ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

箱の中のユダヤ人 トマス・モラン

2023-02-20 09:27:03 | 
心が朽ち果てる思いをした事は生涯忘れないと思う。

20代の前半、私はずっと家に閉じこもっていた。寝床に横たわり天井を飽きるほどに眺めていた。天気が良くても、窓の外を見る気にはなれなかった。だって眩し過ぎるから。

時代はバブルの最盛期。円高により海外から安く物資を輸入できることの幸せを、日本が初めて味わった時期でもある。馴れぬ大金を手に、大企業は株式市場と不動産市場に狂ったかのように資金を投げ入れた。

少し派手好きの人は、海外の不動産に投資した。ハワイやNYの高額物件を買い占めて、羨望と顰蹙とを手中に収めた。そんな新聞記事を読みながらも、私はどこか遠くの国、異世界の話題に過ぎないと捉え、寝床に潜り込んだ。

布団をかぶって目を閉じて、耳を塞いでいれば平凡にして退屈な療養生活が私を包み込んでくれた。嬉しくもないが、華々しい世間から意識を遠ざける効果はあった。大量の薬を飲むために食事を摂り、栄養と薬剤が身体を巡らせて、血液がなるべく腎臓を通過しないように静かに身体を横たえることだけが私に出来ることだった。

元々は散歩好きが高じて登山を始めた野外派である。年がら年中日焼けした肌で野山を駆け巡り、自転車で都内の古本屋を駆け巡る活発な小僧であった。ただ、本性がナマケグマなので家でゴロゴロと無意味な時間を過ごすのも好き。このナマケグマの本性が結果的に私を救ったと思う。

二十代半ばの療養生活中、私は薬の副作用で顔が丸くなり、家に籠っていたせいで色白の青っ白い不健康な青年であった。そんな惨めな自分を見られるのが嫌で、尚更家に引きこもっていた。

これがどれほど苦しいか分るだろうか。いっそうのこと、檻の中のほうがマシだと考えたことさえあった。つくづく人間という哺乳類は社会性の強い生き物なのだと思い知った。社会から隔絶されると心がすさむ。このまま私は世間から忘れ去られて朽ち果てるのかと思っていた。

安静を守ることが必要なのは分かっていた。でも、このままでは心が持ちこたえられない。病み疲れた身体に無理させて、週に一回は図書館に通い、レンタルビデオを数本借りた。家でゴロゴロしながらでも出来るのは、読書とヴィデオ鑑賞くらいだった。これならナマケグマにも出来る。

私はこれで少しだけ救われた。少しだけだがゼロではない。この少しのあるかなしかが境目だった。多分だけど、なにもせずにいたら心が朽ち果てて、異常をきたしていたと思う。

表題の書は、ナチス・ドイツのユダヤ人狩りから逃れてきたユダヤ人医師が、かつて偶然子供を助けた山村の一家に匿ってもらい、納屋の一角に隠し場所を作ってもらい2年間を過ごした話だ。

彼の世話をするのは、かつて助けた少年と、その幼馴染の盲目の少女だ。狭い箱のなかで気が狂いそうになっていた彼を救ったのは、この子供たちとの会話だった。だが、次第に狂気に染まりつつあるユダヤ人との会話は、思春期に入る子供たちにも微妙な影を落としていった。

実はこの物語の主人公は、匿われたユダヤ人ではない。彼の世話をする少年と彼の成長が主題となる。なかでも盲目の少女の存在感が際立つ。ユダヤ人が狂気に陥るのを防いだ二人の子供と、その成長の物語だ。

あまり世間に知られていないようだが、名作だと思うので機会がありましたら是非ご一読を。
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隠された本音

2023-02-17 12:48:44 | 社会・政治・一般
ウソじゃないのは分かっちゃいるが、腹が立つのは抑えられない。

まずその第一は地球温暖化。地球の平均気温が上昇していることは否定しない。しかし、その原因がCO2であるとは、科学的には立証されていないから腹が立つ。

第二は脱炭素社会。言いたいことは分かる。分かるけど、今の西側先進国が自らの生活の快適さを温存して主張する厚かましさに腹が立つ。

そして一番腹が立つのは、原油の枯渇問題がマスコミから姿を消していることだ。イギリスのBP社の資料では、既に後50年分の原油しか残っていないと記載されている。また石油輸出国機構の資料では30年を切っているとの記載もある。

ところが困ったことに、これらの報告はほとんど信用がならない。これは書いている当人が注意を促しているほどである。なぜかというと、原油がどれくらい残っているかは、現在消費される原油量と、採掘される原油量をベースに計算されるが、どちらも一定の基準で算出されるデーターではない。

また原油産出国にとって、埋蔵され残された原油量は国家機密である。うかつに公表なぞ出来ない代物だ。なにせ現代文明は石油文明でもある。単に車や飛行機、船といった輸送機関のエネルギーとして使われるだけではない。プラスティック加工物としてありとあらゆる産業で活用される汎用性の高い物質が原油である。

この原油を支配していたのが欧米である。石油メジャーと呼ばれる巨大企業により中東の原油をわがものとしていた。しかし第二次世界大戦後の民族独立の嵐が湧き上がり、植民地は独立し、支配が危うくなった。

そこに止めを刺したのが70年代の石油ショックである。産油国が手を結び中東戦争に介入する欧米から石油採掘施設を強奪し、世界中の工業国にインフレの嵐をばら撒いた。

後世の歴史家は、この石油ショックを必ずや欧米の支配の終わりの始まりだと記すはずだ。その衝撃たるや、日露戦争の比ではない。旧植民地がかつての支配者に対して強力な武器を持っていることを露わにしたのだ。ここで初めて世界政治の主導権を欧米は第三社会に奪われた。

だからこそだろう、この石油ショックはおそらくは意図的に現代史において矮小化して記載されている。私は現代文明の中心が欧米であると強く認識している。その意識は外野たる日本人とは比較にならぬくらい欧米、とりわけ西欧では強いはずだ。その中心たる地位から転落する可能性があることを石油ショックは教えてくれた。

その後、イギリスは北海油田の開発に傾倒し、フランスやドイツは原発に舵を切った。原発に不安になると、かつての仇敵たるロシアから天然ガスを輸入するほどにエネルギーを多様化させた。

これらの動きはすべて世界政治の主導権を再び奪われることがないようにと、必死で足掻いているのが実相だと私はみている。そして21世紀の今日、遂に原油の枯渇問題が顕在化しそうなのである。

西欧は20世紀の石油ショックを決して忘れてはいない。もう二度と世界政治の主導権を奪われるような失態はするまいと決意しているはずだ。だからこそ、敢えて原油枯渇を世間の目から遠ざけるため、地球温暖化や脱炭素社会を強く打ち出した。

EUにおけるEV車の強要は、その一つに過ぎない。決してウソではないが、本当の目的を隠して自分たちの世界政治における主導的役割に固執しているのが、今のEUでありアメリカであろう。

私は予言者ではないが、それでも断言できる。多分、この試みは失敗する。現在の人類のエネルギー製作能力は原油頼りであり、これは100年以上かけて構築されたエネルギー供給網により支えられている。

そして電気エネルギーにその全てを代替させることは、まず不可能だと思う。欧州の一部でならば、ある程度可能だと思うが、アジア、アフリカ、南米などでは絶対無理だ。

もちろん世界の政治における主導的立場を欧米が安易に手放すはずもなく、たとえ戦争に持ち込んでも自らの優先的地位を守ろうとすると予測している。

他人事みたいに書いているが、もちろん日本は欧米側の立場である。ここを間違えると、格好の獲物として狩られる悲劇が待っている。21世紀の日本は、欧米の合わせて徐々に衰退することが最大の課題だと思う。間違っても欧米に対抗しようとか、第三勢力になろうなどと野心を持つべきではありません。

嫌らしい予想ですけど、この第三勢力になろうとするのはシナ及びコリアだと思います。欧米に並び、欧米を超えたと中華意識を復活させた彼らが、欧米に牙を剥いて唸るのは目に見えています。

日本はくれぐれも立ち位置を間違えないことを祈りたいですが、正直かなり心配です。右、左を問わず妙に日本アズNo1だと信じたい輩が増えている気がしているもんでね。
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稚魚の放流

2023-02-16 10:59:49 | 社会・政治・一般
善意で行ったとしても、それが正しいとは限らない。

時折、TVなどで大人たちに付き添われ、川岸で鮭の稚魚を放流する光景が放送されることがある。川を下り海に出て育ち、大人の鮭として戻ってくることを期待しての行為である。実際、鮭やニシンなどかつては沢山取れた魚介類は減少の一途を辿っている。その回復のための一助となると思っていた。

子供たちの手で放流される稚魚に微笑ましい光景と感じる向きも多いと思う。実際、私自身この稚魚の放流をさほど問題視することはなかった。ただ心の底では、まず川を綺麗にすることが先だろうとも思っていた。でも楽しそうな子供たちの様子をみると、ケチをつけるのもなんだなと思い、流していた。

ところが、これが全くといって良いほど効果のない慈善事業だと知ったのは、わりと最近のことだ。私のお気に入りのユーチューブの番組「へんないきものチャンネル」で取り上げていた。詳しくはこの番組を視ていただくのが良いと思う。

ちなみに全ての放流が駄目なのではなく、ホタテのように稚貝を放流しても、その海域から動かないような場合、人が管理できるために商業的に成功しているケースもある。ただし、これはかなりレアなケースだ。

稚魚の放流がうまくいかないことは、既に幾つもの学術研究がされているようだ。でもあまり広く知られてはいないのが残念だ。実際、わりと物知りだと自負している私も知らなかった。

私も善意の色眼鏡で見ていたのだろうと思うが、反面初めて鮭の放流を多摩川でしているのを知った時、子供心に感じた「こんな汚い川に、鮭を戻してどうするんだ?」との素朴な疑問あるいは反発は、案外正しかったようだ。

ただ気になってあれこれ調べてみたのだが、私が思う以上に日本各地の水産業者や水産研究所、所轄の行政機関は知っていたようだ。しかし、予算の壁にぶつかり、なかなか改善策を打ち出せずにいるのが実態らしい。

簡単に説明すると、鮭の稚魚(単価15円)として10万匹放流し、数年後に戻ってきた成魚の鮭(8000円)となると、稚魚放流事業に予算を付けやすい。

しかし、鮭の育成に好ましい環境づくりとなると、河川の清掃、堰堤の再整備、河川敷及び周辺の森林整備までが必要になる。こうなると周辺自治体及び地域住民の理解、関係業者間の利害調整など予算付け以前にやることが膨大となる。

行政の専門家でもない私でも、この後者の政策実行のための予算策定がたいへんな作業になることは容易に予想がつく。だから、稚魚の放流が事実上無駄と知りつつ、その予算付けを繰り返すだけにしてきた地方政治の苦悩も分からないではない。

でも、このままでいいのか?

率直に言って、地方の一行政機関に任せるには荷が重いと思う。せめて都道府県レベルでやらないと、本当の意味での魚介類の復活事業は難しいと思う。ちなみに国レベルまでもっていくと、現場知らずの霞が関のエリート様が混乱を招き、さらに永田町の政治業者が余計な口を挟むので推奨できません。

迂遠に思うでしょうが、適正な手続きを踏むことが民主主義国家における大原則。即効性の治療法なんてないと思います。まずは稚魚の放流事業が無駄である残酷な事実を知らしめることが第一歩なのでしょうね。
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白湯

2023-02-15 11:49:41 | 健康・病気・薬・食事
最近の私のマイブームは白湯。

元々、あまり酒を好まないので晩酌はしない。でも珈琲好きであり、紅茶好きでもあるので、食後のオヤツの相方に飲み物は欠かせない。

若い頃は決して好きではなかった日本茶も今では美味しく頂いている。番茶、ほうじ茶、ウーロン茶はもちろんルイボスティーやハーブティーまで幅広く楽しんでいる。

ところが先日、久々に糖尿外来にかかったら数値が悪化している。こりゃアカンと食後の甘味を減らしている。同時に飲み物もどうしようかと医師に相談したら白湯を奨められた。

その際、云われたのが白湯の作り方。水道水から作る場合は、いったん沸騰させてから自然に冷ます。間違っても水を足して冷ましては駄目。ミネラルウォーターならば電子レンジで温めるだけでも大丈夫。寝る前30分までに飲み、身体を温めることで良い睡眠がとれる。

ちなみに担当の医師は「私は夜勤明けの朝食前に、必ず白湯を飲んで、それから食事を摂ります」とのこと。

ふむ、まァものは試しだと寝る前の白湯をやってみたところ、非常に目覚めが良い。最初はただのお湯じゃんと軽く考えていたのですが、最近はけっこう美味しいと感じるから不思議。味なんてないはずなんだけど、身体が温まる感じは分かる。

これで体重も減ってくれれば大満足なんですけど、これはまだ分かりませんね。
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ボルダー

2023-02-14 14:20:21 | スポーツ
私がボルダリングというスポーツを知ったのは大学生の時だった。

以下、whkiより引用

ボルダリング(英: bouldering)とは、クライミングの一種で、最低限の道具(クライミングシューズとチョーク)で岩や人工の壁面などを登るスポーツである。「岩の塊」「大きい丸い岩」を意味する英語が語源である[1]。元々はロープを使用したフリークライミングの練習的な位置づけだったが、クライミングから確保という要素が取り除かれ、より純粋に岩を登る事に集中できる。また必要な装備が少なく[2]、手軽に始められる事から、ボルダリングを中心に行うクライマーが増えており、現在では独立したフリークライミングの一形態となっている。

その頃は、もっぱらフリークライミングの技術向上のため、私はボルダリングを行っていた。車で小一時間の奥多摩は多摩川沿いの御前山ボルダ―が練習場所であった。

以前書いたが、ここで昼寝していたらツキノワグマに遭遇したこともある。幸い巨石の上で寝ていたので、クマは登ってこれずに助かった。その代り河原に於いて於いたザックの中味の食糧は食べられた。

まァ元々クマの縄張りであるから仕方ない。クマは怖いが、ここはボルダリングの練習場所として格好の地であったので、大学を卒業するまで熱心に通ったものだ。ほとんど一人であったのは、大学の同期でクライミングに関心がある連中は、就職活動に苦労していたので、一人でやらざるをえなかったからだ。

そう、一人で出来るからこそボルダリングはありがたかった。社会人になれば、今までのように数人で山に行くことを示し合せるのは難しい。だからこそ、私はボルダリングに力を入れていた。

まさか、それから一年と経たぬうちに難病により身体を壊し、クライミングどころか日常生活にも支障を来たすとは当時は予想すら出来なかった。ちなみに私のボルダリングはもっぱら河原の巨石や、海岸の岩場に限られ、いわゆるインドアクライミングと呼ばれる人工壁の経験はない。

20代の大半を闘病生活に費やした私は、税理士の資格を得て30過ぎて働き出した。もう夢中で仕事に傾倒したので、もう登山はもちろんクライミングもボルダリングも忘れ去っていた。

いや、忘れるように意識していた。もう山への未練を断ち切るためにも、それは絶対に必要な覚悟だと考えていた。なるべく登山関係のものには目を向けないよう努力していた。

でも完全に忘れることは出来なかった。一日中、岩にへばりつくと筋肉が硬直する。その日の夜には筋肉痛に襲われる。でも頭の中では、どうやったら登れるかをシュミレートしていた。手の握り方、足の置き方、身体の振り方を脳内で幾度となく思い浮かべ、次こそは登ってやるとにやけていた。

苦しいし、悩ましいし、痛いばかりであったが、それだけに課題を達成した時の喜びは格別だった。多分、脳内麻薬であるドーパミンがジャバジャバと出ていたはずだ。

今、思い返してもあれほどの快楽は食事でもセックスでも味わったことがない。我ながら良く断念できたと思う。いや、断念したからこそ今があると信じたい。

そんな忘れがたきボルダリングだが、その呼称が変更になるそうだ。国際的な呼称であるボルダ―が正式名称となったと報道されていた。なんだよ、ボルダ―って。そりゃ、地名だろうとぼやいている。

ボルダリングの始祖と呼ばれるのがアメリカの数学者であるジョン・ギルだ。初めてその写真を見たときは、トリック写真だと思ったほど衝撃的な姿だった。

なぜに数学者と思ったが、自分でやってみて分かった。ボルダリングは身体のパズルだ。最適なムーブを連続することによる登攀。たしかに数理的かつ論理的であった。同時に哲学的にもなり得る不思議なスポーツ、それがボルダリング。

もう私の病み衰えた身体では出来ないだろうが、最近ようやく未練が断ち切れたみたいで、動画を楽しめるようになりました。日本は平山祐司君を始めとして、優れたボルダ―を多数輩出した国です。機会がありましたら、是非見てやってくださいな。
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