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徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

♪ 梅は咲いたか

2017-01-16 17:52:00 | 音楽芸能
 例年この時期になると、わが家の梅の木もつぼみをつけるのだが、今年はまだついていない。5年程前、同じように全然つぼみがつかず、花が咲かなかった年があったが、今年もやはり咲かない年なのだろうか。
 そんなわけで、今日近くの寺社の梅の木を見て回った。往生院や岩立天神の梅の木は一輪、二輪、三輪と数えるほどだが、可愛い花びらを開いていた。連日の冷え込みの中にも確実に春はやって来ているようだ。
 さて、この季節になると決まって聴きたくなるのが端唄の「梅は咲いたか」。それも歌詞ではなく伴奏の「ミミレミミミ ミファミファミミ」という旋律。もう6年ほど前になるが、熊本城本丸御殿の「春の宴」で、5、6本の三味線が、この旋律を繰り返す場面を間近で聴いていて鳥肌がたつような感動を覚えたことがある。それ以来、春の唄といえば「梅は咲いたか」にとどめを刺す。


往生院の境内に咲く白梅



2015年2月11日 高橋稲荷神社・初午大祭  ザ・わらべ

2月4日は山鹿・日輪寺で「義士まつり」

2017-01-15 19:41:44 | 歴史
 先週の土曜時代劇「忠臣蔵の恋」(NHK総合)は、主君の仇討ちをなし遂げ、肥後熊本藩細川家に預けられていた十七人の赤穂浪士たちが幕府の命により切腹を遂げる話だった。赤穂浪士の実相をうかがい知る貴重な古文書「堀内伝右衛門覚書」を書き残した堀内伝右衛門も登場した。
 十七士の接待役だった伝右衛門は、義士たちを勇士と讃える藩主綱利公の意に従い、切腹までの50日間、義士たちを手厚くもてなし、心をかよわせ、義士からの聞き書きや書簡・詩歌を書き寄せた記録を残した。また伝右衛門は、義士たちの遺髪をもらい受け、郷里山鹿の堀内家の菩提寺・日輪寺に遺髪を葬り、義士たちの冥福を祈った。伝右衛門の死後も、彼の意を汲む人々に受け継がれ、義士たちを供養し続けてきた。戦後一時途絶えたものの、昭和41年に復活した「義士まつり」が毎年、義士たちの命日2月4日にしめやかに行われている。
 今年もその「義士まつり」が間もなくやって来る。


赤穂義士十七士の遺髪塔


さぬきうどんが全国的な名物になったわけ

2017-01-14 21:23:20 | 
 今夜のブラタモリは、四国・香川県で、テーマは「さぬきうどん」。なぜ香川で独特のうどんが誕生して全国的な名物になったのか?それは香川県の地形や地質が大きく関わっていたことがよくわかった。その理由や歴史がわかると「博多うどん」信奉者のタモリさんも「さぬきうどん」に脱帽せざるをえなかったようだ。
 9年前、家内と二人で四国をドライブ旅行したが、この番組でも紹介されたように高松から「こんぴら街道」を通って「こんぴらさん参り」をしたことを思い出した。「こんぴらさん参り」が旅行のメインイベントだったが、旭社まで登ったところで二人で「やった~!」と喜んだのもつかの間、ちょうど出会った団体さんの案内人から、本宮はもっと上にあることを知らされる。あぶない、あぶない。森の石松と同じ過ちを犯すところだった。おかげで本宮まで登りきり、家内の厄除け祈願も無事にすませた。
 結局、「さぬきうどん」を食べたのはこんぴらさんの門前町で食べた一回きりだったのは残念。その「こんぴらさん」が次回のブラタモリのテーマ。




歌会始

2017-01-13 17:52:11 | ニュース
 新春恒例の「歌会始」が、今日、皇居で行われた。
 今年の「歌会始」のお題は「野」だったが、天皇陛下を始め、皇族では皇太子妃雅子様と常陸宮妃華子様のお三方の歌に「那須野」が詠われていた。やはり那須御用邸でのご静養が印象深いのだろう。

★天皇陛下
 「邯鄲の 鳴く音聞かむと 那須の野に 集ひし夜を なつかしみ思ふ」

★皇太子妃雅子様
 「那須の野を 親子三人で 歩みつつ 吾子に教ふる 秋の花の名」

★常陸宮妃華子様
 「野を越えて 山道のぼり 見はるかす 那須野ヶ原に 霞たなびく」


 1983年3月から3年余り、僕は黒磯(現在の那須塩原市)に勤務したが、那須湯本の会社保養所管理も仕事の一つで、多い時は週3の頻度で那須湯本へ登った。那須御用邸は会社保養所からほど近い所にあり、もちろん入ることなどはできないが、とても身近に感じていた。保養所管理人の話では、昭和天皇はすぐそばまで散策して来られたことがあるという。
 今の季節はだいぶ雪も降り、那須街道も上の方はチェーン規制が行なわれていると思われるが、在勤時は湯本から少し登ったところにあったスキー場でスキーを楽しんだものだ。歌会始のニュースをテレビで見ながら、そんなことを懐かしく思い出していた。


那須御用邸(天皇陛下のお歌の季節はこんな感じ)


今の季節、那須山は雪に覆われている




京都にありましたか! ~檜垣嫗像~

2017-01-12 20:21:41 | 歴史
 今朝の熊日新聞に極めて興味深い記事が掲載されていた。
 平安時代の閨秀歌人・檜垣自作の像「檜垣嫗像」が京都で見つかったというのだ。詳しいことは下の記事のとおりだが、本当にホンモノなのだろうか。
 この像について江戸中期に書かれた橘南谿の「西遊記」は読んだことがある。また少し時代を下って、江戸後期に村尾正靖が書いた「嘉陵紀行」の中にも同じ内容が書かれているが、どうも昔の紀行ものはいま一つ信用できない。内容はともかく、紀行文と言っても本当に現地に行ったのだろうか。ただの伝聞を書いているのではないだろうか。そんな気がするのである。
 それはさておき、もし、今回出てきた「檜垣嫗像」がホンモノだとすると、謎に包まれた檜垣嫗の実像が少しでもわかる手がかりになりはしないか、そんなことを期待するのである。





蓮台寺に安置されている檜垣嫗像の模作



後に檜垣嫗が草庵を結んだという岩戸山の麓・山下庵の跡(向う側に見えるのが雲厳禅寺)

熊本城 と ザ・わらべ

2017-01-11 19:51:48 | 音楽芸能
 一昨日、熊本城二の丸広場で、はつ喜月若(くるみ)さんの成人式写真撮影の時、お母様が傷ついた天守閣の方を眺めながら「くるみは本当にいい時代に育った・・・」と、しみじみとおっしゃった。たしかにおっしゃるとおりで、ザ・わらべのリーダーとして活躍した約10年、熊本城は彼女と仲間たちにとっての大舞台でありOJTの場だった。熊本城は彼女たちにとっての学校だったと言っても過言ではない。もちろんそれはそういう場を提供し続けた中村花誠先生のご尽力によるものなのだが。
 ザ・わらべが初めて熊本城のイベントに登場したのは、足かけ3年にわたって繰り広げられた「熊本城築城400年祭」が終盤にさしかかった2008年1月のことである。「冬絵巻 迎春・華舞台」という舞台に登場している。さらに創作舞台「清正公 新春の言祝ぎ」では大勢のプロの役者などに混じって女芸人として登場した。この時、ザ・わらべの三人は小学5年と4年だった。
 そして、本格的に熊本城のイベントに登場し始めるのが2010年のこと。この年から本丸御殿がイベント会場として使用できることになり、「春の宴」や「秋夜の宴」などが頻繁に行われるようになった。そしてその多くでメインキャストとして成長していったのが、ザ・わらべだった。本丸御殿を始め、二の丸、奉行丸、竹の丸、そして城彩苑など城内の各所で踊りを披露した。
 2013年には舞踊団花童として法人化され、活躍の場も広がる一方だ。しかし、花童の骨格が形成されたのは熊本城内の各舞台で展開された花誠先生一流のOJTであることは間違いない。今、熊本城は熊本地震からの復旧・復興を目指してやっと踏み出したところだが、ザ・わらべが育ったような環境に戻るのはいったい何年先のことだろう。


▼2008年1月 二の丸「熊本城築城400年祭・創作舞台「清正公 新春の言祝ぎ」

※クリック拡大してご覧ください


▼2008年1月 奉行丸「熊本城築城400年祭「冬絵巻 迎春・華舞台」






▼2010年3月 長塀前「熊本城坪井川園遊会」
熊本市議会議員 田尻善裕先生よりお借りしました

▼2011年5月 本丸御殿「春の宴スペシャル」


▼2011年10月 竹の丸「くまもと秋のお城まつりオープニング」



▼2012年10月 奉行丸「秋夜の宴スペシャル」


▼2013年9月 本丸御殿「秋夜の宴」



▼2014年3月 二の丸「城下町くまもと時代絵巻エピローグ」



▼2015年3月 二の丸「くまもと春のお城まつり・くまもとをどり」







▼2012年3月 二の丸「くまもと春のお城まつり・くまもとをどり」


▼2012年5月 本丸御殿「春の宴千秋楽」

月若さんの成人式

2017-01-09 17:25:32 | 友人・知人
 日本舞踊家・はつ喜月若(元花童くるみ)さんが成人式を迎えました。熊本市の式典に参加した後、熊本城二の丸広場でご家族揃っての記念撮影。お祖母様やご両親も、20年の時の流れの早さを感じながらも喜び一杯の表情を見せておられました。
 中村花誠先生に締めていただいたという「のし帯」が月若さんの美しさを一層際立たせていました。式典会場でも異彩を放っていたらしく、注目の的だったそうです。







▼花童卒業公演の月若さん

東京オリンピックまであと3年・・・

2017-01-08 20:30:08 | スポーツ一般
 年が改まり、二度目の東京オリンピックまであと3年となった。
 下の文章は今から55年前、東京オリンピックを2年後に控えた昭和37年に西日本新聞に掲載された記事である。
 読んでみると現在とはだいぶ様子が違うようにも見える。いや、根本的には変わっていないこともあるようだ。


 水連内部で最も影が薄いのが水球だ。24年ぶりにローマ・オリンピックのヒノキ舞台に出た日本水球はついに1勝もあげることができず、予選リーグで失格している。もちろん長い球歴をもつ欧米諸国との中で日本水球は当然といっていいほどの力の差かも知れないが、水連ではこの惨敗ぶりから東京大会は細々と6位入賞をめざして選手強化対策に真剣に取り組みはじめた。そのホコ先を向けられるのが、まず高校水球界だ。京都の鴨沂高校、熊本の済々黌。大げさにいえば、この両校は日本の高校水球を二分する名門だ。いってみれば、現在日本水球界の母体を形成しているといっても過言ではあるまい。なかでも九州随一の名門、肥後の済々黌の存在は貴重だ。
 肥後の空にくっきり浮かぶ熊本城を目前にあおぐ済々黌は創立80年。輝かしい歴史と伝統の刻みあとが柱一本、一本にさえ感じられる。校門を通って校舎のすぐ右手に古びたプールがある。オフシーズンのいまは、プールの水面も静かな休息を保っている。済々黌水球部が誕生したのは終戦後の昭和21年、その後幾多の名選手がこのプールから生まれたのだ。「古いプールですが、いろいろと思い出がありますね」と12年間水球一筋に生きてきた平田水球部長は語る。昭和29年、第2回アジア大会には名キーパーとうたわれた古賀選手(早大)と田代選手(早大)の二人が初めて済々黌出身として全国に名を連ねた。翌30年、香港遠征水球チームの主力水垣、田久保、井上、宮村、内田の日大勢はすべて済々黌OBで固めた。このころから〝水球の済々黌〟は文字通り日本水球界の焦点になってきた。32、33年のパリの国際学生大会、第3回アジア大会と済々黌OBの活躍はめざましく、ローマ・オリンピックには宮村(日大OB)藤本(日大)柴田(日大)の三人を送っている。そして昨年藤本、柴田が国際学生大会の選抜メンバーに加わった。
 しかし名門済々黌を語るにはなんといっても過去の輝かしい記録を忘れてはなるまい。高校水球界の二大タイトルといわれる日本高校選手権、国体夏季大会では昨年の全国制覇で通算4回準優勝5回、国体は昨年強敵鴨沂高に惜敗してタイトル独占はできなかったが、優勝1回、準優勝5回の金字塔を築いている。さらに末弘杯高校水球では13年連続優勝と済々黌の独壇場だ。現在、水連が大学、高校40人のオリンピック候補選手をあげているが、この中に済々黌水球部で育った選手が9人いる。なかでも全国4名の高校生の候補選手のうち、済々黌の村山憲三選手は注目されている。1㍍75、73キロの体格は理想的な選手だ。テクニックもスプリントのよくきいた泳ぎも高校生ばなれをしたうまさをもっている。
 「村山君は高校に入って初めてボールを握ったんだが、素質は十分ですね。いま高校界のNO1ではないんですか。テクニックはずば抜けてうまい。オリンピック選手には絶対になりますよ」と同部長は村山選手の大成に太鼓判を押している。この村山選手のほか、オリンピックの候補選手にはならなかったが、高校界のキーパーでピカ一といわれる入江、大型ではないが典型的なスプリンター桑山、来シーズン主力選手の抜けたあとチームのカナメになる堀、坂本、豊永は将来楽しめる選手。
 小堀流踏水術は〝水球済々黌〟の極意という。水球はまず体を浮かすために足の使い方が基礎になるが、これにはバタ足、巻き足の二つの方法がある。巻き足はいまも肥後に伝わる小堀流踏水術に通ずるわけだ。
 済々黌水球部の伝統を一口にいえば、猛練習以外になにもない。これがすべてだ。だからといってスパルタ教育ではない。いやむしろ部員が過去の輝かしい伝統を自覚、猛練習を当然なものとして受け取っている。そしてこの空気の中から名選手が育っていったわけだ。
 「選手は一年中休みなしです。シーズンオフになれば陸上トレーニングで体をつくるし、シーズンのフタがあけば毎日3時から4、5時間の練習です。昨年は11月下旬まで水に入っていました。ことしは早々阿蘇で強化合宿ですよ。練習で一番困るのは、九州に格好の相手がいないことですね。だから夏休みは東京で毎年、大学生相手の合宿です」と同部長はいう。また同水球部の矢賀コーチは「練習はきついのがあたりまえです。私は基礎が第一だと思う。だから済々黌の水球は基礎訓練といっていい。高度の技術は大学にまかせる。だからどんな技術でも受け入れられるだけの基礎が大事だ」と言葉を加えている。日本水球界の底辺をささえる済々黌水球部は大きく脈動している。



昭和36年(1961)の済々黌水球部。この年インターハイ優勝、国体準優勝

芸者のはなし二つ。

2017-01-07 20:44:41 | 音楽芸能
 今日の「民謡魂 ふるさとの唄」(NHK総合)は鳥取県米子市から。この地方の民謡で最もなじみ深いのは「貝殻節」。それは80年代にNHKで放送された連続ドラマ「夢千代日記」の影響が大きい。このドラマで夢千代ら芸者たちが度々唄い舞う「貝殻節」が一躍全国的に知られる民謡となった。今日の「民謡魂」でもオープニングで唄われたが、偶然、NHKオンラインのサイトで、女優の秋吉久美子さんが、私の思い出番組として「夢千代日記」を紹介しているが、その中で「貝殻節」について「宴席で ♪やさほーえー♪ ってお囃子が耳に残る、貝殻節という山陰地方に伝わる民謡を吉永さんの夢千代と私の金魚と、中村久美さん演じる小夢とで踊るシーンがあるんですけど、なぜだか今もすごく覚えているんです。」と語っている。

 もう一つの話題はなんと“男芸者”つまり「幇間(ほうかん)」のはなし。これまた今日、NHK総合で放送された「目撃!日本列島・選 喜久次と辰次 ~岐阜 幇間物語~」に登場したのが、岐阜市の花柳界で、幇間を目指して修業中の辰次こと橋嶋直人さん22歳。管理栄養士を目指す大学3年生。
 実は熊本地震で大きな被害を受けた御船町の出身。岐阜でたった一人の幇間、喜久次さん46歳に昨年夏に弟子入りし、日本舞踊や三味線、鳴物、茶道など、幇間になるための芸や素養を学んでいる。男であることがハンディになるのが芸者の世界。厳しい世界に立ち向かう辰次さんの覚悟を見極めようとする喜久次さん。幇間の道を模索する師弟の姿を映し出す。はたして管理栄養士の道へ進むのか、それとも幇間の道へ進むのか、まもなく進路を決めなければならない辰次さん。そんな中、郷里熊本から辰次さんを女手一つで育てたお母さんが、幇間の仕事の現場を見にやってくる。

復旧工事の光と影

2017-01-06 19:02:02 | 熊本
 年が明けて、熊本城を始め、市内各所の復旧工事が本格化したように見える。倒壊・崩落した熊本城の北十八間櫓も瓦礫と化した櫓の破片などの回収・撤去が始まっている。ここは重要文化財なので工事も慎重に行われ、原状復帰が図られるだろう。
 一方、京町台西端の雁木坂に沿った石垣崩落現場も改修工事が始まっている。この坂は明治以前に積まれたと思われる石垣が見どころだったのだが、文化財というわけではないので、工事は崩落防止と法面強化のためコンクリートで固められるようだ。かつて雁木坂は内坪井から中坂を通って本妙寺へ通じる唯一の参道であり、頓写会の夜は雁木がきしむ程賑わったという。頼山陽、河井継之助、吉田松陰らの歴史上の人物も本妙寺参詣のため通った由緒ある雁木坂の風情が失われるのは寂しい限りだ。

▼熊本城・北十八間櫓の復旧工事





▼雁木坂に沿った石垣の改修工事


▼熊本地震前の雁木坂の風景



アブナイ「道成寺」の鐘入り

2017-01-05 19:24:32 | 音楽芸能
 2月11日に熊本県立劇場で行われる「ホワイエ薪能」を楽しみにしているが、出演者の一人、シテ方喜多流の女性能楽師・大島衣恵さんが怪我のため休演となりそうだ。年末に、本拠、広島県福山市の喜多流大島能楽堂で行われた公演でシテを務めた「道成寺」の鐘入りの場面で怪我をされたようだ。鐘入りの場面は、これまでも何人もの役者が怪我をしたというとても危険な場面だという話は「にっぽんの芸能」(Eテレ)でも紹介された。あの人間国宝・友枝昭世師も同じ場面で怪我をされたことがあるという。
 大島衣恵さんを初めて見たのは、2014年10月、熊本城本丸御殿で行われた「熊本城薪能」で「枕慈童」のシテを務められた時だった。昨年、熊本地震直前に行われた健軍神社「花の薪能」では解説役だったので、今回の「ホワイエ薪能」では久しぶりに舞姿が見られると楽しみにしていただけに残念だ。じっくりと養生されて、可能ならば4月の「花の薪能」で元気な姿を見せて欲しいものだ。


▼「ホワイエ薪能」の主な出演者と演目



初詣と藤崎宮のはなし。

2017-01-04 18:55:13 | 歴史
 今日、母と家内を連れて藤崎八旛宮へ初詣に行った。昨年と同じく1月4日になったのは、三が日は交通規制があり藤崎宮へ車で入れないからだ。毎年、近場の加藤神社にもお詣りするのだが、やはりわが家の氏神である藤崎宮へのお詣りは欠かせない。
 今年は昨年とは比べられないほど参拝者が多い。やはり昨年、未曽有の大地震「熊本地震」で被災した人々の、安穏や復興を祈る気持が強いのだろう。

 藤崎八旛宮は明治10年の西南戦争で焼失するまで、熊本城の西側、藤崎台にあった。承平5年(935)九州鎮護のため茶臼山に石清水八幡宮から勧請され創建されたが、鎮座のとき、勅使が馬の鞭としていた石清水の藤の枝を地面に刺したところ、芽を吹き枝葉が生えたので「藤崎」という社名としたという伝承がある。しかし、これは後世の創作と思われ、台地の下を流れる井芹川の淵に、先の尖った岬(崎)が突き出た場所という意味からついた地名「ふちさき」が語源だとする郷土史研究家の鈴木喬さんの説が正しいと思われる。
 寛和2年(986)に肥後国司として赴任した清原元輔が、自らの歌集「元輔集」の中に、藤崎宮で子(ね)の日遊びをしたときに詠んだ
  「藤崎の軒の巌に生ふる松いま幾千代か子の日過ぐさむ」
という歌が残されているが、これも後世の人が漢字を当てたもので、もとは次のような仮名だそうだから、はたして元輔の時代には既に「藤崎」という字が当てられていたのかどうかわからない。
  「ふちさきののきのいはほにおふるまついまいくちよかねのひすくさむ」

▼三が日を過ぎても例年より参拝者が多い藤崎宮


▼藤崎台の下、段山の御旅所は元の藤崎八旛宮の名残り

藤崎八旛宮秋季例大祭に段山御旅所能舞台で行われる神事能 (喜多流 能「玉葛」シテ 狩野了一)

落語 THE MOVIE

2017-01-03 21:38:35 | 音楽芸能
 NHKの落語番組「超入門!落語 THE MOVIE」をよく見るのだが、たまに見落として、後でしまった!ということがある。
 なんと元日の夜に、これまでの放送をまとめて一挙再放送してくれた。この番組は、落語家の流暢な語りに、役者の口の動きを合わせた「リップシンク」を駆使して映像化したところが見どころ。
 今回放送されたのは次の16本。
  かぼちゃ屋/お見立て/元犬/紙入れ/粗忽長屋/目黒のさんま/転失気/粗忽の釘
  時そば/三年目/猫の皿/三方一両損/長短/はてなの茶碗/お菊の皿/庖丁
 録画したのでじっくり見直す楽しみができた。



 合わせて出囃子なんぞを聞いて寄席気分を味わうのもおつなものだ。

 【曲 目】   【この曲を出囃子に使った落語家】
 元禄花見踊り  五代目・六代目三遊亭圓楽など
 キューピー   桂文鹿、文平など
 いやとび    桂平治、三遊亭生之助など
 岸の柳     古今亭志ん馬など
 さつま     春風亭柳朝、三遊亭円遊など
 梅は咲いたか  立川志の輔、春風亭柳好など
 伊勢津     立川志雲、三遊亭遊福など


京都のこころここにあり 祇園・都をどり

2017-01-02 14:03:01 | 音楽芸能
 今朝4時から放送されたNHK「京都のこころここにあり 祇園・都をどり」を見た。番組紹介には、8K超高精細映像で制作した番組をハイビジョン画質で放送とあった。都をどりを取り上げた番組はこれまでも何本も見ているが、この舞台を創り上げた出演者やスタッフなど関係者の姿を総合的に紹介する番組は初めて見たような気がする。

 出演者の頂点に君臨するのが名取芸妓のまめ鶴さん。今から42年前にNHKで放送された「新日本紀行」で、16歳で舞妓デビューしたまめ鶴さんの映像を憶えている。初々しいその舞妓姿が印象的だったが、他を圧倒する風格を漂わせた今日のまめ鶴さんは、祇園に生きた一人の女性の歴史を感じさせる。
 また、この都をどりを最後に引退した超人気舞妓まめ藤さんの最後の舞台でもあり、貴重なお宝映像となった。


全出演者の頂点に立つまめ鶴さん(黒の衣装)


まめ藤さん最後の舞台(前列右から二人目)


八坂女紅場学園での舞台稽古を紹介する場面に登場したまめ藤さん

謹賀新年

2017-01-01 20:22:11 | 
あけましておめでとうございます!



本年も当ブログは、飽きることなく無駄話を書き続けます
どうかこれからも温かい目で見ていただければ幸いです
変わらぬご愛顧をどうぞよろしくお願い申しあげます
筆主敬白