そんな心算はなかった。
小学生の頃、一時期ボーイスカウトの年少組であるカブスカウトに入っていた。私はここで初めてボランティア的なことをする楽しみを知った。その日は地域のゴミ清掃をすることになっていた。
都会とはいえ、まだまだ開発に取り残された原っぱや、林はけっこうある地域であった。その草むら茫々の中に入り込んで、捨てられているゴミを集めてくるのが、その日の役割であった。
同じ班の仲間が大声を上げるので、なにかと思い行ってみると、そこには大きな犬の死骸が捨て置いてあった。ハエや蛆が気持ち悪い以上に、悪臭が凄かった。少し前に飼っていた犬との別れを経験していた私には、とても他人事には思えず、大人の人たちと相談して、穴を掘って埋めてあげた。
イイことをしたというよりも、哀しい思いの方が強く、その後も時折訪れては花を添えたりしていた。その後、しばらくして引っ越すことになり、私は退団してしまった。引越先にもボーイスカウトはあったが、当時いろいろと荒れていた私は、入り直す気はなく、元のカブスカウトの仲間とも疎遠になっていった。
だが、林のなかに埋めた犬のことだけは忘れずに覚えていた。自転車を漕ぎ漕ぎ一時間、わざわざやってきて花を添えての墓参りは時々やっていた。多分、別れた愛犬ルルのことが忘れがたく、最期まで面倒を看れなかったことを悔いていたからだと思う。
数年たって中学に進学した頃だと思う。当時、都内の古本屋を巡って安い文庫本を買い漁っていたので、そのついでに件の林のなかに寄ってみた。すると、私が積んでおいた石は崩され、ゴミが飛散していた。
残念に思いゴミを片付けると同時に、ちょっと思いついて雑草を人型になるように抜いて、その脇にわざとらしく石を積み上げ、ついでに花を添えて置いた。これなら荒らされることはないだろう。
その後、すっかり忘れてしまい、高校を卒業して再び引っ越すことになり、偶然だがその林の隣町に移った。宅地開発が進み、ずいぶんと風景が変わっており、件の林もだいぶ小さくなったようだ。
犬を埋めたことを思い出して、林の中に入り込んでみて仰天した。なんと小さいが赤い社が置かれており、木のベンチまで据え置かれてあった。そのベンチにお年寄りが休んでいたので、思い切って訪ねてみた。ここは、何を祭っているのですか?と。
するとお年寄りは、昔ここで行き倒れた人がおったらしく、夜な夜な人魂が舞うので鎮魂のために地主さんが社を設けたと言う。
話しを聞きながら、顔が引きつる思いであった。昔っていつよ、行き倒れって何の話だよ。思い当たる節がありすぎて冷や汗まで出てきた。とりあえず、社にお参りというか、一礼して逃げるように立ち去った。
人魂は知らんが、人型になるよう雑草を抜いておいたのは他でもない私の仕業だ。まさか、あんなことになっていたなんて知らなかった。今さら真相をばらすのも気が引けて、以来そのままになっている。
まァ、考えようによっては、捨て置かれた犬の鎮魂にはいいのかもしれないが、騙したようでなんか後ろめたい。でも、今さらの話なので黙ったままだ。幸い、その林は十年くらい前に更地にされて今は高層マンションが建っている。
でも、入り口の脇に小さな赤い社があるんだよね。まさかと思うけど、さすがに確認する気にもなれない。ちょっとした悪戯心が、あんなことになるなんて思わなかったぞ。
あの日もこんな眩しいくらいの月夜だった。
大学を卒業して、新社会人として働く日々は辛かった。上司の汚れ仕事を押し付けられ、お局OLからはいびられ、毎日残業続き。
今日も11時まで仕事で、一杯やる時間さえなく家に帰る。実家なので家事に追われずに済むのが救いだった。でも、親とも顔を合わせるのは朝だけ。
こんな北風が冷たい夜は、誰かと和やかに笑い合いたいよ。満月には少し足りないお月様が、そんな気弱なボクを笑っている気がしたぐらい。
その時、足元で「ニャー」と小さな猫の鳴き声がした。眩しいほどの月に照らされた路地の片隅に、小さなダンボールの箱があり、覗いてみたら一匹の子猫がいた。
弱々しいほどの声で懸命に鳴いていたが、月を見上げるために立ち止まらなかったら聴こえなかったかもしれない。捨て猫らしい、しかも最後まで拾われなかったらしく、他にも数匹いたようだが、今はその子猫だけが片隅に縮こまっていた。
ちょっと毛並みがボロボロで、しかも痩せすぎなので残ってしまったらしい。一人、最後まで社内で残業していた我が身を思い出して、知らず内に手を伸ばして抱きかかえていた。儚いほどの温もりだが、心が暖かくなった気がした。
そのまま抱きかかえて家に帰り、ボクは自分の部屋の片隅に空箱を置いて、そこに子猫を飼うことに決めた。台所でミルクを人肌に温めて、小皿に入れてあげると、懸命に舐めている。
もう大丈夫、お前は今日からうちの子さ。ボクの言うことが分るのか、子猫は安心したようにゴロゴロと咽喉を鳴らし、直に寝入ってしまった。
気疲れで帰宅した夜は、なかなか寝付けないものだが、優しい気持ちになれた今夜はボクもすぐに眠れた。朝の陽射しに気がつくより、子猫の鳴き声で目を覚ましたことは、今もよく覚えている。
朝になって猫の鳴き声に気がついた父母を説得するのに苦労したが、子猫が我が家の家族として受け入れられるのに時間はかからなかった。たぶん、両親もボクが家にいない時間の多さを持て余していたのだと思うな。
あれから十数年がたった。子猫はまんまるの猫に育ったが、臆病で外へ出るのも厭う引きこもり猫になってしまった。ボクはといえば、相変わらず仕事が忙しく家庭を持つ暇も無く、今日も深夜の帰宅だった。
家に帰ると、猫が玄関先で待っていた。珍しいなと思いつつ、ただいまと声をかけるとニャーと小さく返事する。元気ないなと思い、抱き上げると甘えるように丸くなった。
そのまま台所へ行き、猫をかかえたまま冷蔵庫を開けてビールを取り出す。缶を開けようと猫を膝の上に降ろそうとして気がついた。反応がない、いや、それどころか動かない。
慌てて胸に手をあてるが、心音が聞こえない。おい、起きろよ、鳴いてくれよ。異変に気がついて起きて来た母が見たのは、台所で猫を抱えたまま立ち尽くしてボロボロと涙を流して泣いているボクだった。
ボクが拾ってきた猫だから、ボクの手のなかで逝きたかったのかもしれない。そう思うことにしている。
冷たい月夜の夜だった。月を見上げると、今もボクはあのぬくもりを思い出さずにはいられないよ。ボクに暖かい安らぎを与えてくれてありがとう。
あれは、高校2年の秋だった。WV部の合宿で裏丹沢に登った時のことだ。登山客で賑やかな南側と異なり、交通の便の悪い丹沢の北側は人気が少ない。道志山塊の麓側は過疎化が進行しており、バスは一日に10本に満たない。
その秋は冬の訪れが早かったようで、北斜面は既に落葉で埋まっていた。傾斜はそれほどでもないが、落ち葉の下の霜柱が溶け出して、足を踏み出す度に滑るのには閉口した。
先頭を任された私は、なるべく歩きやすい道を探しつつ登るよう努めた。ふと気がついたら、登山道を外れて獣道に入り込んでいた。
野生の動物は、人間が築いた登山道も使うが、目的が違うので動物専用の道を歩むことが多い。長年、山登りをしていると、その違いは明白だ。まず、土の固さが違う。やはり人間の使う道は踏み固められ整備されている。また動物はせいぜい50センチから1メートルの高さがあればいいので、獣道は草木の茂みにトンネルを作り上げる。丁度、腰から上が草木にぶつかり、下半身がぶつからない道なら、ほぼ獣道とみて間違いない。
高さ2メートルほどのススキの生茂る獣道は、上半身がススキに邪魔されるも、下は歩きやすく、ついつい入り込んでしまったようだ。読図をすると、すぐ近くの稜線まで突き進めば、再び登山道に当たるはずなので、休憩をとり上級生が偵察に行くこととなった。
私もリーダーに指示された獣道の一つを、軽快に登っていった。ススキの茂みの下に出来た獣道のトンネルは快適で、その大きさからして猪か鹿が利用しているようだ。
ふと気配を感じた。
獣道ではしばしば野生動物と遭遇することがある。鹿ならいいが、猪はやばいと思い足を止め、様子を窺う。妙だった。獣道にしては、やけに踏み固められている。糞も少ないし、なにより獣の匂いがしない。
気配に敵意が混じっている気がした。獣じゃない・・・あいつらは、まず驚いて突進することはあっても敵意はみせない。野犬ならあり得るが、だとしたら警戒の唸り声をあげるはず。
多分、ススキの藪の十数メートル向こうだと感じた。しばらく黙したまま対峙する羽目に陥った。まずいことに、ザックを休憩地点に置いて空身できたため、なにも道具を持ってない。ベルトに差したカラピナを取り出して、メリケンサック代わりに握り締めた。緊張から、じんわり脂汗が染み出てくる。
突然、背後から声がした「先輩、道ありました~。バックしてください」。後輩が近づいてきた。私は大声で返事して、音をたてて後ずさりした。
気配は消えうせていた。
その後は、何事もなく登山は進み、夕方には表丹沢に下山した。帰りの電車のなかで、先輩に藪のなかでの出来事を話した。リーダーとして最後尾を歩いていた先輩は、俺も視線を感じたよと小声で囁いた。もしかしたら、やばい人間かもなと呟いた。
あ!と思った。噂を耳にしたことがある。浅間山で繰り広げられた日本連合赤軍のリンチ事件以降、都会に居場所をなくした過激派が、山中に隠れているとの話をだ。裏丹沢は登山者も少なく、人里からも適度に離れている。隠れ場所には格好だと思う。
何度となく野生動物には遭遇しているが、あのような妙な気配を感じたのは、あの時一度きりだ。その後のことは不明だが、なんとも気持ちの悪い遭遇でした。日本の山で浮「動物といえば、熊、サル、猪、野犬でしょうが、やっぱり人間が一番怖い。環境破壊猛獣でもある人間こそが、一番恐ろしい生き物なのでしょうね。
涙も枯れ果てた目に映ったのは、腹を空かせた4人の子供たちだった。「生きなければ、働かねば、誰がこの子たちを・・・」工場主の紹介もあり、工場から出る廃品の回収で、日々の生活を養うこととなった。コメツキバッタのように頭を下げ、廃品を貰いうけ、それを廃品業者へ卸す毎日。
汗と埃で自慢の黒髪は、くすんだ灰色となり、廃品よりも疲れた身体に鞭打ち、日々の暮らしを賄う毎日だった。楽しみといえば、子供達の笑顔と安タバコをくゆらすだけ。それでも夜になり子供達が寝付くと、声を押し殺して泣くのであった。
いつしか、上3人の女の子たちは家事を手伝うようになり、リアカーは軽トラックになり、少しは暮らしも上向いた。ところが石油ショックとやらで仕事は激減し、軽トラックのローンが重くのしかかる。中学を卒業した娘達が働くようになり、なんとか夜逃げは避けられたが、末っ子が登校拒否になり、悩みの種は尽きない。
学校へろくに通わなかった末の子は、仕事につくでもなしブラブラしていたが、ある日派手な赤いリボンが不似合いな娘と恋に落ち、止めるのも聞かずに家を出た。目に入れても痛くないほど可愛がった末っ子だけに、さすがに失望したが、近所に住まいを構えた娘夫婦達に孫が産まれ、女の人生にもくつろぎが出てきた。
そんなある日の朝、女は血を吐いた。救急車で運ばれ入院した。診断は癌だった。レントゲンの図面を説明され、真っ黒になった肺の写真を他人事のように眺めていた。せめて自宅で死にたいと病院を抜け出したが、またも血を吐き、連れ戻された。
病室のベッドの脇の窓から見る冬の空は、青く澄み切っていた。思えば、スモッグで薄汚れた空しか見てなかった気がする。「もう、いいわ」と力なくつぶやき目を閉じた。辛く苦しい人生であった。もう終りにしてもいい。心残りは末っ子の行く末だが、それも致し方ないことかもしれない。薄れていく意識が、子供の歌声で引き戻された。
目を開けると、幼き末っ子の姿が見える。よく見ると、幼子を抱きかかえた末っ子が立ちすくんでいる。笑っているのか、泣いているのか。かすみがちの目には、よく見えなかったが、その腕に抱かれた幼子には、在りし日の末っ子の面影が濃いのだけは良く分かった。彼女の意識を引き戻したのは、その幼子の歌うクリスマス・ソングであった。女を悩ませ失望させた末っ子の、最後の親孝行だった。
すべての子供達が無事であることを知った女は、安心しきったのか、その日の夜には息を引き取った。末期癌の苦しみなど、どこにも見当たらない穏やかな死に顔であった。
葬儀の場には、どこからともなく無数の人が集まった。自分の食事を切り詰めても、困っている人に助けの手を差し伸べた、その女を慕ってのことだろう。4人の子供達ですら見知らぬ人の弔問は、途切れることなく夜更けまで続いた。
葬儀が終り、静寂を取り戻した自宅の一室で、遺影を前に末っ子は号泣した。涙を止めることなど、出来やしなかった。親孝行したい時には親はなし、さりとても墓石に毛布はかけられず。悩んでも、悔やんでも、想いは満たされず。ただ、ただ泣くしかなかった。
物質に当たった光が反射して、その光が目の網膜に映り、それを映像として脳が認識することで、「見る」という行為が成立します。見るという主体的な行為でありながら、実際は光を受容することで完了する行為なのです。
では、視線を感じる、とはいかなる現象なのか。目は光を受けて、それを映像化する入り口に過ぎず、「目」という器官は光を放つわけではない。それなのに、他人の視線を感じ取れるという現象には、未だに合理的な説明がなされていないのです。
実は先月、渋谷の人ごみのなかで偶然、17年ぶりに友人に再会しました。道端で携帯電話をかけている男性を見て、「あれ?}と思った瞬間にその男性が顔を上げ、「よう!」と挨拶してきたのがきっかけでした。私が視線を投げかけたのは、ほんの一瞬でしたが、彼はその視線を感じて、気が付いたそうです。
なにげない一瞬の視線を、相手に意識させるメカニズムはいかなるものなのか。安易にテレバシーなどと言われても納得できない。自慢じゃないが私は霊感に乏しく、勘は鈍い。それゆえ知識と論理に頼らざる得ない不器用な人間だ。
それでも経験的に、視線にはある種の力があることは否定しがたい。目力(めぢから)という言葉がある。舞台の世界では「目千両」なんて言い方もする。たしかに視線の強い人はいると思う。目の大きさではない。目が大きくても、ぼんやりした視線なら、その視線を感じることは少ない。目が小さくとも、強い視線を出す人は珍しくない。
やはり、目は何らかの光を放っているのだろうか?それとも何かを見るという意識が相手に伝わって、それが視線として感じるのだろうか。
日常的に、当たり前のことなのだが、じっくり考えると不思議なことって、意外とあるものです。それにしても忙しいと、ついつい余計な事を考えたがるのは、私の悪い癖だな。