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奥井みさき、旅の記録と徒然日記

仕事の合間に旅行、旅行の合間に仕事。
フリーライター・奥井みさきの旅日記と、日々思うこと。
札幌からです。

滝上町の駅逓所跡 … サクルー官設駅逓所跡

2017-01-20 05:46:59 | 滝上町



開設されたのは上渚滑官設駅逓所と同じ明治44年です。

場所は奥札久留バス停から滝上に向かうと札久留橋があります。
そこを過ぎたカーブの左側にひっそりとあります。

所在地は札久留南8号、取扱人は由良与三郎。

サクルーとは現在の札久留(さっくる)のこと、
明治40年に区画測定され翌年に下札久留に最初の入植がありました。

明治44年に南8号まで拓殖道路が延びました。
その延びた道路の一番先にいきなり開設されたのがこの駅逓です。

開拓が始まって3年、道路もできたばかり、当時はどんな景色だったのか。
いくら後に発展してゆく地とはいえ、ほぼ未開の原野だったと思われる。

そこに駅逓とは、開拓初期のダイナミズムを感じざるを得ません。

大正6年、西興部までの道路が開通、
それに伴いこの駅逓は西興部の上藻興部に移転しました。
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滝上町の駅逓所跡 … 上渚滑官設駅逓所跡

2017-01-19 05:45:52 | 滝上町



滝上町の開拓は当然ですが、紋別市に近いところから行われていきました。

最初に植民地区画設定開放されたのは明治30年、
上渚滑原野52線(現・滝下地区)までで同38年、52線に最初の開拓者が入植しました。

その後奥地に開拓が進み明治44年、55線に滝上町最初の駅逓所が開設されました。
それが“上渚滑官設駅逓所”です。

同38年に入植開始、その6年後にはその奥に駅逓が開設されるまでになった、
その開拓の早さに驚かされます。

取扱人は宮地勝長。

碑のある場所は国道273号線沿い、北紋バス滝上線・55線バス停所在地。
ここは廃止された渚滑線雄鎮内仮乗降場があった辺りです。

そうか、ここに仮乗降場とはいえ駅があった理由はここに駅逓があったからなのか。
開拓初期はここが町の重要地点だったのでしょう。

奥地の開拓が進み大正3年、この駅逓は滝上市街地(現・元町)に移設され,
その役割を終えました。
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滝上町の駅逓所跡 … はじめに

2017-01-18 05:47:36 | 滝上町
駅逓所(えきていじょ)とは北海道の開拓時代に存在した制度やその場所で、
旅行者などへのサービスで人馬の継立や宿泊、貨物運送などの業務を行っていました。

開拓初期から道内各地に駅逓所が設けられ、開拓に大きな役割を果たしました。
運営は半官半民、請負制で各駅逓の運営管理を行う者を「取扱人」と呼んでいました。

現存する駅逓所は少ないのですがその中でも有名なものは、
奥行臼(別海町)、上藻別(紋別市)、島松(北広島市)などがあります。

さて滝上町には6か所の駅逓所がありました。

開設が早い順から上渚滑、サクルー、北滝上、滝上、奥滝上、オシラネップで、
その全ての場所には現在、記念碑が建てられています。

他の市町村のことはよくわかりませんが、
駅逓所所在地の全てに記念碑などの痕跡があるのは珍しいのではないか。

ということでこれから滝上町に建てられている駅逓所跡の記念碑を、
開設の古い順から順次紹介していきます。

尚、ご紹介の内容は「新選 滝上町史(昭和51年)」及び現地調査の結果によります。
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奥札久留バス停の謎が解けた

2017-01-09 05:59:04 | 滝上町



滝上町には1週間に水曜日だけ、1日2便しかバスがやってこないバス停があります。
ブログでは今まで3回、この話題を取り上げています。

「北紋バス、滝上町内3戦の謎」
    → http://blog.goo.ne.jp/okui-m/e/3daef84c5f860ed6652c03c3fb7ead15
「1週間に1日・2便しかバスが来ないバス停」
    → http://blog.goo.ne.jp/okui-m/e/1d4a749ac5273a0d37adc1643bdf67eb
「奥札久留バス停に行ってきた」
    → http://blog.goo.ne.jp/okui-m/e/e20d3368a5d3afae4aa34fef0116228f

問題は何故このバス停には1週間に1日だけ、わずか2便のバスしか来ないのか、
今まで地元でリサーチしてもわかりませんでした。

その謎が今回の帰省で判明しました。

車を持たない方がどうしてもここ・奥札久留に移住したい、
ついてはアクセスを何とかしてほしいと町に掛け合ったらしい。

そこで1週間に一日だけ、ここまでバスがやってくることになったとのこと。
そこまでして奥札久留に住みたかったのか…。

確かに、周りの環境は素晴らしいところではあるのですが。

実現までには地元との調整などいろいろあったらしい。

その方はたぶんご高齢の方なのでしょう、バスの町内無料パスをお持ちのはず。
だからこのバス停までの運賃設定がないと推定されます。

なるほど、そういう訳だったのですね。
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滝西巡査駐在所跡碑

2016-12-02 06:45:51 | 滝上町



今は閑散としどれほどの人が住んでいるかという滝西市街地ですが、
かつては私も含め大勢の人が住んでいました(H22年の国勢調査では15世帯31人)。

大勢の人が住んでいたということは、生活に必要ないろいろなものが立地していたということ。
何軒もの商店やガソリンスタンド、澱粉工場や農協の支所、学校など…。

その中には警察の駐在所もありその場所には今、記念碑が建っています。
場所は滝西市街地の滝上側の端っこ。

こんなところに駐在所がと言うなかれ、昔はそれほど栄えていたということだ。

この駐在所は1920年、20線に“北滝上巡査駐在所”として開設され、
1933年に当地に移設され“滝西巡査駐在所”となりました。

しかしこの駐在所は1958年には廃止となっています。

この場所はその後、1963年に滝西診療所となりました。
私が滝西に住んでいたころは葛西さんという看護師が常駐していました。

当時の滝西を知る方、懐かしいでしょ。

診療所は1992年に閉鎖され建物はそのままにされていましたが、
私が行ったときには解体工事をしていました。





あらまた一つ、想い出がなくなってしまった…。
残るは記念碑だけだね…。
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滝西小学校(滝上町)の今

2016-12-01 06:05:28 | 滝上町



私の母校、滝西小学校は2014年に閉校しました。
ちょうど開校100年の節目でした。

その時のブログはコチラ。
    → http://blog.goo.ne.jp/okui-m/e/dafc5248a04eb28f7de4ed6714345dcf





先日、用事があって滝西へ行きました。
閉校はしても立派な校舎はそのまま残っている。

そこで何か工事をしている様子。
公民館にでもなるのだろうか?

ということで、その校舎と開校100年記念碑です。


追記

滝西小学校の校舎は閉校直後に公民館になっていました。
それは知らなんだ。

さて、何の工事をしていたのかなぁ。
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奥札久留バス停に行ってきた

2016-08-20 06:17:06 | 滝上町



私の周りのごく一部で大きな話題になっている奥札久留バス停。
ここはこれまで2回取り上げました。

「北紋バス、滝上町内3戦の謎」
    → http://blog.goo.ne.jp/okui-m/e/3daef84c5f860ed6652c03c3fb7ead15
「1週間に1日・2便しかバスが来ないバス停」
    → http://blog.goo.ne.jp/okui-m/e/1d4a749ac5273a0d37adc1643bdf67eb

1週間に水曜日だけ、1日2便だけやってくるバス停ですが、
先日たまたま水曜日に滝上にいましたので現地に行ってきました。

実家で早い朝食をいただき身支度を整え奥札久留へ出発、
7:40ころ現地に到着しじっと待つこと数分…。

7:46、乗客のない北紋バスがやってきました。





待つ人のないバス停で停車すること1分、定刻7:47に乗客のないまま出発。

回送のごとくやってきてまた出発していった路線バス、
この日は結局何のためにこのバス停が存在するのかの謎は解明できませんでした。

このバス停の存在意義は何か、知りたいけど謎のままにしておきたい。

真実を知りたいという探求心は必要ですが知らなくていいこともある、
そう思いながら実家へ戻りました。
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滝上開拓発祥之地碑

2016-08-07 06:15:35 | 滝上町






渚滑川流域は明治中期まで開拓されていませんでした。

滝上に初めて植民地区画設定開放されたのは明治30年、
上渚滑原野52線(現在の滝下地区)まででこれにより開拓の機運が出てきました。

明治38年、高知県出身の西森亦吾が52線に入植、
これが滝上町初の和人の定住かつ農耕開拓の創始となりました。

植民区画が設定された8年後ですね。
それにしても植民区画のどん詰まりが最初の開拓地だったとは。

碑がある場所は紋別から進むと滝下小学校を超えた最初のカーブ、
そこから右手に分かれた農道を入ってすぐ、国道沿いには“52線”のバス停もあります。

今は肥沃な酪農地帯ですが当時はどんな様子だったのか。

西森氏が入植した翌年には福島県から佐藤氏など7戸と、
富山県から田中氏1戸の計8戸が46線から48線の間に入植。

町史によると西森氏を含め9戸の戸主のフルネームがわかっている。
それがすごいなと思う。

その後町内各地に植民区画が設定され入植者が続き、
滝上は急激に発展していきました。

私の祖父、祖母もその中のひとり。

その原点がここになります。
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第四渚滑尋常小学校跡碑

2016-08-06 04:50:27 | 滝上町



場所は滝上町と紋別市の境界から少し滝上寄り、国道の脇にあります。

滝下地区は明治38年に滝上町で最初に開拓が行われたところ、
その後戸数の増加により子弟教育のため学校の設置運動が起こりました。

当時は滝上村が成立しておらずこの一帯は渚滑村でしたが、
その40線に「渚滑第二教育所」の設置命令が出されたのは昨日書いた通り。

その学校が明治45年7月24日に49線に移転、結果的にこれが滝上最初の教育機関になります。

大正2年5月6日「第四渚滑尋常小学校」と改称し正式な小学校として独立、
そして大正7年、渚滑村から滝上村が独立しました。

となると学校の所在地は滝上村の外れになり、通学が不便となります。

所在地適正を欠くと大正8年5月23日に51線に移転、12月25日に「滝下尋常小学校」となりました。
これがのちの滝下小学校(平成18年休校)となります。

滝下小学校は昭和28年12月15日、大正小学校との統合により現在地の50線に移転しています。
移転すること3度、それも含め移り変わりの激しい学校だ。

ということで、年表です。


明治41年  40線で渚滑村により「渚滑第二教育所」として開校
明治45年  49線に移転
大正 2年  「第四渚滑尋常小学校」として独立
大正 7年  滝上村が独立、滝上村の所属となる
大正 8年  51線に移転、「滝下尋常小学校」となる
昭和 3年  高等科を併設、「滝下尋常高等小学校」と改称
昭和16年  「滝下国民学校」となる
昭和22年  「滝下小中学校」となる
昭和28年  50線に移転し大正小学校と統合
昭和48年  中学校が滝上中学校に統合、「滝下小学校」となる
平成18年  休校
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札久留(さっくる)特別教授場跡碑

2016-07-15 06:19:31 | 滝上町






札久留9号の札久留神社横、道道からは少し見えにくい場所にあります。

明治44年11月3日に渚滑第二教育所(後の滝下小学校)所属札久留特別教授場として開校、
大正4年7月2日に白鳥尋常小学校所属に変更されました。

開校当時は掘っ立て小屋の仮校舎でストーブや椅子、机もなく、
それでも何とか24名の児童を受け入れたという記録があります。

何であれどうであれ、子どもに教育の機会を与えることが何より大事、
そういう時代だったのですね。

さて開発の進展により狭隘になり大正5年4月1日に現・札久留小学校跡地に新築移転、
同年7月に尋常小学校に昇格し独立しました。

大正15年4月1日に高等科が併置され尋常高等小学校に。

昭和16年に小学校は国民学校と改められ、
同17年11月1日から18年5月まで金山のあった枝間沢に分教場が開設されました。

同22年4月1日に札久留小中学校となりましたが中学校は47年3月31日に統合、
小学校も平成8年3月31日に休校となっています。

札久留小学校の校舎は現在、札久留公民館となっています。

ここは福島第一原発事故の影響から子どもたちを守るために開催されている、
「ふくしまキッズ」の活動で福島の子供たちが滞在したこともあります。

また近くには「月のチーズ」の工房もあります。
ここのチーズは美味しい。

それにしても、枝間沢に分教場があったとはねぇ…。
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