Justine Levy, Rien de grave, Stock, 2004, Livre de Poche 30406
久しぶりのフランス小説である。「私は祖母の葬式にジーンズで来てしまった」で始まるジュスティーヌ・レヴィの『たいしたことは何もないわ』である。1995年に『デート』という小説を出したきりなので、これが第二作のようだ。裏表紙を見ると、『ル・モンド』のジョジアーヌ・サヴィニョーが「明晰で硬い内容に、乾いた文体をもった美しい小説」と絶賛しているし、『マリアンヌ』のパトリック・ベッソンは「人を救うようなエクリチュールはかつてなかっただろう」と誉めている。
こういうのをフランス人は「乾いた文体」と呼ぶのかどうか知らないが、とにかくまったく破格の文体で、いわゆる自由間接話法というのでもない、とにかく本来なら直接話法の部分をそのまま地の文にしたり、接続詞のqueのあとに直接話法がきたりと、フランス語になれていない読み手にはこのjeはだれのことなのかtuはだれを指しているか訳がわからなくなることがしばし。しかしずっと読んでいると慣れてくるから不思議だ。
祖母の葬式にジーンズをはいていって場違いな思いをするが、それはそれだけ祖母の死が私=ルイーズにとって衝撃だったことを示しているという場面から始まる。おばあちゃんがジーンズはお尻が締まってきれいに見えるからいいねと言っていたことなどを回想しているので、最初はこの人はおばあちゃん子だったのかなと思ってしまうが、そうでもなく、話は母親の癌が進行していて、抗がん剤のために髪の毛が全部抜けてしまい鬘をしていると告白しに来たときのことだとか、さらにいまの恋人のパブロとセーヌ川に浮かぶ船のなかでのパーティーで初めて出会ったこと、前夫のアドリアンといざこざと離婚、ボナパルト通りにいまのアパルトマンを見つけたこと、さらに話は過去にさかのぼって、アドリアンと離婚する前の病気と妄想(たとえばアドリアンがルイーズの父を殺したがっている、ルイーズを彼の武器にしたがっているなどという妄想)のこと、2年前からドラッグ中毒になり、必死に昔の自分を取り戻そうともがいているルイーズの精神状態の克明な描写、8ヶ月ぶりの父親との再会、そして時はいまに戻り、パブロとの生活が彼女に救いを取り戻したことで終わる。
何箇所か読み応えのある場面がある。たとえばパブロとの船のパーティーでの出会い。
「パブロとは船の上で出会った。私の気に入った若者、まだパブロという名前も分からなかった若者がやってきて、船の上でパーティーやっているんだ、おいでよ、ゾディアックがあるんだ、僕が連れて行くよと言ったとき、これは罠だわと私は思った。このゾディアックが近づいてくるあいだ、私はどうやって逃げたらいいんだろう、海のどまんなかに閉じ込められているときに人はどうやって逃げるんだろうと考えていた。」(p.79)
「昼食の時間だった。みんなテーブルの周りに座っていた。そんなふうに、彼らと、こんなにくっついてすわり、水と空のあいだにつかまって、食事をしたり、おしゃべりをしたりしなければならないことがあまりにも耐えがたかった。何を話し、どんなふうに答え、赤面したり、耳たぶを押えてその赤みを和らげようとしたり、自分の手、足、髪の毛をどうしたらいいのか分からないのだ。お腹がすいてないの、有難う、と言って、一人で後のソファーにいて煙草を吸っていた。」(p.80)
「目が覚めたときみんな私のまわりで赤ちゃんのように惚けて寝ていた。このパーティーはシエスタのようなものだ。私は日陰とアスピリンを探しに、そしてコンタクトレンズを着けに下に下りた。船室のなかに私の気に入った若者が寝ていた。でも平気だった、だって私は彼のことを愛することはないし、私の中にあるこの空虚のために、かつてアドリアンを愛したようにはもうだれも愛することはないということが分かっていたからだ。彼が私の気に入っているのは果物や歌のようなものだ。私も彼の気に入っているのだと思う。いや彼は眠っていなかった。目を開け、私を見つめると起き上がり、何か言ったが私には分からなかった。なに?彼が繰り返したが、相変わらず私は理解できなかった。私は小さな浴室にはいった。突然、彼の腕が私の回されるのを感じた。彼は私の顔を彼のほうに向け、キスをしてきた、まるでそれしかすることがないかのように。」(p.82-83)
さらにドラッグ中毒になっているルイーズがクリニックに入る直前に父親と会う場面は、作家の父親の前ではいい子でいなければならないルイーズの心の叫びのようなものが感じられる。
「助けて、パパ、私は声にならない声で、優しいパパの目をドラッグ中毒の私の目でしっかり見据えながら言った。助けて、私はつぶやいた。助けて、私たちを近づけるはずなのに、こんなに私たちを遠ざけてしまったこの悪行から私を救い出せるのはパパしかいない。いまはもうおしゃべりをすることもできなくないし、こうして会うのは一年ぶりだし、二年前からパパの視線を避けているし、そして子どもというものは大きくなって恋をして両親を忘れてしまうものだから私も遠ざかっていたとこの二年間パパは思い込んでいるけど、私は恋をしたけど、私には十分な人ではなかったし、その彼は私を愛してくれたけど、私が他の誰かになるか他人になるのを望むような人だった、私は遠ざかっていたのではなく、パパから逃げていたの、パパがいつか見破るんじゃないかとびくびくしていた、でもいまはほら考えを変えたばかりよ、反対にパパには知ってもらわなければ、絶対にそうしてもらわなければ、目の奥で私は叫んでいるのよ、これが私よ、ルイーズよ、助けて、閉じ込められているの、私を助けて、救い出し、そこから引き離すことができるのはパパだけだわ、パパはなんでも分かっているし、なんでもまとめることができる(...)」(p.132-133)
しかし父親と話をしているあいだにドラッグがきれてきて、我慢ができなくなる。
「ボーイがコーヒーを持ってくる。私はポケットの中でディナンテルを手探りする。そっと親指のつめでカプセルをとりだす、また一つ、もう一つ。パパがピスタチオのアイスクリームを欲しがる。パパは頭をボーイのほうに向ける、一瞬、よし、それで十分、カプセルは私の口の中、舌の裏、すこし待つ、そうしなかったらゼラチンのカプセルから粉が出てきて、苦い味に私は顔をしかめるだろうから。私は微笑む。すでに微笑んでいた。しかし私の微笑みは変わって凍りついたようになるだろう。コーラを一口飲む、もう一口。10分後には調子よくなっているだろう。」(p.135)
最後にルイーズはパブロと生きることに新たな希望を見出すのだが、それはパブロの生き方が大いに気に入るからだ。パブロの生き方とは、ルイーズによれば、闘牛のようにつねに闘いのために走り回って疲れることを知らない人間のそれだという。
「たんなるすきものじゃないわね、パブロは、と彼のことをとても気にっていた祖母は言っていた。彼は気取っているんじゃなくて、演じている。演じるというのは私の祖母がいった言葉だが、気取るというのとは正反対のことだ。彼は頭を低くして突進する。彼は牡牛のようなもので、獲物を楽しませなければならない。なぜなら彼の獲物は壁だから。そこが私の気に入った。彼の中のこの永遠の闘牛のようなところ、一人の中に闘牛と闘牛士がいるところが。彼は怖いものなしだ。自分も、人生も、他人も、悪さをされることも、私が前進するのを妨げるすべても。大事なこと、それは走ることだ。これは彼がいつも言っていること。生活を毒するのは、到達ラインを考えすぎることだ、あとで、失ったり、もう走れなくなったりしたときに、考える時間はたくさんできる。私は彼と一緒に走るのが大好きだ。彼は時間にはかぎりがあるということを知っているけれども、そこから一つの物語をつくろうなどとは考えていない人々がもっている力強さがある。」(p.177)
読み始めの頃はいったいなに?的な印象をもっていたが、きわどい描写のなかに現代フランス人の不安な心的状態をこれほどぴったりとで描いた人も珍しいのではないだろうかと思うようになった。
ジュスティーヌ・レヴィの小説翻訳は、Le rendez-vousが『わたしのママ』というタイトルでディスカヴァー・トゥエンティワンという出版社から2008年に出版されている。
国末憲人の『サルコジ』を読んでいたら、この作者のことが書かれていた。しかもサルコジの新夫人であるカーラ・ブルーニがらみで。
「最も騒ぎになったのは、仏哲学者ラファエル・エントヴェンとの結婚だった。
もともとカーラが付き合っていたのはラファエルの父の作家ジャンポール・エントヴェンだった。2000年夏、カーラはジャンポールと一緒にバカンスでマラケシュにyはってきた。その先で合流してきた息子ラファエルとできてしまい、帰りはラファエルと一緒だった。
ラファエルは幼なじみの妻ジュスティーヌと離婚し、カーラを妻とした。間もなく長男オーレリアが生まれた。ところで、ジュスティーヌの父は著名な哲学者ベルナール=アンリ・レヴィで、本人も将来を期待される新進作家である。ジュスティーヌは夫を取られたこの事件を元に、小説『何てことない』を04年に発表した。」(87ページ)
久しぶりのフランス小説である。「私は祖母の葬式にジーンズで来てしまった」で始まるジュスティーヌ・レヴィの『たいしたことは何もないわ』である。1995年に『デート』という小説を出したきりなので、これが第二作のようだ。裏表紙を見ると、『ル・モンド』のジョジアーヌ・サヴィニョーが「明晰で硬い内容に、乾いた文体をもった美しい小説」と絶賛しているし、『マリアンヌ』のパトリック・ベッソンは「人を救うようなエクリチュールはかつてなかっただろう」と誉めている。
こういうのをフランス人は「乾いた文体」と呼ぶのかどうか知らないが、とにかくまったく破格の文体で、いわゆる自由間接話法というのでもない、とにかく本来なら直接話法の部分をそのまま地の文にしたり、接続詞のqueのあとに直接話法がきたりと、フランス語になれていない読み手にはこのjeはだれのことなのかtuはだれを指しているか訳がわからなくなることがしばし。しかしずっと読んでいると慣れてくるから不思議だ。
祖母の葬式にジーンズをはいていって場違いな思いをするが、それはそれだけ祖母の死が私=ルイーズにとって衝撃だったことを示しているという場面から始まる。おばあちゃんがジーンズはお尻が締まってきれいに見えるからいいねと言っていたことなどを回想しているので、最初はこの人はおばあちゃん子だったのかなと思ってしまうが、そうでもなく、話は母親の癌が進行していて、抗がん剤のために髪の毛が全部抜けてしまい鬘をしていると告白しに来たときのことだとか、さらにいまの恋人のパブロとセーヌ川に浮かぶ船のなかでのパーティーで初めて出会ったこと、前夫のアドリアンといざこざと離婚、ボナパルト通りにいまのアパルトマンを見つけたこと、さらに話は過去にさかのぼって、アドリアンと離婚する前の病気と妄想(たとえばアドリアンがルイーズの父を殺したがっている、ルイーズを彼の武器にしたがっているなどという妄想)のこと、2年前からドラッグ中毒になり、必死に昔の自分を取り戻そうともがいているルイーズの精神状態の克明な描写、8ヶ月ぶりの父親との再会、そして時はいまに戻り、パブロとの生活が彼女に救いを取り戻したことで終わる。
何箇所か読み応えのある場面がある。たとえばパブロとの船のパーティーでの出会い。
「パブロとは船の上で出会った。私の気に入った若者、まだパブロという名前も分からなかった若者がやってきて、船の上でパーティーやっているんだ、おいでよ、ゾディアックがあるんだ、僕が連れて行くよと言ったとき、これは罠だわと私は思った。このゾディアックが近づいてくるあいだ、私はどうやって逃げたらいいんだろう、海のどまんなかに閉じ込められているときに人はどうやって逃げるんだろうと考えていた。」(p.79)
「昼食の時間だった。みんなテーブルの周りに座っていた。そんなふうに、彼らと、こんなにくっついてすわり、水と空のあいだにつかまって、食事をしたり、おしゃべりをしたりしなければならないことがあまりにも耐えがたかった。何を話し、どんなふうに答え、赤面したり、耳たぶを押えてその赤みを和らげようとしたり、自分の手、足、髪の毛をどうしたらいいのか分からないのだ。お腹がすいてないの、有難う、と言って、一人で後のソファーにいて煙草を吸っていた。」(p.80)
「目が覚めたときみんな私のまわりで赤ちゃんのように惚けて寝ていた。このパーティーはシエスタのようなものだ。私は日陰とアスピリンを探しに、そしてコンタクトレンズを着けに下に下りた。船室のなかに私の気に入った若者が寝ていた。でも平気だった、だって私は彼のことを愛することはないし、私の中にあるこの空虚のために、かつてアドリアンを愛したようにはもうだれも愛することはないということが分かっていたからだ。彼が私の気に入っているのは果物や歌のようなものだ。私も彼の気に入っているのだと思う。いや彼は眠っていなかった。目を開け、私を見つめると起き上がり、何か言ったが私には分からなかった。なに?彼が繰り返したが、相変わらず私は理解できなかった。私は小さな浴室にはいった。突然、彼の腕が私の回されるのを感じた。彼は私の顔を彼のほうに向け、キスをしてきた、まるでそれしかすることがないかのように。」(p.82-83)
さらにドラッグ中毒になっているルイーズがクリニックに入る直前に父親と会う場面は、作家の父親の前ではいい子でいなければならないルイーズの心の叫びのようなものが感じられる。
「助けて、パパ、私は声にならない声で、優しいパパの目をドラッグ中毒の私の目でしっかり見据えながら言った。助けて、私はつぶやいた。助けて、私たちを近づけるはずなのに、こんなに私たちを遠ざけてしまったこの悪行から私を救い出せるのはパパしかいない。いまはもうおしゃべりをすることもできなくないし、こうして会うのは一年ぶりだし、二年前からパパの視線を避けているし、そして子どもというものは大きくなって恋をして両親を忘れてしまうものだから私も遠ざかっていたとこの二年間パパは思い込んでいるけど、私は恋をしたけど、私には十分な人ではなかったし、その彼は私を愛してくれたけど、私が他の誰かになるか他人になるのを望むような人だった、私は遠ざかっていたのではなく、パパから逃げていたの、パパがいつか見破るんじゃないかとびくびくしていた、でもいまはほら考えを変えたばかりよ、反対にパパには知ってもらわなければ、絶対にそうしてもらわなければ、目の奥で私は叫んでいるのよ、これが私よ、ルイーズよ、助けて、閉じ込められているの、私を助けて、救い出し、そこから引き離すことができるのはパパだけだわ、パパはなんでも分かっているし、なんでもまとめることができる(...)」(p.132-133)
しかし父親と話をしているあいだにドラッグがきれてきて、我慢ができなくなる。
「ボーイがコーヒーを持ってくる。私はポケットの中でディナンテルを手探りする。そっと親指のつめでカプセルをとりだす、また一つ、もう一つ。パパがピスタチオのアイスクリームを欲しがる。パパは頭をボーイのほうに向ける、一瞬、よし、それで十分、カプセルは私の口の中、舌の裏、すこし待つ、そうしなかったらゼラチンのカプセルから粉が出てきて、苦い味に私は顔をしかめるだろうから。私は微笑む。すでに微笑んでいた。しかし私の微笑みは変わって凍りついたようになるだろう。コーラを一口飲む、もう一口。10分後には調子よくなっているだろう。」(p.135)
最後にルイーズはパブロと生きることに新たな希望を見出すのだが、それはパブロの生き方が大いに気に入るからだ。パブロの生き方とは、ルイーズによれば、闘牛のようにつねに闘いのために走り回って疲れることを知らない人間のそれだという。
「たんなるすきものじゃないわね、パブロは、と彼のことをとても気にっていた祖母は言っていた。彼は気取っているんじゃなくて、演じている。演じるというのは私の祖母がいった言葉だが、気取るというのとは正反対のことだ。彼は頭を低くして突進する。彼は牡牛のようなもので、獲物を楽しませなければならない。なぜなら彼の獲物は壁だから。そこが私の気に入った。彼の中のこの永遠の闘牛のようなところ、一人の中に闘牛と闘牛士がいるところが。彼は怖いものなしだ。自分も、人生も、他人も、悪さをされることも、私が前進するのを妨げるすべても。大事なこと、それは走ることだ。これは彼がいつも言っていること。生活を毒するのは、到達ラインを考えすぎることだ、あとで、失ったり、もう走れなくなったりしたときに、考える時間はたくさんできる。私は彼と一緒に走るのが大好きだ。彼は時間にはかぎりがあるということを知っているけれども、そこから一つの物語をつくろうなどとは考えていない人々がもっている力強さがある。」(p.177)
読み始めの頃はいったいなに?的な印象をもっていたが、きわどい描写のなかに現代フランス人の不安な心的状態をこれほどぴったりとで描いた人も珍しいのではないだろうかと思うようになった。
ジュスティーヌ・レヴィの小説翻訳は、Le rendez-vousが『わたしのママ』というタイトルでディスカヴァー・トゥエンティワンという出版社から2008年に出版されている。
国末憲人の『サルコジ』を読んでいたら、この作者のことが書かれていた。しかもサルコジの新夫人であるカーラ・ブルーニがらみで。
「最も騒ぎになったのは、仏哲学者ラファエル・エントヴェンとの結婚だった。
もともとカーラが付き合っていたのはラファエルの父の作家ジャンポール・エントヴェンだった。2000年夏、カーラはジャンポールと一緒にバカンスでマラケシュにyはってきた。その先で合流してきた息子ラファエルとできてしまい、帰りはラファエルと一緒だった。
ラファエルは幼なじみの妻ジュスティーヌと離婚し、カーラを妻とした。間もなく長男オーレリアが生まれた。ところで、ジュスティーヌの父は著名な哲学者ベルナール=アンリ・レヴィで、本人も将来を期待される新進作家である。ジュスティーヌは夫を取られたこの事件を元に、小説『何てことない』を04年に発表した。」(87ページ)