読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「英語のたくらみ、フランス語のたわむれ」

2006年08月06日 | 人文科学系
斉藤・野崎『英語のたくらみ、フランス語のたわむれ』(東京大学出版会、2004年)

どちらもいま飛ぶ鳥を落とす勢いの翻訳―外国小説や評論など―をしている二人の東大の先生(斉藤は英語、野崎はフランス語)の対談で、アマゾンの解説によると、「外国語を身につけるにはどうすればよいか?翻訳はどのようにするか?文学は何の役に立つのか?英語とフランス語の東大教師が、「語学」「翻訳」「文学」をめぐってその営みの核心を語り尽くす。英語が好きでたまらなかった斎藤。フランス小説・詩に魅せられた野崎。そんな原点をもつ両者が、ふたつの言語の受容のされ方から、その文学の性格のちがいまで対話を繰り広げる。「外国語や異文化に出会うとはどういうことか」を知る絶好の一冊。」ということになるらしい。

野崎が、会話のための勉強というものはしないで、ひたすら文学作品だけを読んでいたが、フランス政府給費留学生試験に合格して、渡仏する飛行機の中で隣に座ったフランス人女性と飛行機の中でずっと喋ることができた、それでフランス語会話の自信がついたというエピソードを持ち出してきて、きちんとフランス語の解読ができれば会話だってできるようになるのだという主張の傍証としようとし、また斉藤もそうだそうだと応援しているのを見ると、いったいこの人たちは誰を相手にこの対談をやっているのだろうかと思ってしまう。この人たちはきっと東大の理系の先生たち、英語で論文がかけないとか会話もできないと教養の外国語教員たちに文句をいってくる教員たちにたいして、オーソドックスなリーディング中心の外国語教育の方法こそが正統的な手法なのだといいたいのだろう。たしかに英語のようにすでに中学・高校で既習の外国語はいいが、それ以外の外国語の場合はABCからやっていかなければならず、2年間でいったいどれだけのことができるというのだろうか。それよりは○○語嫌いにしてしまわない教育の方が重要であって、そういう取っ掛かり(とはいえ、たんなる取っ掛かりではない)があれば、そこからもっと勉強していきたい人をたくさん作れるように思う。かつてのような、文法があって、訳読があってという方法は、もちろんこちらの方が性にあっているという人もいるだろうが、基本的に間違っていると思う。

文学が衰退と言われて久しいけれども、文学はたんに衰退というようには言えないように思う。衰退しているのは古典(すでに故人となって、ある程度評価の定まった文学のことをいっているので、割と新しいものも含んでいる)といわれる文学であって、日本文学でも村上春樹をはじめとして、伊坂幸太郎、宮部みゆきなどなど、よく読まれている。たしかに猫も杓子もというように、古典といわれる小説がよく読まれた時代は終わったといっていいが、そうした古典にたいする関心が急速に失われていった理由は、そもそも戦後から20年もしくは30年くらいまでの異常なほどの日本人の読書欲のほうが異常であって(もちろんこれにはそれまで十分な翻訳がなかった、十分な本がなかった)、自分の身の回りとはちがう世界(問題意識や生活様式も含めて)にたいして、異常なほどの多数の人間が興味を持つほうがおかしいのである。現代日本に固有の問題意識をもって書かれた今の文学にしか興味を持たないとしてもそれは当然であろう。あるいはそこから古典の方へと関心の対象を広げていく人もいるかもしれないが、方向性としては今から古典へであって、古典から今へ、ではないだろう。大学の先生たちにすれば、そういう評価の定まっていない文学については、おいそれとは論文を書けない、下手なことを書いてみっともないことをしたくない、あるいはもっと言えば、そうした評価を下す能力がないというところで、本来、そうした今の文学をこそもっと研究として取り上げるべきなのではないだろうか。既存の評価にあぐらをかいているとしかいえないような、怠慢・傲慢な態度しかそこには見えない。

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