世界一健康長寿のニライの風来坊

豊饒を齎す理想郷は海の彼方の蓬莱島!ニライの島夢郷!!その桃源郷を求めて南の風来坊は今日も迷走する。

福沢諭吉に匹敵する 西 周(あまね) とはどういう人物か!?

2007年03月13日 | Weblog

通の間ではとっくに周知の事だが知名度で福沢諭吉に劣る。1829年~1897年に生存した方で哲学者、啓蒙家、教育者だと知ると何故、知らなかったのかと訝(いぶか)る人もおおいだろう。彼の本領は哲学、啓蒙、教育の分野で功績を残したというより造語、直訳、翻訳で多大な功績を残している。英語のscienceを「科学」と語訳したのは彼である。江戸末期から明治にかけて文明開化の煽りで怒涛のように流入・流れ込んだ文化・文明の事柄・事例等を日本語で表示するのに時の学者は困窮していた。西 周(あまね)の論文「知説」に当時の専門化した学問の分野での<造語>が数多、紹介されている。「科学」もその1つである。日本を経由して西 周(あまね)の訳語が朝鮮、中国にも伝わっている。彼の出自は島根県津和野町、当事の 石見国津和野藩 の藩医の長男として生まれている。幼少の頃から英才教育を受け12歳で藩校の「養老館」に入学。当事の勉強ぶりは常識を逸脱したガリ勉、猛勉強だったという。近所の 森 鴎外にも影響を与えた。20歳で藩校「養老館」の教師に任命されている。各地を遊学した後、江戸に出て洋学を学ぶため脱藩した。彼の才能を認めた幕府は1,862年にオランダのライデン大学に留学させている。哲学、法律、経済を学んだ。帰国後、幕府開成所教授となり徳川慶喜のフランス語個人教授となっている。時は幕末から明治へと移り文明開化の華が咲く。明治政府に出仕した彼は「軍人勅諭」を起草、「五箇条のご誓文」の草案も起草している。1,873年には 福沢諭吉、 森 鴎外 等と「明六社」を結成し翌年から機関紙<明六雑誌>を発行。欧米の啓蒙思想を紹介した。彼の足跡は福沢諭吉や森 鴎外、森 有礼等に劣らず明治の先覚者である。経歴も東京学士会院の院長を2度、務める。独逸学協会中学校の初代校長を拝命、1,890年には 貴族院議員となっている。経歴の華々しい割には知名度が劣る。彼の功績は造語・訳語に非凡なる才能を発揮した。因みに<訳語>には「科学」、「哲学」、「主観」、「客観」、「帰納・演繹」、「理性」、「悟性」、「知覚」、「感覚」、「総合」、「芸術」、「技術」等々と数多の哲学、科学等の<訳語・造語>を考案している。それ等も彼、<西 周(あまね)>の功績である。今日の難しい日常語の殆どは彼の造語、訳語である。・・・

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