フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

4月26日(水) 曇り

2006-04-27 11:33:47 | Weblog
  午前中に歯科に行って、午後は娘の大学の演劇研究部の春公演を見物に行く。2時開演のところ最寄りの駅に着いたのが1時40分。バスを待っていたのでは間に合いそうになかったので、タクシーに乗る。子どもの目から見ると、大人が通りでサッと手を挙げてタクシーを呼び止め、それに乗り込み、「○○まで」と運転手に告げる一連の行為は、大人っぽいというか、いつか自分もあんな風に振る舞ってみたいと思わせる憧れの行為の一つなのだが、生憎、私は子どもの頃から乗り物酔いをする体質で、とくに自動車は最悪で(信号やカーブで加速や減速を頻繁に行うためだろう)、周囲の大人達の「じゃあ、タクシーで行きましょうか」という会話を聞くと、死刑宣告を受けた囚人のように打ちひしがれた気分になったものだが、今日のように短い距離(料金は900円だった)なら大丈夫。
  春公演「沈黙の臓器」は、新人部員の勧誘という目的があるためであろう、長短三本の演目で構成されている。最初の「ピロシキ」は、片方の腎臓がピロシキになってしまった青年とその主治医の二人の会話のみで構成されるショートコント。お笑いコンビのインパルスが演じても(板倉が医師役、堤下が患者役)そのまま舞台で使えそうな脚本である。「ピロシキ」が終わって、役者二人が客席に向かって、「本日は春公演にお出でいただきありがとうございます」と挨拶したので、「ピロシキ」は一種の前菜だったのかと了解する。
  二本目の「かえるちゃんのともだち」は、演劇研究部のオリジナルで今回が初演。女同士の友人関係にまつわるちょっとしたトラウマの物語。「ちょっとした」と書いたが、それは大人の目から見てのもので、当人たちには深刻な問題なのであろう。とくに友人関係が日常生活の中で大きな比重を占める若者たちにとっては。「かえる」は子ども時代のトラウマチックな出来事の原因であるとともに、現在のもつれてしまった友人関係をもつれの始まりの日まで「かえる」ことによって解きほぐしたいという願望でもあるのだろう。物語の最初と最後が呼応しているのは、なるほどね、という感じでスマートな印象を受けた(娘が脚本を書き、ヒロインを演じている芝居の感想を書くのは難しい)。
  三本目の「病気」は別役実の作品で、いわゆる不条理劇である。ちょっとした身体の不調を訴えて診療所にやってきたサラリーマンが、周囲で展開されるわけのわからない状況に翻弄されているうちに、当初は頑なに拒んでいた病人という役割を自ら引き受けることによって、そこに安住の場所を見出すという物語。ある意味、わかりやすい現代社会批判(正気と狂気の倒錯)なのであるが、なにしろ初演が1980年代の初めの芝居であるから、その正攻法さがいささか古風に感じられる。当時は、不条理劇というものを我慢して観ること、舞台上で展開される不条理な状況を「不条理なもの」として鑑賞し、楽しむ作法が観客の側にあったと思う。自分が不条理劇を理解できる観客であることを示すことが一種の自己呈示として機能しえた時代であったと思う。しかしいまはもうそういう時代ではない。「不条理なもの」を「わけのわからない面白さ」として鑑賞してくれる観客の存在を期待することはできない。「笑い」という人間固有の高度な精神の運動でさえ、「キロバトル」という単位で瞬時に判定され、一本の数直線上での序列が決定される時代なのだ。実際、授業時間との関係なのかもしれないが、上演中の観客の出入りの激しかったこと! 「不条理なもの」→「わけのわからないもの」→「面白くないもの」という回路で観客は反応する。私には、ある意味、舞台上で展開される不条理劇よりも客席で展開される観客の動きの方が不条理なもののように思えた。不条理な世界の中で不条理劇を演じてもインパクトは薄い。世界が不条理に充ちていることに不条理劇を観て改めて気づくという牧歌的な時代はもう終わったのである。あからさまに不条理な時代に不条理劇を上演することの意味は何なのか、演劇研究部は「研究」する必要があるだろう。