ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

プロレスってさ 三沢光晴

2017-08-12 15:26:00 | スポーツ

リングの上で死んだプロレスラー、それが三沢光晴であった。

でも誤解してはいけない。三沢はリングの上で死ぬことを自ら望んだ訳ではない。あれは事故であった。不幸で悲劇的な事故であった。

急角度から落下するバックドロップを受けた三沢選手は、その場で動かなくなり、病院で死亡が確認された。悪夢であった。よく、受け身の上手い選手だと云われていたが、長年のダメージの蓄積が彼の体をボロボロにしてしまい、遂に限界点を超えてしまったのではないかと考えている。

彼は昔から体を張ったプロレスをやっていた。私が彼の試合を初めて見たのは、全日本の前座の試合であった。まだ私が十代の頃だが、はっきり言って新日ファンの私であった。

しかし、だからといって全日をバカにしていた訳ではない。前座の試合が凄いとプロレス仲間から聞いていたからだ。多分、立川か八王子での地方興行の試合であったと思う。お財布が寂しかった私には、地方の試合しか観る金がなかった。

そこで見たのが、まだ若手の前座レスラーであった三沢選手と、その先輩にあたる越中詩郎選手の激しい試合であった。全日本のメインを張るジャイアント馬場や、ジャンボ鶴田の試合は、割とゆったりとしている。

だが、前座の試合は新日並に激しくスピーディな展開であり、当時この越中vs三沢の試合はプロレスファンの間では、けっこう話題になっていた。そして、その噂は、私の眼から見ても間違いないものであった。これだけ激しく、闘魂あふれる試合を前座で観れることは稀であったと思う。

この二人、いつかはメインを張るぞとの予感を感じた。その後、二人は海外修行に行くのだが、帰国後は道を分かつことなる。越中選手は新日本プロレスへ移籍し、そこで旧UWF勢との試合で名を上げる。

一方、三沢選手は二代目タイガーマスクとしてリングに上がることを強要された。これは不運であったと思う。なぜかといえば、どうしても初代ダイガーマスクと比較されてしまうからだ。なにせ、初代はあの佐山である。天才としか言いようがない異次元のプロレスラーであった。誰が二代目になっても、初代を超えることは出来なかったと断言できる。

律儀な三沢選手は馴れぬマスクを被って奮闘していたと思う。それでも、あれは失敗であったと私は思う。正直、失望を禁じ得なかった。

その三沢選手が再び輝きを取り戻したのは、全日四天王時代であった。マスクを脱いだ三沢選手は、小橋、田上、川田らと体を張った激しい試合を展開してファンを魅了した。

この頃からだと思う。三沢選手は受け身の上手いプロレスラーだと評判がたったのは。彼は相手の技を全身で受け止めて、プロレスラーの強さをアピールしてみせた。


当時、全日本プロレスは馬場の高齢化、鶴田の病気療養に加え、アメリカのケーブルTV主導のプロレス人気で、人気外人プロレスラーを招聘できなくなった危機の時代であった。だからこそ、これまで中堅に甘んじていたレスラーたちが踏ん張った。

三沢はその象徴であったと思う。だが、あまりに激し過ぎるプロレスは、非難を浴びることもあった。ルー・テーズは「タフネス・コンテスト」と呼び、その中身のなさを警告した。グランドレスリングの攻防がなく、ただ、技を打ちあうだけだとの非難もあった。

それでも、その身体を張った過酷なプロレスは、ファンから高い評価を受けたのも事実だ。猪木、馬場なきあとのプロレス界を支えたと評してもイイと思う。

しかし、その代償は残酷であった。特に四天王筆頭のャWションになった三沢選手が身体に受けたダメージは、彼の体に深く重く残ってしまった。このことが、あの死亡試合で証明されてしまったのだ。

プロレスを八百長とか、ウソ試合などと馬鹿にする輩は、この現実を直視しろと言いたい。これほどまでに身体を張ったスメ[ツが他にあるか、と。

まぁ、私自身はプロレスをスメ[ツだとは思っていないのですが、あの体を張った命がけの演技をバカにする人を許せなく思う程度にはプロレスが好きでした。

実は三沢選手は私と同じ年の生まれ。それなのに46歳の若さで亡くなってしまったことには、忸怩たる思いを拭いきれません。

コメント (2)
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