読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

高野山

2009年06月12日 | 自転車
高野山

ついに高野山まで行ってしまった。今日は、最初から高野山に行くつもりではなかった。数週間前に葛城山に上ったあと、これで南大阪のヒルクライムは完了だと書いたのは、南大阪ヒルクライムのサイトには高野山も載っているのだが、あれは南大阪じゃなくて和歌山だし、ちょっと別格で無理だと思っていたからだ。そのうち高野山にはそれなりの決意をしてから、行くだろうけど、いまは無理だ、だって片道だけでも5・6時間はかかりそうだからねと考えていた。

実際のところ今朝もとりあえず高野山のヒルクライムコースの出発点になっている南海電車の高野下駅まで行って引き返しこようと思って出かけたのだ。今日のメインイベントは、帰りに金剛トンネルに五條側から登ることだった。五條側は大阪側とちがってすごく急なので、力を温存しておかないと、大変なことになるぞ、と言い聞かせて、かなり力を抜いてパワーセーブで紀見峠を越え、橋本から九度山を通り、高野下まで行った。

このあたりは子どもが小さかった頃によく来ていたところだ。九度山駅で降りて、丹生川にそって高野下まで川沿いに道がある。それをずっといくとキャンプ場があって、そこでよくキャンプをして、川遊びをしたりしたのだ。うちの上さんがまだ結婚前くらいに、学校からここにキャンプをしにきていたので、家族でも来るようになっていたのだ。今日はそのキャンプ場の反対側の国道370号線を走ったので、川向こうから見えた。いまだにやっているみたい。

パワーセーブと自分に言い聞かせていたのが功を奏したのか、なんだか軽ーく高野下まで来てしまい、時間も家を9時に出たのに、11時には着いた。高野山まで19kmという交通標識を見たとたんに、こりゃ行かなくちゃと決めた。19kmなら1時間で行けるやんという浅はかな読みも手伝ったのだが、これはまったく無鉄砲としか言いようがない。

高野下まではほとんど平坦な道だったが、ここから高野山までは、急坂はないものの、ずっと上り調子で、やっぱ平均スピードは10km/h前後でしょうね。国道370号線が終わって、和歌山のほうから上ってくる国道480号線と合流するところまでとりあえず行ってみよう。そこまで行って、しんどかったら、引き返そうと思っていたのに、その合流地点にプロと思しきローディが休憩していて、ここで引き返したら、かっこ悪いの丸分かり。そこで飲み物を補給し、トイレ休憩をして、高野山方面へ向かう。あと9km。時間はすでに高野下から1時間を過ぎて、12時になっている。

ここから高野山までも同じように激坂はないが、ずっと上り調子で、道はいいけど、車が増えてきた。ずっと頭には帰りの金剛トンネルのことがあって、あれさえなければ、もっと力を出し切るんだけどなと思いつつ走る。12時50分に高野山到着。まさかここまで来てしまうとはおもわなんだ。感激の面持ちで高野山の町をコンビニを探しつつ走る。どうもコンビニがないので、なんでも売ってそうな店で、おにぎりやコーヒー(やっぱ私は疲れを取るにはコーヒーが一番やね)などを食べ飲んで休憩。

休憩をしながら、あちこち眺めていると、ご老人の参拝の団体さんたちがぞろぞろと私の脇を通っていく。そのなかの一人が、私のバイクを珍しそうに眺めて、持ち上げてもいいかというので、どうぞと答えると、へぇって顔。10kgありますよというと、私のはもうちょっと重いな。話に聞くと以前九州から高野山まで8日間(途中で四国も走ってきたとのこと)かけてやって来たらしい。すごい!

記念写真は真っ赤な根本大塔にした。いかにも密教の本山という感じの真っ赤な建物だ。記念写真がすんだら、1時20分すぎに高野山を出発。今度は下り一方だし、急な下りはないので、ブレーキも要所要所でかけるだけだから、手も疲れない。

さて問題は山越え。やはり疲れはたまっており、それに橋本で紀ノ川沿いに走るつもりが、間違えて国道24号線に出てしまい、国道24号線で五條まで行くのはしんどいので、もう来た道を帰ることに。なぜこちらを敬遠していたかというと、371号線は車の量がすごいから。そういうところを上り坂で上るのはごめんだ。五條から金剛トンネルの道は急坂だけどほとんど車が来ない道なので排気ガスを気にすることもない。でも今日はだめだ。とてもそんな気力はない。そこで紀見峠経由で帰ることに。

上りはたいへんだったけど、なぜか峠を越えて、大阪側に入るとぜんぜん車が追い越してこなくて、快適に河内長野までもどり、ついでにこちらも車の多い310号線で帰ってきた。ちょうど4時に無事帰宅。

行きはほとんど曇りでよかったけど、帰りはもう紫外線浴びまくり。これからはあまり遠出をしないで、近場を短時間走ることにしよう。

走行時間5時間55分。走行距離114km。

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『日清戦争「国民」の誕生』

2009年06月12日 | 人文科学系
佐谷眞木人『日清戦争「国民」の誕生』(講談社現代新書、2009年)

最近の朝日新聞の読書欄はまったく私の波長と合わないらしく、ここで紹介されている本で読んでみようと思うような本がほとんどない。またちょっと気持ちをそそられて読んでみたはいいが、面白くなかったなんてこともよくある。職場で毎日新聞の読書欄を読むが、こちらのほうがよほど面白い。そういうなかで、珍しく読んでみようという気になったのがこの本なのだが、読んだけど...という類だった。

たしかに日清戦争を支持した論客たちがどういう論理に依拠していたか―西郷隆盛の征韓論あるいは朝鮮を支配する清の懲罰、そのためにのちに日露戦争に反対するような人でも日清戦争には義があると主張した人が多かった―とか、ジャーナリズムの果たした役割、川上音二郎芝居や自主的義捐金にみる国民の熱狂的支持、学校教育の果たした役割、無名兵士の英雄化によって作り出された国民意識などなど、日清戦争が国民にどれだけ支持され熱狂させたかということを網羅的に描き出している。

この点では、相当の調べもされているし、学ぶことも多かった。たとえば、歌舞伎がこの時期、時事ネタを取り入れようと一生懸命になっていたこと。しかし、川上音二郎一座が日清戦争を取り入れた素人芝居のようなものから、絶大な人気に支えられてあっという間に今日で言うところの新派として成長を遂げたのにたいして、そもそも型によって表現する歌舞伎は戦争物を演じてもまったくリアリティーに欠けたために人気が上らず、日清戦争が終わってからは、時事ネタを取り上げなくなった、つまり「古典」となったこと。

またジャーナリズムの果たした役割についても興味深い。この時期のマスメディアといえば新聞だが、まだ黎明期で、雨後の竹のように多数の新聞が発行されていた。日清戦争にはそれぞれの新聞がそれぞれの責任でもって(身の危険についてもという意味)特派員や従軍記者を派遣して記事を書かせたり、国木田独歩などの作家を送って書かせたところもあった。まだこの時期には軍による統制というものはなく、自由に書けたが、新聞をよむことによって、それまでごく身近なことにしか関心を持つことが出来なかった庶民が、世界の出来事を注目し関心をもつようになり、それが自分を日本国民として意識する契機になったという。

日清戦争後の慰霊祭についての記述も興味深い。佐谷によると1895年4月に国家主催の公式行事として靖国神社で行われた招魂祭では純粋に戦闘で死んだ軍人の遺族だけが招待されたが、同時に多数の余興が行われて、参拝客もごったがえすほどの賑わいだったらしい。陸軍の軍楽、舞楽、花火、馬術披露、川上一座による「日清戦争」「楠公の子別れ」の上演など盛りだくさんだった。他方、軍が主催して行った慰霊祭もこの翌年に行われており、ここでは戦闘で死んだ軍人だけでなく、病死した軍人や軍夫や民間人なども慰霊の対象とされ、儀式も神式だけでなく、仏式でも行われた。佐谷は「軍主導のこの追弔祭のほうが、身分の上下や神仏の隔てがないリベラルなものだ」と見ており、「日清戦争の日本はまだ、戦死者の弔慰方法が確立していない状態だった」という。

ただ私が多少不満に思ったのは、この本のタイトルに「国民」の誕生とあるのに、この点での分析がもう少し物足りなかったからだと思う。たしかに学校教育の修身の教科書にいわゆる進軍ラッパを放さなかった兵士の話だとか日清戦争にいたる経過などが書かれて、初めて日本の子どもたちを日本人として意識させたことや、上にも述べたジャーナリズムの成長が大人にも同じような国民としての意識を確立させたであろうことは分かる。私もこの本になにを期待して読もうとしたのか判然としないので、言葉に説得力がないが、それまでの国民の意識がどうで、それが日清戦争によってどう変わったのかみたいなことが書かれていると期待していたのかもしれない。それでなんだかねーと思ったのだろう。

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