ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

フリーソロ

2012-03-15 13:03:00 | スポーツ

素人の勘違いって怖い。

私の事務所では、常時FMラジオが流れている。Jウェーブばかりだが、たまにはNHKのクラシックを聴いていることもある。休日、一人で仕事をしているときはジャズやJポップのCDを聴くことだってある。

でも大半はやはりラジオ番組を聴く。ニュースや天気予報などもラジオだけで済ませている。その日も、いつものようにDJのお喋りに耳を傾けながら、伝票を打っていた。

たまたまDJがリスナーからのメールを読んでいて、その内容をぼんやりと聴いていたら、その内容に仰天した。その日のお題は、今やりたいスポーツというものであった。

そのお題に対してメールを送ってきたリスナーは「私は映画ミッション・インポッシブルの冒頭で、トム・クルーズがフリークライミングをやっているシーンに憧れているので、断然フリークライミングをやりたいです」と書いてきた。

それを淡々と読み上げ、あれは凄いですよねぇ、などと相槌を打つDJの声に、思わず伝票を打つ手が止まった。

おいおいおい、いいのかよ!

道具に頼らずに、自分の手足の力だけで岩壁を登ることをフリークライミングという。だが、通常のフリークライミングは、危険防止のためにザイルを張って安全を確保して行う。登るためではなく、墜ちた時のための安全確保のためには、相当な努力を払うのがフリークライミングなのだ。

だから、かなりの量の道具を使うことになる。室内の人口壁ならいざしらず、山で本格的にフリークライミングをやるとなると、まず50メートルのザイルを2本。岩に打ち込む止め具(ハーケンなど)を数十枚、そのハーケンとザイルを繋ぐカラピナと呼ばれる金属の輪だけでも十数本は最低必要だ。

それ以外にも、汗を止める滑り止めの粉(チョークと呼ばれる)や、ザイルを滑らかに流すためのシュリンゲと呼ばれる平紐も使う。クライミング専用の靴は当然だが、ザイルと自身とをつなぐハーネスも必要不可欠だ。

まだまだ道具はあるが、他にも水や携行食だって必要だ。フリークライミングは自らの手足で登るのは確かだが、そのためにはかなりの量の道具が必要なのだ。

当たり前だが、自分の安全は自らの責任で確保する。それが山での最低限の義務でもある。フリークライミングは難しいルートを、自らの手足の力だけで登ることに意義を見出す。それゆえ、何度も墜落して、そのたびごとに下まで降りて再挑戦する。墜ちることを前提にしているがゆえに、安全確保のためのザイルは欠かせない。

だが、トム・クルーズが映画の冒頭で見せるクライミングには、クライミングシューズとチョーク以外の道具は見当たらない。

あれは、フリークライミングの異端、あるいは最北端とまで言われるフリーソロと呼ばれるものだ。

フリーソロとは、最低限の道具(靴と滑り止め)しか使わない究極のスメ[ツと呼ばれている。ザイルで安全が確保されていないので、墜ちたら下まで落ちるしかない。まさに自殺行為といってもいい。

だから通常、フリーソロは易しいルートでしか行われない。しかも、何度も登ったことがあるルートでしか行わないのが不文律でもある。そうでなければ、危なすぎる。

私自身、やむを得ない状況でフリーソロをやったことがあるので分るが、あれは恐怖そのものだ。何度も登ったルートであり、しかもデシマルで5,7程度の初心者向けルートであるにも関らず、恐怖感を抑えるのは困難だった。

ザイルで確保されていれば、簡単にスイスイ登れるルートなのに、ザイルがないというだけで恐怖が手足を凍らせる。単純に考えれば、ザイルの重さもなく、ハーケンやカラピナなどの装備がないだけ軽量化されているので、むしろ楽に登れるはずだ。

しかし、現実には落下の恐怖が手足を縛る。フリーソロは恐怖との戦いだ。だが、同時に麻薬的悦楽もある。恐怖心を抑え込み、ただ登ることにのみ極度に集中すると、脳内麻薬が発生するらしく、異様な陶酔感に囚われる。

ランナーズ・ハイと呼ばれる現象に近いと思う。登り切った時の達成感よりも、登っている最中の異様なコンセントレーション(集中)による陶酔感は、異次元の感覚だと思う。

だからだと思うが、未だにフリーソロをやる人は絶えない。あまりに危険すぎるゆえに、公式に教えるコーチはいないと思うし、むしろ禁止するよう慫慂する人の方が多い。

私はフリーソロをスポーツだと考えていない。あれは8千メートル級の高山を無酸素、単独で厳冬期に登るアルパイン・ソロと並んで死ぬことを前提にした冒険だと思う。

やるのは自由だ。だが、やれるものは相当高レベルなエキスパートに限られるべきだ。間違っても、安易に宣伝していいものではない。死ぬ覚悟がない人がやるべきでない極限の冒険だと思う。

フリークライミングは安全なスメ[ツだと思うが、その安全を確保するための技術や知識は、多くの犠牲のもとに育まれたものだ。その努力をないがしろにするフリーソロは、フリークライミングの対極にあるものだと知って欲しいです。

コメント (2)
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