読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

森岡正博

2006年02月11日 | 人文科学系
森岡正博『無痛文明論』(トランスビュー、2003年)

ついに森岡正博の『無痛文明論』を読んだ。

この著書について書く前に、この人のものの感じ方みたいなものに共感していることを記しておこう。たとえば彼はホテルの壁が薄くて、隣の声やテレビの音声がうるさくて仕事に集中できない、眠れないということに神経質な人らしく、自分自身の体験を中心にして、全国のホテル(超豪華なところから有名どころがほとんどで私などが使うようなホテルは載っていないが)を詳細に自身のサイトで記事にしている。またカフェやレストランで禁煙の臭いがしないという快適度を問題にしている。私もカフェで休憩したり本を読むのがすきだったのに、最近は煙草がくさくて、カフェに入るのがいやなので、ほとんど入らない。彼も同じらしく、大阪などを中心に禁煙カフェの紹介をしている。面白い人だと思うね。

さて、この人のことは、自身のサイトで知っていたし、そこに書かれてあることから、どんな主張をしているのか興味を持っていたので、某大学で行なわれた講演会(これは法学部の学会主催だったので出席していた学生はほとんど法学部だったと思う)に参加して、彼の話を聞いたこともある。著書を読む前に、著者の話を直接聞くという例も珍しいだろう。だからついに、彼が「この本を書くために生まれてきた」とあとがきに書いているこの著書を手に取ったときには、なにげなく読んでみようかというのとはまったく思いで第一頁を開いた。

彼の言う無痛文明が「身体の欲望」を動かしていかにわれわれを真綿のようにぬくぬくとした状態に閉じ込め、「生命の力」を押し殺しているかという話は、まったくよく分かる。第二章の「無痛文明における愛の条件」で「条件付けのある愛」はだめで「条件付けのない愛」こそが本当の愛だという議論を読んでいると、彼はよくそういわれるらしいが、本当にどっかの新興宗教の教組のように思えてくる。第三章から第五章はちょっと退屈だったが、第六章「自然化するテクノロジーの罠」では、自然を制圧しようとする人間のテクノロジーが完全に自然力を制圧した時、それはあたかも原始の自然をわれわれは目の前にしているように見えて、すべてコントロールされた自然に取り囲まれることになるという彼の「予言」のような議論を読みながら、私は「あれ!これって、どこかで見たか聞いたことあるな」と思い、あれこれ記憶を辿っているうちに、これは『マトリックス』の世界じゃないか、と気づいた。近未来の地球は核戦争によって完全に壊滅状態になって、太陽エネルギーが届かなくなり、ロボットが人間の体内にある微小エネルギーを取り出して自分たちの世界を作り上げている。人間は一生カプセルに入れられたままで電気エネルギーを吸い取られながら、一方では電極を埋め込まれて、かつての人間社会のデータがインプットされ、彼らはマトリックスという仮想現実を生きているという話だが、これこそ森岡が「予言」しているテクノロジーが完全に自然を制覇してコントロールする社会の映像化だと思ったのである。恐るべき森岡正博!

第七章「私の死」と無痛文明では彼自身の死の恐怖とのたたかいの話が、私自身の体験によく似ていた(というか死のことを突き詰めて考える人はみな似たような経験をしているのではないだろうか)ので興味をもって読んだが、結論から言うと、残念ながら物足りなかった。

感心するのは、現代に特有の病、衝動的殺人、子どもたちの荒れ、自傷行為など、ほんの数十年前の日本では考えられなかった社会事象を彼の無痛文明論が適格に説明していることだ。私はつねづね、現代社会の病理を、戦後すぐ後の社会の視座(今の子はなにを考えてるんだか、私らが子どもの頃はものが何もなくても一生懸命生きていたのに式の現代批判)ではなくて、まさに現代社会の視座から説明する理論が出てこない限り、このような病理は解決していく道を見出せないと思っている。

もう一つ感心するのは、彼がこれだけの内容を自分の言葉で語っていることだ、たいていの研究者はだれそれがこう言っている式の、つねに人の言葉を借りなければ語れないものだが、彼は最初から最後まで自分の言葉で語っている。たいしたものだと思う。だから教祖のように見えてくるのかもしれない。恐るべし森岡正博。

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