文武両道。
これを極めることは、古来より日本のみならず世界中で理想とされてきたが、実践できた人はそう多くない。
私が注目してきたのが、戦国時代末期に活躍した細川藤孝である。細川ガラシャの義父といったほうが今では通りが良いかもしれないが、ただならぬ才人であると言わざるを得ない。
剣は塚原卜才に学び、弓道も学び、京の大通りを暴走する牛を投げ飛ばした剛腕の持ち主。和歌、茶道、連歌、蹴鞠、囲碁、猿楽と文芸にも秀で、京都の公家の間でも教養人としての評価が高い。
足利義輝の側近として活躍するも、義輝が三好三人衆に襲われて死亡。その後、義輝の弟である義昭を立てて足利幕府を支える。だが、自身の権威しか頭にない義昭に見切りをつけて、織田信長の配下となる。
明智光秀とは長年にわたり交友があり、最も親しかったと言われたが、本能寺の変での光秀の裏切りを好意的には捉えず、光秀の熱心な誘いを振り切る。光秀の娘ガラシャと、藤孝の長男は既に婚姻していたが、私情を断ち、自身も剃髪し出家することで光秀と距離を置くことに成功した。
戦国武将は生き残ってこそ勝者である。その意味で細川藤孝は正しいが、友を見捨てたとの評が出るのは避けられない。彼が光秀の要請を断った理由ははっきりしてないが、元々光秀は細川家の部下であったので、その旗下に集うことは矜持が許さなかったのかもしれない。
その後は、秀吉の配下の武将としても活躍したが、石田三成とは折り合いが悪かったらしい。秀吉の死後は家康に接近し、家康もこの希代の教養人を評価していたらしく、関ヶ原の戦いでは、家督を譲った息子・忠興が東軍に参戦している。
藤孝は居城である田辺城に立て籠もっていたが、そこへ石田三成傘下の部隊15,000が襲来した。対する藤孝は、わずか500の寡兵をもって籠城して戦う。これが田辺城の戦いである。
圧涛Iな兵力差であるにも関わらず、田辺城は落ちなかった。何故かと言うと、石田方の武将たちには、藤孝の芸事の弟子が多数いて、本気で戦うことを避けていた様だ。また京都の公家たちが背後で動いた。
細川藤孝は古今和歌集の正規の解釈である「古今伝授」の唯一の伝承者であったため、彼を失うと貴重な文化遺産が失われると怖れた。その為に遂には後陽成天皇に勅令を出してもらい、石田方の軍勢を撤退させてしまった。
簡単に田辺城を落せると踏んだ三成の判断ミスであるが、それ以上に自分に反旗を翻した細川家を許せず、肝心の大局を見失ったあたり、やはり三成は天下人の器ではない。
余談だが田辺城の戦いに前、各大名に妻子を人質に出せと三成は命じている。その時、石田方の軍勢が細川居宅を襲っているのだが、徹底抗戦の覚悟を決めた息子・忠興の妻ガラシャは、この時に亡くなっている。息子までも完全に反・石田三成となったのも当然である。
歴史にIFは不要だが、もし、この15,000の軍勢が関ヶ原に参戦していたら、少なくても半日で勝敗が決することはなかったと思う。徳川が最終的に豊臣家を滅ぼして後、息子・忠興は九州に領地をもらい、幕末まで細川家は残った。もっとも、その子孫が日本国の総理大臣になろうとは誰も思わなかっただろう。
一方、引退した藤孝は、京都に居を構えて、江戸時代の初期まで生き延びて文化人として余裕ある人生を全うしている。よく芸は身を助けるというが、これほどまでに芸事で戦国の世を生き延びた人は稀だと思う。
細川藤孝とはまた渋い選択ですね。やっぱりお玉さんの義父のイメージが強くて、忠興のお父さんだからバリバリの武闘派と思っていたこともありましたか、よく調べたら本当に教養高い文化人でした。成り上がりじゃなかったと謝りたい気分です。