Marc Levy, Les enfants de la liberte, Editions Robert Laffont, 2007
マルク・レヴィ『自由の子どもたち』(ロベール・ラフォン書店、2007年)
自由の子どもたちとは、第二次世界大戦でフランスを占領統治したナチス・ドイツに対抗して運動したレジスタンスの闘士たちのことを指している。
南フランスのトゥールーズ近郊の町でレジスタンスに参加していたジャノことレイモンと弟のクロードが、ナチス・ドイツにつかまって他のレジスタンス闘士たちとともにドイツに連行される途中にフランスが解放され生き残り、ジャノの子どもが18歳になったおりに行われた記念式典にともに参加したのを機会に、自分の過去を息子に語るという体裁になっている。
一貫してジャノの視点で書かれているが、もちろん彼が知りえなかった出来事まで書かれているので、きっと語りの現在を息子に語っている時点においており、解放されてからジャノが知ったこととしてそれらは語られている。
レジスタンス活動の回想だからと言って、決してフランスに自由を取り戻したのは俺たちだ式の勇ましいものというわけでもないし、逆にナチス・ドイツによる拷問や死刑がいかに悲惨だったかを売りにしたような文章になっているわけでもない。淡々とした語り方が、最初は、この「自由の子どもたち」というのが何を指しているのか分からなかったこともあり、まさかあのレジスタンスの話とは思わなかったというのが正直なところだ。
あまりにも淡々としているだけでなく、この主人公のジャノの性格なのだが、いまのフランスはナチス・ドイツに占領され自由もなく、しかも自分はレジスタンスの闘士としてつかまったらすぐにでも殺されてしまうような状況にあるという自覚がないのか、あるいはだからこそなのだろうが、時にはそうした現実から逃避するかのように、夢のような話になってしまうことがしばしば。
たとえば、マルセルというスペインからやってきた闘士がナチにつかまり裁判にかけられて死刑にされるという事件が起こる。裁判の様子や死刑執行の日の様子などもかなり克明に書かれているので、けっこう深刻な場面であるのだが、それからしばらくして、ジャノがダミラというイタリア人娘とカフェで待ち合わせする使命を与えられて出かけると、このダミラに惹かれてしまい、彼女とイギリスで幸福な生活を送っている自分を思い描いてしまう。そんな若者なのだ。
このレジスタンスの活動そのものがけっこう幼稚な側面をもっていたことも書かれている。このあたりのことは作者自身が意図的に書き込んだのだろうと思う。たとえば、ジャノの初めてのミッションが自転車泥棒だったり、ドイツ人将校を射殺することだったが、なんとかうまく射殺したものの、自分のしたことに驚いて拳銃を落としてしまい、貴重な武器を失ったとか、食べ物が十分にいきわたらず、闘士たちは貧しい食事を我慢していたが、ときどき我慢できなくなりレストランで食事をすることがあり、だがみんなが行くと一網打尽でつかまるので、けっして行かないようにと指示されていたのに、弟のクロードに、みんな指示を守って行かなかったら、僕たちが行ってもだれにも分からないよと言われて、行ってみると、みんなが居て、もう席が二つしか空いていなかったとか。
上記のマルセルに死刑判決を出した検事のレスピナスを殺してマルセルのかたきをうとうということになり、電話帳でレスピナスの住所をしらべて、張り込みをして、彼が毎日どれくらいの時間に帰宅したり家を出たりするのかを調べて、暗殺の場所や時間を用意周到に準備したつもりだったのに、いざ決行という直前にジャノは電話帳に載っていたこのレスピナスというのが同姓同名の別人だったということに気づき、あと一歩というところで別人を殺さなくて済んだ、などなど。
しかしこれを滑稽と思うのはまさに歴史の流れということを無視しているからだろう。いまから思えば幼稚なことであっても、そのコンテクストの中では必然性があったことなのだ。だから「私」は話の冒頭で次のようにいましめる。
「いいかい、私たちが生きていた状況というものを理解しなければいけないよ、大事なことなんだ、状況というものは、たった一つの文章だってね。この状況を離れたら、その文章は意味が変わってしまうのがたいていなんだから。」(p.17)
1961年生まれの作者のマルク・レヴィという人はずいぶんと行動派の人のようで、18歳でバカロレアを取ると同時にフランス赤十字社に入り、6年間交通救急師として活動をしたり、パリ近郊の県の責任者をしたりした。その間にパリ大学のドフィーヌ校で情報学や管理学を勉強している。またロジテック・フランスなんて会社を起業したりしているというからすごい。その後もいくつかの会社を興しているが、結局失敗して、29歳のときにパリにもどる。37歳のときに、将来息子が読んでくれるという予定で書いた「もし本当だったら」という小説がロベール・ラフォン書店に認められて2000年に出版され、同時にスピルバーグの目に留まり映画化された。それが『恋人はゴースト』(2005年)。
そういうわけで小説を出すたびにたいへんな売れ行きという人気小説家らしい。とくに『自由の子どもたち』は出版と同時にベストセラー入りをして、50万部を売ったとのこと。今年の6月25日には彼の第9作目Premier jourが出版予定というから、フランスではけっこうホットな作家のようだ。
マルク・レヴィのオフィシャルサイトはこちら
マルク・レヴィの邦訳はたくさんある。『夢でなければ』(早川書房、2001年)、『永遠の七日間』(PHP研究所、2008年)、『あなたを探して』(PHP研究所、2008年)、『ぼくの友だち、あるいは友だちのぼく』(PHP研究所、2009年)、『時間をこえて』(PHP研究所、2009年)がある。
マルク・レヴィ『自由の子どもたち』(ロベール・ラフォン書店、2007年)
自由の子どもたちとは、第二次世界大戦でフランスを占領統治したナチス・ドイツに対抗して運動したレジスタンスの闘士たちのことを指している。
南フランスのトゥールーズ近郊の町でレジスタンスに参加していたジャノことレイモンと弟のクロードが、ナチス・ドイツにつかまって他のレジスタンス闘士たちとともにドイツに連行される途中にフランスが解放され生き残り、ジャノの子どもが18歳になったおりに行われた記念式典にともに参加したのを機会に、自分の過去を息子に語るという体裁になっている。
一貫してジャノの視点で書かれているが、もちろん彼が知りえなかった出来事まで書かれているので、きっと語りの現在を息子に語っている時点においており、解放されてからジャノが知ったこととしてそれらは語られている。
レジスタンス活動の回想だからと言って、決してフランスに自由を取り戻したのは俺たちだ式の勇ましいものというわけでもないし、逆にナチス・ドイツによる拷問や死刑がいかに悲惨だったかを売りにしたような文章になっているわけでもない。淡々とした語り方が、最初は、この「自由の子どもたち」というのが何を指しているのか分からなかったこともあり、まさかあのレジスタンスの話とは思わなかったというのが正直なところだ。
あまりにも淡々としているだけでなく、この主人公のジャノの性格なのだが、いまのフランスはナチス・ドイツに占領され自由もなく、しかも自分はレジスタンスの闘士としてつかまったらすぐにでも殺されてしまうような状況にあるという自覚がないのか、あるいはだからこそなのだろうが、時にはそうした現実から逃避するかのように、夢のような話になってしまうことがしばしば。
たとえば、マルセルというスペインからやってきた闘士がナチにつかまり裁判にかけられて死刑にされるという事件が起こる。裁判の様子や死刑執行の日の様子などもかなり克明に書かれているので、けっこう深刻な場面であるのだが、それからしばらくして、ジャノがダミラというイタリア人娘とカフェで待ち合わせする使命を与えられて出かけると、このダミラに惹かれてしまい、彼女とイギリスで幸福な生活を送っている自分を思い描いてしまう。そんな若者なのだ。
このレジスタンスの活動そのものがけっこう幼稚な側面をもっていたことも書かれている。このあたりのことは作者自身が意図的に書き込んだのだろうと思う。たとえば、ジャノの初めてのミッションが自転車泥棒だったり、ドイツ人将校を射殺することだったが、なんとかうまく射殺したものの、自分のしたことに驚いて拳銃を落としてしまい、貴重な武器を失ったとか、食べ物が十分にいきわたらず、闘士たちは貧しい食事を我慢していたが、ときどき我慢できなくなりレストランで食事をすることがあり、だがみんなが行くと一網打尽でつかまるので、けっして行かないようにと指示されていたのに、弟のクロードに、みんな指示を守って行かなかったら、僕たちが行ってもだれにも分からないよと言われて、行ってみると、みんなが居て、もう席が二つしか空いていなかったとか。
上記のマルセルに死刑判決を出した検事のレスピナスを殺してマルセルのかたきをうとうということになり、電話帳でレスピナスの住所をしらべて、張り込みをして、彼が毎日どれくらいの時間に帰宅したり家を出たりするのかを調べて、暗殺の場所や時間を用意周到に準備したつもりだったのに、いざ決行という直前にジャノは電話帳に載っていたこのレスピナスというのが同姓同名の別人だったということに気づき、あと一歩というところで別人を殺さなくて済んだ、などなど。
しかしこれを滑稽と思うのはまさに歴史の流れということを無視しているからだろう。いまから思えば幼稚なことであっても、そのコンテクストの中では必然性があったことなのだ。だから「私」は話の冒頭で次のようにいましめる。
「いいかい、私たちが生きていた状況というものを理解しなければいけないよ、大事なことなんだ、状況というものは、たった一つの文章だってね。この状況を離れたら、その文章は意味が変わってしまうのがたいていなんだから。」(p.17)
1961年生まれの作者のマルク・レヴィという人はずいぶんと行動派の人のようで、18歳でバカロレアを取ると同時にフランス赤十字社に入り、6年間交通救急師として活動をしたり、パリ近郊の県の責任者をしたりした。その間にパリ大学のドフィーヌ校で情報学や管理学を勉強している。またロジテック・フランスなんて会社を起業したりしているというからすごい。その後もいくつかの会社を興しているが、結局失敗して、29歳のときにパリにもどる。37歳のときに、将来息子が読んでくれるという予定で書いた「もし本当だったら」という小説がロベール・ラフォン書店に認められて2000年に出版され、同時にスピルバーグの目に留まり映画化された。それが『恋人はゴースト』(2005年)。
そういうわけで小説を出すたびにたいへんな売れ行きという人気小説家らしい。とくに『自由の子どもたち』は出版と同時にベストセラー入りをして、50万部を売ったとのこと。今年の6月25日には彼の第9作目Premier jourが出版予定というから、フランスではけっこうホットな作家のようだ。
マルク・レヴィのオフィシャルサイトはこちら
マルク・レヴィの邦訳はたくさんある。『夢でなければ』(早川書房、2001年)、『永遠の七日間』(PHP研究所、2008年)、『あなたを探して』(PHP研究所、2008年)、『ぼくの友だち、あるいは友だちのぼく』(PHP研究所、2009年)、『時間をこえて』(PHP研究所、2009年)がある。