ヌマンタの書斎

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ヨーロッパの失墜 1

2021-07-15 12:36:00 | 日記
私には若干だが、ドイツ製品信仰がある。

その堅牢さ、使いやすさ、いささか武骨なデザインにほれ込んでいる。多分、その原点は小学生の頃から中学生まで続いたプラモデル造りにある。

私が主に作ったプラモデルは、第二次世界大戦前後の戦闘機、戦車、戦艦などである。いろいろと作ったが、一番好きだったのは、やはり旧ドイツ軍の兵器である。

陸の王者ティーゲル戦車、ドーバー海峡を舞う死の使いフォッケウルフ戦闘機、大西洋から地中海まで活躍した海の狼Uボート潜水艦。ちなみにプラモデル自体は日本メーカーのものが一番出来が良かった。

そりゃ、アメリカのマスタング戦闘機や、イギリスのスピットファイヤー戦闘機を否定する気はない。でも、やっぱりドイツ製が良かった。

プラモデル造りを止めてからは、少し忘れていた。しかし、大学時代にやっていたホテルの駐車場の係員のバイト経験が、再び私のドイツ製品に対する信仰を呼び戻した。

私はここで初めて外車を運転した。なかでもメルセデェス・ベンツの使い勝手の良さに驚嘆した。狭い車庫入れなのに、一回り小型のトヨタ・クラウンよりも取り回しが楽だった。またドアの開け閉め時の重厚感が、たまらなく贅沢に思えた。

いつかはベンツに乗ってみたい、そう考えていた青年だった。

やがて社会人になったが、難病の為の長期療養と税理士試験でベンツへの夢なんて忘れてた。だが病状も好転し、税理士試験も終わりが見えてきたので、リハビリも兼ねてアルバイトをすることにした。

バイト先は、都心にあるBMW車の専門ディーラーである。そこの夜間警備員をすることになった。見廻りと鍵の確認、深夜の来客対応などがあったが、警備員室には机とベッドがあり、勉強しながら出来るのが魅力だった。

当時はバブル期であり、ベンツよりも華麗なイメージがあるBMW車もよく売れていた。同時に、よく壊れていた。昼間は知らないが、夜間に大型トラックに乗せられた故障したBMW車が届けられることは良くあった。

私はゲートを開けて、受領印をサインするだけだが、偶に残業しているメンテナンス部の社員が居たので、その手伝いをすることもあった。残業する人は、大概決まっていたので、割と仲良くなった。

初老に差し鰍ゥった男性なのだが、一見しただけで工場員だと分る風情であった。そのディーラーはお洒落な街の片隅にあったので、営業の社員はそれなりに格好いい人が多かったから、機械油に汚れた工員姿は一際目立った。

けっこう気難しい人なのだが、私が暇な時によく工場へ行き作業の現場を興味深げに見ていたので、そんな私を珍しがっていた。私は昔から工事現場とか、工場の作業場を見るのが好きな子供だった。

錆と埃だらけの機械が、職人の手により磨かれていき、組み立てられて完成して動き出す様子は何度見ても飽きない。それは見る人には分かるらしく、私は邪険にされることなく、気軽に工場に入れてもらえた。

そこで気付いたのだが、売れ上げナンバーワンのやり手の営業マンでも、そのベテランの工場員には腰が低かった。私は後日知ったのだが、この工場員は日本国内切っての腕利きのメカニックでもあった。

あれは大晦日の夜だった。一人暮らしの私にとって大晦日は退屈な夜に過ぎず、バイト代が跳ね上がるのを知っていたので、喜んでシフトに入った。ちなみに紅白も除夜の鐘も、まったく興味がなく、大概は読書で過ごしていた。

大晦日なんて暇だろうと思ったら、案外と故障した車が何度も運ばれてくるのには閉口した。何故だか知らぬが、件の腕利きメカニックの方も自主残業していた。訊いたら、家にいてもすることないから、工場で待機しているそうだ。

待機する? 訝しく思ったので聞いたら、正月前後は故障したBMW車がよく運ばれてくるからだそうだ。たしかに、何時もの晩よりも忙しかった。ようやく静かになった深夜、近所のお寺の除夜の鐘を聞きながら、メカニックの方と缶ビールで乾杯した。

そこで聞かされた話は、私にとってけっこう衝撃的であった。
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