フランス・ドルヌ+小林康夫『日本語の森を歩いて』(講談社現代新書、2005年)
前書きによると、フランスの大学で知り合って結婚したという(結婚したのはフランスではなく、ドルヌさんが日本に留学しに来てからの話のようだが)、この二人が、共作という形で書いた本らしいが、これも前書きによると、実際にはドルヌさんがフランス語で書いたものを、二人で議論をして深め、最終的に小林が訳したものらしい。
外国人からみた日本語の不思議さが、森に例えられて、歩いても歩いても森は深くなるばかりで、いっこうに明るい野原に出られないという趣のある本である。フランス語というじつに合理的論理的な言語から見たら日本語がどんなふうに見えるのだろうかと興味があった。
最初に人称代名詞の「私」と「あなた」を弁別するあたりから違和感を感じ始め、ずっと日仏対照しながらの論述に違和感を感じ通しだったが、途中から、この違和感はなんなのか気がついた。そもそも外国語を基準にして日本語を見るという行為自体が無理なのだから、フランス語を基準にしてにして見たら日本語は矛盾だらけで非論理的でワケがわからない言語ということになってしまう。そこから、フランス語の、あるいは日本語の文化論社会論歴史論に話を発展させていくのなら、それはまたそれなりに面白かったのだろうけども、そうしないであくまでも言葉の論理のレベルにとどまろうとするので、まさに歩けば歩くほど森の奥に入ってしまうという様相を呈してしまうことに、私は違和感を感じていたのだろう。
もちろん比較言語学という学問分野があるのだろうから、フランス語から日本語を見るという行為を学問として成り立たせることは可能だろうけれども、ちょうど西洋音楽からみた日本古来の音楽が幼稚で時代遅れにしか見えないように、フランス語を基準として日本語を見ても、この本のような結果になるだけのような気がする。
そもそも主語からして日本語にはないのだから、フランス語から見たら、まず一番大事なところで、ありえない言語でしょう。主語がないどころか、「僕は、いくつですか?」とか「自分は何歳やねん?」と、フランス語でtuとかvousとかでしか言い得ない二人称の主語が「僕」とか「自分」といった、フランス語ならjeでしか言い得ない主語で表されているのをどうやってフランス語を基準にして説明するというのだろう?第14章の冒頭にはこの主語の不在が取り上げられているが、結局、フランス語から見ていたのでは、なぜ主語がないのか、なぜなくてもいいのか、説明できない。そもそもなぜ?と問うこと自体が日本語として日本語を見るという視点に立つならば、不要なことかもしれない、とは思いつかないのだろう。主語がいるというのは、西洋諸語から見ているからだ。
私の知り合いで、日本人がフランス語の仕組みを研究している人たちがいるが、このように外国人が外国語を研究する場合のメリットは、この著者も書いていることだが、ネイティブが当たり前に思って、どうしてここではこう言うのだろう、どうしてここではこの前置詞を使うのに、ここでは別の前置詞をもってくるのだろうというようなことを考えないけれども、外国人にとってはなんらかの合理的な説明が必要になってくるので、そういう視点からみると、その語が語源的に持っている意味が見えてくるということがあることだろう。ところがそれはフランス語という比較的外国からの侵略を受けることがなく、すんなりラテン語を知れば分かるというような言語の場合に言えることであって、日本語のように、そもそも出発になった言語さえもいまだ分かっていないような状況では、その論理性を見出すこと自体がなかなか難しいと思うのだ。それは日本語のなかで深めるしかないことであって、外国語の照明をあてても見えてくるものではないような気がする。
日本語の森を歩いて (講談社現代新書) | |
F. ドルヌ,小林 康夫 | |
講談社 |
前書きによると、フランスの大学で知り合って結婚したという(結婚したのはフランスではなく、ドルヌさんが日本に留学しに来てからの話のようだが)、この二人が、共作という形で書いた本らしいが、これも前書きによると、実際にはドルヌさんがフランス語で書いたものを、二人で議論をして深め、最終的に小林が訳したものらしい。
外国人からみた日本語の不思議さが、森に例えられて、歩いても歩いても森は深くなるばかりで、いっこうに明るい野原に出られないという趣のある本である。フランス語というじつに合理的論理的な言語から見たら日本語がどんなふうに見えるのだろうかと興味があった。
最初に人称代名詞の「私」と「あなた」を弁別するあたりから違和感を感じ始め、ずっと日仏対照しながらの論述に違和感を感じ通しだったが、途中から、この違和感はなんなのか気がついた。そもそも外国語を基準にして日本語を見るという行為自体が無理なのだから、フランス語を基準にしてにして見たら日本語は矛盾だらけで非論理的でワケがわからない言語ということになってしまう。そこから、フランス語の、あるいは日本語の文化論社会論歴史論に話を発展させていくのなら、それはまたそれなりに面白かったのだろうけども、そうしないであくまでも言葉の論理のレベルにとどまろうとするので、まさに歩けば歩くほど森の奥に入ってしまうという様相を呈してしまうことに、私は違和感を感じていたのだろう。
もちろん比較言語学という学問分野があるのだろうから、フランス語から日本語を見るという行為を学問として成り立たせることは可能だろうけれども、ちょうど西洋音楽からみた日本古来の音楽が幼稚で時代遅れにしか見えないように、フランス語を基準として日本語を見ても、この本のような結果になるだけのような気がする。
そもそも主語からして日本語にはないのだから、フランス語から見たら、まず一番大事なところで、ありえない言語でしょう。主語がないどころか、「僕は、いくつですか?」とか「自分は何歳やねん?」と、フランス語でtuとかvousとかでしか言い得ない二人称の主語が「僕」とか「自分」といった、フランス語ならjeでしか言い得ない主語で表されているのをどうやってフランス語を基準にして説明するというのだろう?第14章の冒頭にはこの主語の不在が取り上げられているが、結局、フランス語から見ていたのでは、なぜ主語がないのか、なぜなくてもいいのか、説明できない。そもそもなぜ?と問うこと自体が日本語として日本語を見るという視点に立つならば、不要なことかもしれない、とは思いつかないのだろう。主語がいるというのは、西洋諸語から見ているからだ。
私の知り合いで、日本人がフランス語の仕組みを研究している人たちがいるが、このように外国人が外国語を研究する場合のメリットは、この著者も書いていることだが、ネイティブが当たり前に思って、どうしてここではこう言うのだろう、どうしてここではこの前置詞を使うのに、ここでは別の前置詞をもってくるのだろうというようなことを考えないけれども、外国人にとってはなんらかの合理的な説明が必要になってくるので、そういう視点からみると、その語が語源的に持っている意味が見えてくるということがあることだろう。ところがそれはフランス語という比較的外国からの侵略を受けることがなく、すんなりラテン語を知れば分かるというような言語の場合に言えることであって、日本語のように、そもそも出発になった言語さえもいまだ分かっていないような状況では、その論理性を見出すこと自体がなかなか難しいと思うのだ。それは日本語のなかで深めるしかないことであって、外国語の照明をあてても見えてくるものではないような気がする。