初の開拓者が入ったのは大正2年、大正7年には戸数45戸という記録があり、
同年には滝奥特別教授場が開校し次第に市街地が形成されました。

道路は大正7年に45線まで開通、同13年に59線、昭和9年に上川まで開通しています。

駅逓開設の大正12年は59線まで道路が開通する前年、
この地区の開拓がいよいよ活発になろうかという時期です。

大正9年には道路もなかった55線に滝南特別教授場も開校、
さてこれからどんどん奥地を開拓するぞという意気込みが感じられます。

閉鎖は駅逓制度が廃止された昭和21年。

滝上の最奥地だけあって交通不便な地、
最後までその使命を全うしたのですね。

昭和25年、北紋バスがここまで路線を延ばしました。
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滝上町の駅逓所跡 … 滝上官設駅逓所跡

2017-01-22 05:26:12 | 滝上町



ここは滝上で最初に開設された上渚滑官設駅逓所が移転したもの。
駅逓は開拓の進展により奥地へと移転した例が多数あります。

開設は大正3年、取扱人は宮地勝長。

場所は元町、芝ざくら滝上公園入口よりも紋別寄りです。

当時は濁川から紋別方面へ抜ける道は整備されておらず、
元町から雄鎮内へ向かう道路がその役割を担っていました。

駅逓はその性格上、他の交通機関が発達すると廃止されます。
渚滑線の開通は大正12年、駅逓の廃止は昭和3年です。

当時の滝上市街地はこの元町、役場があった旭町、駅ができた栄町、
それぞれに市街地が発達し現在の滝上の原形ができました。

昭和4年には3町あわせて486戸、人口は2251人という記録が残っています。
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滝上町の駅逓所跡 … 北滝上官設駅逓所跡

2017-01-21 05:55:55 | 滝上町
    


場所は3区20線、滝西の手前、20線のバス停から林道に入り100mほどのところ。
牧草地の中に建っていてわかりやすい場所です。

開設は大正2年、取扱人は鈴木金太郎。

当時ここはこの地区の中心でした。

駅逓が開設された翌年には滝西小学校の前身となる学校が、
大正9年には北滝上巡査駐在所が開設されています。

また森林保護区員駐在所、農業物検査員駐在所なども設置されましたが、
滝西に市街地が形成されるとこれらの諸機関は滝西に移転しています。

学校が20線から21線(現・滝西)に移転したのは大正8年か9年と思われます。
このときは児童が机を持って20線から21線まで歩いて運んだといいます。

駅逓は昭和5年に廃止。

滝西が発展したのが原因なのか、短命でした。
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