年が改まり、二度目の東京オリンピックまであと3年となった。
下の文章は今から55年前、東京オリンピックを2年後に控えた昭和37年に西日本新聞に掲載された記事である。
読んでみると現在とはだいぶ様子が違うようにも見える。いや、根本的には変わっていないこともあるようだ。
水連内部で最も影が薄いのが水球だ。24年ぶりにローマ・オリンピックのヒノキ舞台に出た日本水球はついに1勝もあげることができず、予選リーグで失格している。もちろん長い球歴をもつ欧米諸国との中で日本水球は当然といっていいほどの力の差かも知れないが、水連ではこの惨敗ぶりから東京大会は細々と6位入賞をめざして選手強化対策に真剣に取り組みはじめた。そのホコ先を向けられるのが、まず高校水球界だ。京都の鴨沂高校、熊本の済々黌。大げさにいえば、この両校は日本の高校水球を二分する名門だ。いってみれば、現在日本水球界の母体を形成しているといっても過言ではあるまい。なかでも九州随一の名門、肥後の済々黌の存在は貴重だ。
肥後の空にくっきり浮かぶ熊本城を目前にあおぐ済々黌は創立80年。輝かしい歴史と伝統の刻みあとが柱一本、一本にさえ感じられる。校門を通って校舎のすぐ右手に古びたプールがある。オフシーズンのいまは、プールの水面も静かな休息を保っている。済々黌水球部が誕生したのは終戦後の昭和21年、その後幾多の名選手がこのプールから生まれたのだ。「古いプールですが、いろいろと思い出がありますね」と12年間水球一筋に生きてきた平田水球部長は語る。昭和29年、第2回アジア大会には名キーパーとうたわれた古賀選手(早大)と田代選手(早大)の二人が初めて済々黌出身として全国に名を連ねた。翌30年、香港遠征水球チームの主力水垣、田久保、井上、宮村、内田の日大勢はすべて済々黌OBで固めた。このころから〝水球の済々黌〟は文字通り日本水球界の焦点になってきた。32、33年のパリの国際学生大会、第3回アジア大会と済々黌OBの活躍はめざましく、ローマ・オリンピックには宮村(日大OB)藤本(日大)柴田(日大)の三人を送っている。そして昨年藤本、柴田が国際学生大会の選抜メンバーに加わった。
しかし名門済々黌を語るにはなんといっても過去の輝かしい記録を忘れてはなるまい。高校水球界の二大タイトルといわれる日本高校選手権、国体夏季大会では昨年の全国制覇で通算4回準優勝5回、国体は昨年強敵鴨沂高に惜敗してタイトル独占はできなかったが、優勝1回、準優勝5回の金字塔を築いている。さらに末弘杯高校水球では13年連続優勝と済々黌の独壇場だ。現在、水連が大学、高校40人のオリンピック候補選手をあげているが、この中に済々黌水球部で育った選手が9人いる。なかでも全国4名の高校生の候補選手のうち、済々黌の村山憲三選手は注目されている。1㍍75、73キロの体格は理想的な選手だ。テクニックもスプリントのよくきいた泳ぎも高校生ばなれをしたうまさをもっている。
「村山君は高校に入って初めてボールを握ったんだが、素質は十分ですね。いま高校界のNO1ではないんですか。テクニックはずば抜けてうまい。オリンピック選手には絶対になりますよ」と同部長は村山選手の大成に太鼓判を押している。この村山選手のほか、オリンピックの候補選手にはならなかったが、高校界のキーパーでピカ一といわれる入江、大型ではないが典型的なスプリンター桑山、来シーズン主力選手の抜けたあとチームのカナメになる堀、坂本、豊永は将来楽しめる選手。
小堀流踏水術は〝水球済々黌〟の極意という。水球はまず体を浮かすために足の使い方が基礎になるが、これにはバタ足、巻き足の二つの方法がある。巻き足はいまも肥後に伝わる小堀流踏水術に通ずるわけだ。
済々黌水球部の伝統を一口にいえば、猛練習以外になにもない。これがすべてだ。だからといってスパルタ教育ではない。いやむしろ部員が過去の輝かしい伝統を自覚、猛練習を当然なものとして受け取っている。そしてこの空気の中から名選手が育っていったわけだ。
「選手は一年中休みなしです。シーズンオフになれば陸上トレーニングで体をつくるし、シーズンのフタがあけば毎日3時から4、5時間の練習です。昨年は11月下旬まで水に入っていました。ことしは早々阿蘇で強化合宿ですよ。練習で一番困るのは、九州に格好の相手がいないことですね。だから夏休みは東京で毎年、大学生相手の合宿です」と同部長はいう。また同水球部の矢賀コーチは「練習はきついのがあたりまえです。私は基礎が第一だと思う。だから済々黌の水球は基礎訓練といっていい。高度の技術は大学にまかせる。だからどんな技術でも受け入れられるだけの基礎が大事だ」と言葉を加えている。日本水球界の底辺をささえる済々黌水球部は大きく脈動している。
昭和36年(1961)の済々黌水球部。この年インターハイ優勝、国体準優勝
下の文章は今から55年前、東京オリンピックを2年後に控えた昭和37年に西日本新聞に掲載された記事である。
読んでみると現在とはだいぶ様子が違うようにも見える。いや、根本的には変わっていないこともあるようだ。
水連内部で最も影が薄いのが水球だ。24年ぶりにローマ・オリンピックのヒノキ舞台に出た日本水球はついに1勝もあげることができず、予選リーグで失格している。もちろん長い球歴をもつ欧米諸国との中で日本水球は当然といっていいほどの力の差かも知れないが、水連ではこの惨敗ぶりから東京大会は細々と6位入賞をめざして選手強化対策に真剣に取り組みはじめた。そのホコ先を向けられるのが、まず高校水球界だ。京都の鴨沂高校、熊本の済々黌。大げさにいえば、この両校は日本の高校水球を二分する名門だ。いってみれば、現在日本水球界の母体を形成しているといっても過言ではあるまい。なかでも九州随一の名門、肥後の済々黌の存在は貴重だ。
肥後の空にくっきり浮かぶ熊本城を目前にあおぐ済々黌は創立80年。輝かしい歴史と伝統の刻みあとが柱一本、一本にさえ感じられる。校門を通って校舎のすぐ右手に古びたプールがある。オフシーズンのいまは、プールの水面も静かな休息を保っている。済々黌水球部が誕生したのは終戦後の昭和21年、その後幾多の名選手がこのプールから生まれたのだ。「古いプールですが、いろいろと思い出がありますね」と12年間水球一筋に生きてきた平田水球部長は語る。昭和29年、第2回アジア大会には名キーパーとうたわれた古賀選手(早大)と田代選手(早大)の二人が初めて済々黌出身として全国に名を連ねた。翌30年、香港遠征水球チームの主力水垣、田久保、井上、宮村、内田の日大勢はすべて済々黌OBで固めた。このころから〝水球の済々黌〟は文字通り日本水球界の焦点になってきた。32、33年のパリの国際学生大会、第3回アジア大会と済々黌OBの活躍はめざましく、ローマ・オリンピックには宮村(日大OB)藤本(日大)柴田(日大)の三人を送っている。そして昨年藤本、柴田が国際学生大会の選抜メンバーに加わった。
しかし名門済々黌を語るにはなんといっても過去の輝かしい記録を忘れてはなるまい。高校水球界の二大タイトルといわれる日本高校選手権、国体夏季大会では昨年の全国制覇で通算4回準優勝5回、国体は昨年強敵鴨沂高に惜敗してタイトル独占はできなかったが、優勝1回、準優勝5回の金字塔を築いている。さらに末弘杯高校水球では13年連続優勝と済々黌の独壇場だ。現在、水連が大学、高校40人のオリンピック候補選手をあげているが、この中に済々黌水球部で育った選手が9人いる。なかでも全国4名の高校生の候補選手のうち、済々黌の村山憲三選手は注目されている。1㍍75、73キロの体格は理想的な選手だ。テクニックもスプリントのよくきいた泳ぎも高校生ばなれをしたうまさをもっている。
「村山君は高校に入って初めてボールを握ったんだが、素質は十分ですね。いま高校界のNO1ではないんですか。テクニックはずば抜けてうまい。オリンピック選手には絶対になりますよ」と同部長は村山選手の大成に太鼓判を押している。この村山選手のほか、オリンピックの候補選手にはならなかったが、高校界のキーパーでピカ一といわれる入江、大型ではないが典型的なスプリンター桑山、来シーズン主力選手の抜けたあとチームのカナメになる堀、坂本、豊永は将来楽しめる選手。
小堀流踏水術は〝水球済々黌〟の極意という。水球はまず体を浮かすために足の使い方が基礎になるが、これにはバタ足、巻き足の二つの方法がある。巻き足はいまも肥後に伝わる小堀流踏水術に通ずるわけだ。
済々黌水球部の伝統を一口にいえば、猛練習以外になにもない。これがすべてだ。だからといってスパルタ教育ではない。いやむしろ部員が過去の輝かしい伝統を自覚、猛練習を当然なものとして受け取っている。そしてこの空気の中から名選手が育っていったわけだ。
「選手は一年中休みなしです。シーズンオフになれば陸上トレーニングで体をつくるし、シーズンのフタがあけば毎日3時から4、5時間の練習です。昨年は11月下旬まで水に入っていました。ことしは早々阿蘇で強化合宿ですよ。練習で一番困るのは、九州に格好の相手がいないことですね。だから夏休みは東京で毎年、大学生相手の合宿です」と同部長はいう。また同水球部の矢賀コーチは「練習はきついのがあたりまえです。私は基礎が第一だと思う。だから済々黌の水球は基礎訓練といっていい。高度の技術は大学にまかせる。だからどんな技術でも受け入れられるだけの基礎が大事だ」と言葉を加えている。日本水球界の底辺をささえる済々黌水球部は大きく脈動している。
昭和36年(1961)の済々黌水球部。この年インターハイ優勝、国体準優勝