ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

首切り自主事件に思うこと

2007-05-23 09:23:23 | 社会・政治・一般
嫌な事件だと思う。自分の母親を惨殺して首を切り取り、ネットカフェに立ち寄ってから、警察に自主したという。

精神に異常をきたしているとしか言うようがない。たしか社会心理学の言葉で境界線上の異常者と評していた気がする。一見して健常者に見え、行動も普通に見えるが、異常と正常の境界線がずれていて、ふとしたことを契機に犯罪を引き起こすそうだ。心理学が発達しているアメリカで報告されることが多い。もっといえば、先進国でしか見られない異常者でもある。

人間という生物は、集団を造って生きる。それもかなり大規模な集団(社会)を造る。生きていく上で、その集団(社会)における位置づけが極めて重要な問題となるのは人間に限らず、サルやイルカなどの知能の高い生物でも同様だ。

人間の場合、産業革命以降社会の役割の細分化と多層化が進み、社会における自分の位置づけが複雑化した。昔は単純だったと断言していい。農家の子供は農夫になるし、狩人の子は狩人で、貴族は貴族しかありえなかった。固定して退屈な社会かもしれないが、安定した社会でもあった。

しかし、技術の進歩が親の仕事を承継するだけでは生きていけない現実を生み出した。高度化したがゆえに、細分化した仕事が、自分の社会における位置づけを不明確なものとした。どんな仕事にも就けるはずの自由が、どの仕事に就けるか分からない不自由でもあることに気づかされた。なによりも、自分の存在が社会において、いかなる意義があるのか確信が持てなくなった。

親は子に何を教えたら良いか分からずに、学校へ押し付けてしまう。学校は、受験の知識を教えても、生きる知恵は教えてくれない。子は親への敬意を失い、甘え、すがり、やがては親にすべてを押し付ける。いつまでも子離れできない親は、それを助長してしまい、親にたかる子供を育ててしまう。

優しい笑顔を浮かべて、話せば分かる、分かり合えると嘘を教える、善良な大人たち。子供が大人になれば、嫌でもその嘘に気がつく。騙されたと憤る青年たちが、大人を尊敬しないのは必然の結果だ。

なぜ、話し合っても、分かり合えないのか?私は前提が間違っていると思う。世の中、すべてが理路整然と造られているわけではない。長年の慣習としがらみで、納得できない矛盾した仕組みが世に蔓延しているのが現実。理屈どおりに作られたわけではないのだから、いくら話し合っても、分かり合える道理が無い。

民主主義なんてものは、数が多いほうの意見を正しいと「みなして」しまう方便に過ぎない。正しさなんて、その程度のものだと思う。いくら論理的に正しい考えも、それを実行できる現実的な力がなくては、餅に描いた絵に過ぎなくなる。

何故、人を殺してはイケナイのか。それすら分からぬ頭のイイ馬鹿が蔓延している。それを必死になって、論理的に説明しようとする善人がいる。・・・馬鹿らしい、徒労感を覚える。

駄目なものは駄目!それで十分。
コメント (5)
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