フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

4月21日(金) 晴れ

2006-04-21 23:37:37 | Weblog
  朝食(豚肉の味噌焼き、わかめスープ、御飯)の後、昨日のフィールドノートを書く。就寝前に書くことを原則としているが、疲れているときは文章にハリがなくなるので(お肌と同じ)、無理をせず、翌朝回しにする。一日の終わりにその日のことを書くときと比べて、一日の初めに前日のことを書くときの方が、対象との距離感があるためか、感情が背後に退きクールな(抑制の利いた)文体になるような気がする(当人にしかわからないレベルかもしれないが)。たとえば村上春樹は早起きで小説を書くのは午前中の仕事と決めているようだが、もし彼が夜中に仕事をするタイプの作家であったら、作品はいまとずいぶんと違ったものになっていたであろう。大学院の演習で配布する資料をプリントアウトしてから大学へ。
  3限の社会学演習ⅡBでは「本を読む」ことの作法についてレクチャー。私の目から見ると、多くの学生は本の読み方が浅い。どんなことが書いてありましたかと尋ねても本の内容を的確に要約することができないし、読んでいて疑問に感じる点はありませんでしたかと尋ねても著者の議論の弱点を鋭く指摘するといったことはまずできない。もしやと思って10人ばかりにテキストを見せてもらったが、案の定、書き込みをしたり付箋を貼ったりしながら読んだ形跡のあるものは一つもなかった。図書館から借りている本ではないのだ。身銭を切って購入した本なのだ。それも小説とか詩集とかではなく、社会学の文献である。社会学的思考を鍛えるための道具である。本は消耗品と心得て、消費し尽くすことである。もし後からまたその本を読みたくなって、昔書き込んだ傍線やメモが気になるときは、同じ本をもう1冊買えばよい。そんなもったいないこと、と思うなかれ。読み返すに値する本などそうめったにあるものではないのだから、そういう本に出会ったことを感謝しつつ、もう1冊買えばよいのだ。
  4限は大学院の演習。参加者が一人増えた(社会科学部の大学院のM1のY君)。慶応の院生のIさんが今日は欠席だったので、私を含めて参加者全員(8名)男性である。私の担当科目の中で唯一の男性優勢の授業である。ハードボイルドな展開が期待できるかもしれない?! 5限は休憩時間。昼食を取り損ねていたので、メルシーに行ってチャーシュー麺を食べる。6限の「社会と文化」は定刻より5分早く教室に入ってしまった(研究室の時計が進んでいたのである)。当然、まだ学生たちはそろっていない。かといって研究室に戻るほどの時間ではないので、来ている学生たちに前回の授業のノートを見せてもらって時間を潰す。なんだかスカスカのノートが多い。私が板書したことしかノートに書いていないせいだろう。これはノートとしては原始的レベルである。板書したこと=重要なこと、ではない。少なくとも、板書したことだけが重要なことではない。板書の時間を惜しんで喋っていることの中に重要なことが含まれている場合も多いのだ。その辺の嗅覚を鍛えてほしいと思う。
  9時、帰宅。風呂を浴びてから、明太子でお茶漬け。昼食が遅かったので今日の夕食はこれで済ます。デザートにハーゲンダッツのアイスクリーム(チーズケーキ)。でも、一番好きなのはラムレーズン。
  

4月20日(木) 晴れ、一時雨

2006-04-21 10:19:00 | Weblog
  自宅の玄関を出るとき道を歩いているご婦人と目があって、会釈をされたような気がしたので、会釈を返した。お顔は存じ上げないが、きっとご近所の方なのであろうと思った。門を出て、道を歩き始めると、少し前を歩いていたそのご婦人がこちらを振り返って「大久保先生でいらしゃいますか」と尋ねてきた。「はい、そうですが」と答えると、「実は私の妹が大久保先生の日記の読者で、先生のことは妹からよく伺っております」と言ったので驚いた。その妹さんというのは社会人入試で二文に入学し、教育学専攻の大学院に進み、最近修士課程を卒業されたとのことで、私の授業を受けたことはないが、私のブログを愛読されているのだという。ご婦人(お姉さん)はフィールドノートそのものは読んでおられないご様子だったが、内容は妹さんから詳しく聞いているようで、駅までの道すがら、「お父様はいかがですか」とか、「先生は本をたくさん買われるそうですが、全部ご自宅に置いておかれるのですか」といった質問を受ける。初対面という状況と質問内容とが日常感覚からするとアンバランスで少々面食らったが、ブログというものの特質(私は読者のことを何も知らず、読者は私の日常生活をよく知っている)を実感する面白い経験だった。
  シネスイッチ銀座で『寝ずの番』の11:15からの回を観る。監督はマキノ雅彦(俳優としての名前は津川雅彦。祖父のマキノ省三、叔父のマキノ雅弘に続くマキノ家三代目の映画監督デビュー作である)。映画は老落語家の臨終場面から始まる。一番弟子が師匠に最後に何か見たいものはないかと尋ねると、「外が見たい」と答えたのだが、そそっかしい弟子が「外」を「そそ」(京都の方言で女性の性器のこと)と聞き間違えて、とんだドタバタ騒ぎになる。以後、映画は終始、「死」と「性」をめぐって展開していく(師匠に続いて、一番弟子や師匠の妻も亡くなり、その通夜の席で、艶っぽい思い出話の花が咲く)。フロイト的に言えば、「死」と「性」は人間の二大衝動である。そしてどちらも近代社会では日常の場面に持ち出すことはタブーとされてきた。『寝ずの番』はそれを前面に押し出す。押し出し方によっては、いくらでも深刻になるし、下品にもなるところだが、『寝ずの番』はそうはならないようにという作意が一貫している。そこが粋であるともいえるし、小市民的であるともいえる。木村佳乃や富司純子といった美しく気品のある女優たちが「おそそ」や「ちんぽ」といった言葉を口に出すときの、かすかな緊張感は、スクリーンを通して場内に伝わり、一瞬の間を置いて、粋で小市民的なカタルシスとなって場内を充たすのである。
  映画館を出て、有楽町の駅に戻る途中の「天一」で昼食(かきあげ丼)をとってから大学へ。4限の時間に研究室で学生部の雑誌『新鐘』(10月に発行)のインタビューを受ける。今回の特集テーマは「働く」。私へのインタビューは「人はなんのために働くのか?」という素朴な疑問にライフストーリーの社会学の視点から答え下さいというのが趣旨である。ライターとカメラマンのお二人が来るものと思って待っていたら、学生部の職員(編集担当)とカメラマン助手の方もいらして、研究室の人口密度が一挙に高くなる。インタビューを受けている傍らでカシャカシャと写真を撮られるのでなんだか落ち着かない(カメラマンからはカメラを意識しないで下さいと言われるのだが、放送大学時代の癖でついついカメラ目線になってしまうのある)。予定の90分をフルに使って、一応筋のある話ができたかと思うが、ライターの方はこれからが一仕事である。ご苦労様です。
  5限は卒論演習(1時間延長)。五郎八で軽く食事(せいろ。天せいろではなくて)をして、7限は基礎演習。研究室で明日の授業の準備をちょっとしてから帰る。10時半、帰宅。風呂を浴び、夜食(コーヒーとハムトースト)を食べながら、録画しておいた『弁護士のくず』の2回目を観る。結局、トヨエツはかっこいい役なのだね。もちろんそれは最初からわかっていたが、もうちょっとかっこわるさを前面に出した演出をするのかと思っていた。疲れたのでフィールドノートの更新は明日にする。1時、就寝。