ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

談合摘発に思う事

2006-12-12 15:54:08 | 社会・政治・一般
最近、やたらと談合の摘発が相次いでいる。

いつからだろう、談合が拝金主義者の巣窟となってしまったのは。

実のところ、私は必ずしも談合には否定的ではない。道路や橋などの公共施設を作る公共事業では、赤字は有り得ないとされている。しかし、自然を相手にした仕事ゆえ、どうしても不確定要素(天候や災害等)があり、時としては赤字の工事も生じてしまう。

予算制をとる公共事業では、追加の出費は有り得ない。しかし、いい仕事をしようとして、不可抗力の要因で赤字になったら、施行業者が気の毒だ。そのため、談合が生まれ、赤字の業者に次の仕事を回して採算をとれるように仕組む。

本来の談合は、いい仕事をするために、いいものを作るために生まれた。そのはずだった・・・

しかし、談合の仕組みは必然的に利権を生んだ。政治家や退職官僚たちも、その利権に食い込みだし、いつしか利益配分のための談合の性格を帯びてきた。

それでも、バブル経済の前までは、それなりに談合にも価値はあったと思う。その価値を支えていたのは、「いい物をつくりたい」「立派な工事をしたい」という仕事人としての矜持であり、倫理であったと思う。だからこそ、悪いと思いつつも談合は止められなかった。

しかし、バブル経済は拝金主義を培い、バブル崩壊は生き残るために談合にすがりつく拝金主義者を正当化した。「もの造り」よりも「金造り」を讃える風潮が蔓延りだした。

生き残るために、公共事業にすがりつき、原材料を削り、人件費を削り、差益を出す。そうして公共事業を受注するための特別経費(要するに贈賄資金)を回収する。

もはや、私も談合を肯定することは難しい。公共事業には、お金を民間市場に還流する機能があるのは当然だと思う。しかし、その前提条件は「立派な公共施設をつくること」であるはずだ。この大前提を疎かにした談合は、断固排除してしかるべき。

ちなみに想像ですが、相次ぐ談合摘発の背後には、相当数の告発、密告があると思います。無視できないほど、ひどいが故の密告ではないかと推測しています。
コメント
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