多分、初めて原爆の恐ろしさを実感したのが、表題の漫画を読んだ時だと思う。
原爆が炸裂して人々を焼き尽くす場面の残虐さは、とても少年誌に掲載されたとは思えないほどのリアリティで、子供たちの心に深く刻まれたはずだ。
皮膚が焼け落ちて、それでもなお生きて水を求める人びとの間を駆け回り、家族を捜し求めるゲンの姿に、自分を重ね合わせて、戦争の悲惨さを胸に刻んだ子供たちは少なくないと思う。
だが、私には同じレベルで記憶に残っている場面がある。戦争に批判的であったゲンの父親を「非国民め!」と罵った近所の人たちが、敗戦後に手の平を返して軍人を罵り、民主主義を褒め称える場面がそれだ。
戦時中は「天皇陛下、万歳」と叫び、「鬼畜米英、ぶっつぶせ!」と愛国心を誇示していた人々が、敗戦によりいとも容易に変節して、「民主主義万歳」「ギブ・ミー・チョコレート」と平然と口にする卑しさ。
それを生きていくために必要な変わり身の早さだと頭では分っていたが、その醜悪さに嫌悪感を覚えずにはいられなかった。
さすがに、年齢を重ねると、円滑に生きていくための大人の智恵というか、処方箋としての変わり身の早さを理解できるようになったが、青臭さが抜けきらぬ私には、やはり節操なき変節への嫌悪感は拭えない。
また、この漫画が強烈な反戦漫画であることは確かだと思うが、私に関する限り反戦思想の徒となることはなかった。何故なら、戦争の恐ろしさ、醜さ、残虐さを知り、戦争を嫌い、厭い、否定したところで戦争がなくなるものではないからだ。
戦争が引き起こす悲劇や残酷さは、人間という生き物それ自体が産みだすものだ。愛する人を優しく抱きしめるその手で、憎い敵を嬲り殺す。それが人間というものだ。
一方だけを否定したところで、それが無くなるとは思えない。既に存在し、これからも存在し続ける戦争と言う現実を、頭のなかで否定したところで、戦争がなくなるわけがない。
愛する気持ちと、憎む気持ちは表裏一体のものだと何故分らない。概念を否定したところで、現実がなくなるわけではない。いくら戦争を否定したところで、戦争がなくなるはずもない。
現実の戦争を知らない子供たちにとって、戦争の残酷さを教える役割を果たした表題の漫画の意義を否定する気はありません。しかし、私としては、この漫画を反戦漫画としてではなく、人間の心の醜さ、現実に向き合う厳しさ、残酷な現実から逃げることなく堂々と必死で生きることを描いた人間ドラマとして読んで欲しいと思います。
このマンガも子供にはトラウマかも…
原爆投下直後の描写は夢に出たかも…
戦争の悲惨さより、ただ生理的恐浮轤黷スだけの記憶が…
子供にはきつかったです、はい。