ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

分かれ道

2022-03-25 11:54:00 | 日記
他人を励ますのは難しい。

その点、私は恵まれていたのだと思い出した。

2月末に某大学病院に入院したのだが、ここはかつて新社会人の頃に長期入院をした病院でもある。訳も分からず地元の病院から転院という形で移ってきた。そして、自分の病気を碌に理解せぬまま透析室へ運ばれる毎日。

教わるまでもなく、私は人生の扉が閉じていくことを呆然と自覚していた。もう今までの生活は戻ってこないと、静かに、でも着々と理解しつつあった。本来ならば泣き騒いでも良かったように思うが、その時は茫然自失の状態で愛想笑いを浮かべるのが精一杯であった。

心配されるのも、同情されるのも嫌だった。一番嫌だったのは「頑張れ」と中身のない励ましをされることだった。いったい何を頑張るのだ?薬を多量に飲むことか、それとも大人しく寝ていることか?

でも、その憤りを顔表に出さない程度の自制心はあった。悪気がないのが分かっていた為でもあるし、自分自身具体的にどう頑張るのかも分からないのに怒るのも理不尽だと思ったからだ。

私はけっこう意地っ張りで見栄っ張りなようで、病気の苦しさを他人に知らせることが苦手であった。だが、分る人には分かるのであろう。

その頃、私が居た病室は本来4人部屋であった。だが重篤な患者を入れる関係で、病室内に医療機器が幾つも置かれていた為、実質2人部屋であった。この部屋の別名が「天国に一番近い部屋」であったことは当時は知らなかった。

でも、私がその部屋に居た2か月あまりで無事に他の部屋に移ったのは2人だけで、他の人は静かに居なくなっていた。朝、ベッドの周りのカーテンを開けると、隣のベッドが空っぽになっていたことが良くあった。看護婦さんに訊いても「引越ししたのよ」と軽くいなされた。

私は動けないながらも耳を澄ませて聞いていたから、深夜に医師たちが緊張感を伴う声で動き回っていたことに気が付いていた。どこに引っ越したのかぐらいは、もう気が付いていた。そして、自分がそうならないことを祈っていた。

寝たきりの生活が2か月ほど続き、遂にこの先腎臓の機能は回復しないと判断され、シャントという透析用の血管を作る手術も既に予約済みであった。私は二十代の若さで、週に3日ほど透析を受けねば生きていけない身体になったことを適当に受け止めていた。

適当・・・そうとしか言いようがない。当時の私は理屈は受け入れていたが、その中身を真剣に受け止めることが出来なかった。薄ら笑いを浮かべながら、医師の説明を聞いていたと思う。

その時、私の隣のベッドにいた方がAさんでした。ほとんど口をきいたことがない方でしたが、私が投げやりな態度でシャント手術の説明を聞いていたのに気が付いていたようです。

その直後だったと思う。Aさんの方から話しかけてきた。「年寄りの昔語りに付き合ってくれ、退屈なんじゃ」と前置きして話し出したのは、Aさんの半生でした。

戦争中、アメリカに居て収容所暮らしの後、アメリカ駐在の商社員として働いていたAさんは、ある日胸が苦しくて唐黷ス。アメリカの病院で当時、最新のペースメーカーを埋め込む手術を受けたが、その結果商社員としては出世街道を外れてしまった。

そこで一念発起して独立して会社を作り、自分の病気に合わせた働き方が出来るようにして20年頑張ってきた。ただ年齢を重ねるたび、老後をアメリカの地で暮らすことに不安を感じた。そこで会社を売り払い、日本に帰国して不動産運用会社を作って、病気の身体でも稼げるようにしてきた。

おかげで、今回も半年近い入院だけど、金には困らないと笑っていた。それは羨ましいですねと答えると、「ワシは君の若さが羨ましい」と返された。そのくらい若さがあれば、もっと稼げたはずだよなァとぼやいていた。

私はどう返していいか分からず、英語がペラペラなんですねと言うと、こればっかりは人一倍努力したからねと言っていた。事実、Aさんは毎朝、英字新聞を読み、英語の中波放送を欠かさず聴いていることには気が付いていた。

ちなみに今回の長期入院は心臓ではなく、他の疾患だそうで、数日後には一般病棟に引っ越していった。その時はよく分からなかったが、社会人としての最初の一歩を踏みちがえた私にとって、Aさんの話は強く記憶に残った。

後年、私が税理士の資格を取り、自分の事務所を持とうと考えた時、最初に脳裏に浮かんだのはAさんの姿であった。今にして思うと、Aさんは生きることに投げやりになっていた私を励まそうとしていたのだろう。

ところでシャント手術だが、これは受けずに済んだ。手術予定日の前の晩、忘れかけていた尿意を覚えて看護婦さんを呼んで、尿瓶を用意してもらったら、本当に尿が出た。ほんの少量だったけど、たしかに出た。

看護婦さんが嬉しそうにナースステーションに駆け戻っていったのを覚えている。その日の深夜、主治医の先生が来て、シャント手術は中止すると教えてくれた。その時、私がどんな顔をしていたのか思い出せないが、薄ら笑いを消していたと思う。

それから数週間後には尿は普通に出るようになり、透析も中止となった。内心すごく嬉しかったが、その時は既に一般病棟に移っており、周囲に透析患者が多数いたため、その喜びを表に出さないよう気を遣った。

奇跡といったら大げさだろうが、レアケースなのは確かだと思う。実際、私はN教授(当時は講師だった)の担当患者になったのは、このことが大きいはずで、後には医学論文に掲載されたと聞いている。

先月、久々にその大学病院に入院した時、私のいた循環器病棟から、昔私が二か月を過ごしたあの「天国に一番近い部屋」が覗けた。思い出したのは、あのAさんのことだ。

私にとって、あのAさんとの邂逅は、人生の分かれ道であったのだと今にして痛切に思います。私はけっこう恵まれていたのだと云わざるを得ませんね。
コメント (4)
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