フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

7月16日(金) 晴れ

2010-07-17 13:22:20 | Weblog

  8時、起床。太陽と青空と白い雲。あ、暑い。きっぱりと夏が来た。逃げも隠れもしない正真正銘の夏である。これで今日から夏休みだったらどんなにいいだろう。しかし自然の時間と社会の時間システムはそううまくは連動してはいないのである。
  シャワーを浴び、オムライスとグレープフルーツジュースの朝食。授業の準備をして、送り火をすませて、午後から大学へ。


蒲田駅のホームにて

  4限は講義「日常生活の社会学」。次週は試験なので講義としては今日が最終回。最終回らしく(?)「死」をテーマにとりあげて死の日常性と非日常性について「三人称の死(他人の死)」「二人称の死(身近な者の死)」「一人称の死(自分の死)」という角度から話をする。
  15日の読売新聞には4人の死が報じられていた。「西日本豪雨、2人死亡」(朝刊1面)、「1歳児、川に転落死か」(朝刊38面)、「増井光子さん死去 元上野動物園長、パンダ繁殖」(夕刊12面)である。3人は無名の人の死で、1人が有名の人の死である。無名の人の死が新聞に載るのは、災害や事故や事件と関連する場合に限られる。増井光子さんも私は面識はないので、他人の死という点では無名の3人と同じである。川崎洋の「存在」という詩に、「二人死亡と言うな。太郎と花子が死んだと言え。」という一節がある。「西日本豪雨、2人死亡」という見出しを見てその一節がよみがえる。記事の本文を読み、亡くなった2人の名前を確認する。77歳と72歳の女性であった。川で死んだ1歳児の名前も確認する。男の子でちょっと珍しい名前であった。4人のご冥福をお祈りする。
  人生で経験する悲しみの多くは身近な人の死である。私が以前、放送大学の学生を対象にして行った調査のデータによれば、最近5年間に経験した出来事のうち悲しさ辛さの強度の上位10は、「1.配偶者の死」「2.子どもの死」「3.母親の死」「4.子どもの非行」「5.中絶」「6.きょうだいの死」「7.失恋」「8.父親の死」「9.ペットの死」「10.子どもの病気・怪我」であった(11位に「友人の死」が来る)。大部分が家族の死によって占められている。もし昨日、小雀のチュンが死んでいたら、おそらく私は今日の授業の遂行が困難であったろう。
  他人の死はメディアなどを通して日常的に接しているものであり、身近な人の死はごくたまに日常の中に姿を現すが、これに対して「私」の死は非日常的な出来事である。人はだれも一生に一度だけをそれを経験するが(死の確実性)、いつ経験するかは定かではない(死の不確定性)。したがってわれわれは「私」の死については普段は考えないようにしてやりすごしている。ところが、現代人の死因で一番多いのはガンである(3人に1人はガンで死ぬ)。ガンは、心臓疾患や脳血管疾患と違って、数ヶ月、数年という長期にわたって人を「私」の死と対峙させるものである。つまり現代人は「私」の死をいやおうなく意識させられるのである。前近代から近代へかけて、性の脱タブー化が進んだのとは対称的に死のタブー化が進んだとされているが(病院への死の隔離、宗教の衰退)、現代では死についての語りが増えてきている(脱タブー化)といわれているのはこのためである。
  講義の終わりの方で、山崎章郎『病院で死ぬということ』の中の「野口さん」(仮名、40代男性、ガンで死亡)の手紙(息子さんにあてたもの)を朗読しようと思っていたが、時間がなくなったので、プリントを配って、黙読してもらった。久しぶりの朗読で、ちゃんと読めるか自信がなかったので(途中で声が詰まる可能性があった)、正直、時間がなくなってホッとした。

  5限の時間に会合が入る。6限ギリギリまでかかり、食事をとる時間のないまま、ゼミの時間が始まる。スイーツを当てにしていたら、3年生クラスは7限の自主ゼミの時間をコンパにあてるため、休憩時間のスイーツは今日はなしとのこと。ガックリする。7限の4年生クラスのスイーツはシュークリーム。ようやく食べ物を口にする。今日なら2個でも、3個でもOKだったが、1個だけだった。人生は思い通りにいかないものである。