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読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『韓国で行われている「反日教育」の実態』

2019年12月11日 | 評論
チェ・ソギョン『韓国で行われている「反日教育」の実態』(彩図社、2014年)

図書館に行ったら、返却コーナーにあったので、借りて読んでみた。

韓国の義務教育期間における「反日教育」を、歴史教育だけなく、国語、道徳、音楽の教科書にまで広げて、検証したり、学校外で行われているものとして、刑務所博物館の拷問の展示やボランティア活動で慰安婦関連の行事への参加に大きな配点を与えたり、学校後のものとして公務員試験での「反日」的問題や人気の韓国史能力検定試験の国定化などにまで視野を広げて、検証した本である。

島国であったがゆえに、日中戦争や第二次世界大戦のように、こちらか手を出してしっぺ返しを受けたという稀な例は別として、外国から侵略された経験をもたない日本と違って、大陸と地続きで、つねに中国の支配者や北方の騎馬民族の侵略に脅かされ、また国家転覆的なものではないが倭寇による略奪行為の危険にさらされていた半島の人々が、侵略ということに敏感で、二度にわたる日本からの侵略(秀吉と明治維新後の日本)を記憶から消し忘れたくないのは当然のことだろう。

歴史上の事件や人物などの教科書における扱いが時期によって変化する、しかもドラスティックな変化をして、絶賛から削除へとか、無視からクローズアップ化へ、など大きな変化をするのは、韓国社会が、独裁から民主化へ、そして民主化以後も左右の党派の権力奪取戦の激しさを反映しているように思う。

こうして激しい変化に翻弄されているといえばマイナスのように聞こえるが、運動によってドラスティックに変化する流動的な社会といえばプラスにも評価できるだろう。戦後70年以上も保守政権が居座っている日本が安定しているといえばプラス評価だが、牛歩のようにしか変化しないとマイナス評価も可能なのと同じだ。

数日前の朝日新聞でも山陰の観光業界が大打撃を受けているという記事を載せていた(→こちら)が、徴用工裁判から始まった今年の日韓の関係悪化が、政府レベルだけではなく、旅行者のような民間の交流レベルにも大きな影響を及ぼしたのは、本当に残念だ。


『大学教授のように小説を読む方法』

2019年11月13日 | 評論
トーマス・フォスター『大学教授のように小説を読む方法』(白水社、2010年)

小説はすべて過去の小説なり映画なり神話なりに存在する元型(これをテクストという)の、作り直し、パロディー、組み換え、引用であるという文学の世界で広く認められている事実(これを間テクスト性という)から、小説の読み方を学生に示すという趣旨で書かれた本である。

アメリカの大学教授ということになっているので、ほぼ英語圏の文学が取り上げられているが、たぶんフランス語圏やスペイン語圏でも同じだろう。

元型になるもののトップは聖書とシェイクスピアだと指摘されている。聖書にしてもシェイクスピアにしても名前は知っていても、日本では、学校教育では当たり前だが、家庭でも話題になることもないし、社会の雰囲気としてもそうしたことが話題になることはないので、日本人読者にとっては、こうした読み方は鬼門である。まずバックグラウンドが欠けている。

だが、大学教授が大学の授業でこうした読み方を取り上げて授業が成り立つということは、意外と欧米の学校教育でもこうした読み方は教えていないのかもしれない。ちょうど日本で同じような読み方―たとえば、源氏物語とか神話とかを元型とするとか、しないとか―を教えていないように。

15の「すべてセックス」という章ではフロイトの読解手法が取り上げられているが、それによれば槍は男根のシンボル、聖杯は女性器のシンボルという読み替えの仕方は、ほぼここで教授されている文学の読み方の原型であると言える。

昔、ある女性から呼び出されて喫茶店に行き、「私、田舎に帰ろうと思うんだけど・・・」と言われたことがあり、私はよく意味も考えずに「そう、僕は大阪で頑張るよ」と答えたことある。それ以来、何度かこの場面を思い出し、なぜ彼女はそんなことを言うために私を呼び出しただろうかと考えてもよく解らなかった。ある時テレビを見ていて同じシチュエーションになったことがあった。女性は男性に引き止めてほしいと思っており、田舎に帰らないで一緒に暮らそうと男性に言ってほしいと思ってこうした行動に出たことが明らかなので、これを見ていた私は、ようやく分かった。そうか彼女もあの時そう言ってほしかったのかと・・・

こんな調子で日常生活でも言葉の裏を読み取る力のない私が、プロの作家の巧妙な仕掛けを読み取ることが果たしてできるのか、なんとも心もとない。


『新・所得倍増論』

2019年10月29日 | 評論
デービッド・アトキンソン『新・所得倍増論』(東洋経済新報社、2016年)

以前、日本の観光問題を論じたこの人の本を読んだ感想を書いている。こちら

ただ見せるだけの箱物的観光ではなくて、体験型の観光に変えることによって、観光客の満足度を高めるようにしないと、いずれは飽きられてしまうし、日本の観光資源が持っている潜在的な能力を活かすことにならないという提言に、いたく感心した。

同じ視点から(もちろん証券アナリストとしてのデータ分析に基づいて)、日本人労働者の、とくに女性の労働生産性はもっと高めることができるはずで、フランスやドイツやイギリスなみの労働生産性に高めるだけで、所得を倍増することも、GDPを大きくすることも、輸出額を3倍にすることもできるという提言をしたのが、この本である。上の観光問題についての本と同じ年に出版されている。

著者はとくに女性の労働生産性が低いことを問題視している。それは日本女性の能力が低いという意味ではない。いわゆるお茶くみやコピーみたいなことばかりさせられているという意味である(もちろんあくまでも私の感想なので、著者の主張をうまく反映していないかもしれない)。つまり女性も男性と同じような責任ある仕事をしてもらうようにすべきで、そうすることで給与格差も減らしていくべきだという主張である。

これには私も賛成する。日本には有能な女性がたくさんいる。とくに外国語能力は優れた女性が多い。なのに海外出張や外国支社に派遣されるのは英語のできない男性社員ばかり。なぜ外国語のできる女性を活用しないのかと私も思っていた。たぶん対抗会社の社員もどうして日本企業は英語の(またその現地の言語の)できない社員ばかり派遣してくるのかと思っているのではないだろうか。

これなどはわかりやすい例で、氷山の一角に過ぎない。著者が労働生産性の低さとして象徴的に挙げているのが、銀行の窓口が3時で閉まることである。もともとヨーロッパから由来したことらしいが、コンピュータの導入によってヨーロッパではやらなくなったことなのに、ヨーロッパと同じくらいに技術革新が行われている日本ではいまだに、3時に窓口を閉めて、帳簿とお金の照合が行われていることに、意味のない伝統に固執している日本企業の労働生産性の低さの象徴を見ている。

ただこの著者はイギリスにおける労働生産性改善の話としてサッチャーによる改革を挙げているので、この人の言う労働生産性改善の改革を断行したら、日本で実際の経済が労働現場がどうなるのか、ちょっと不気味な感じがしないでもないが、労働人口減少が大問題になっている昨今、真剣に考えてみるべき提言だろうと思う。


『日本ボロ宿紀行』

2019年10月04日 | 評論
上明戸聡『日本ボロ宿紀行』(鉄人社、2017年)

図書館に行ったら返却棚にあって見つけた。なんとも発想が面白い。

普通なら(たぶん私だって)敬遠するようなボロ宿にわざわざ宿泊して、そのボロさ加減や、なかには由緒ある佇まいを楽しもうという主旨の本だ。

第8章の「鳥取の限界集落と出雲への旅」には「山陰エリアは古びた宿の宝庫!?」とある。なんだか嬉しくなる。

私の地元の日野町根雨にもそういう古びた宿がある。ここで紹介したいのは私の同級生がやっていた(というか、彼のお母さんがやっている)「朝勝館」だ。私は地元なので宿泊したことがないが、中学校の同窓会などで使ったことがある。広間もあるし、立派な庭園もあるが、今では老齢の女将が一人いるだけなので、宴会とかはやらず、たまにある宿泊客を受け入れているくらいだろう。

ちょうど撮り鉄の人がこの朝勝館に泊まったときの様子をブログで紹介しているので、そちらにリンクを張っておこう。こちら

そうそうこの朝勝館の老女将は、以前このブログでも紹介したことがある作家の加藤秀行のお祖母さんだ。芥川賞の最終選考に残ったときの記事が、こちら にある。

加藤秀行さんの小説のことは こちら。

私自身が宿泊した宿ということで言えば、大津の三井寺の門前にある「植木屋」旅館がある。高校時代にボート部に所属していた私は、5月のゴールデンウィークに開催される琵琶湖レガッタに参加するために(といっても補欠だったが)一度この「植木屋」に宿泊した。

それで気に入ったので、その二年後に京都に大学受験に来た時にもここに泊めてもらった。その思い出があったので、ずっと気になっていたのだが、数年前に上さんと滋賀に来たついでにここに宿泊した。

突然、見知らぬ人から宿泊予約の電話が入ったので、向こうではびっくりしたらしい。いったい何者だという話になって、予約確認のために私の自宅に電話がきた。その時に、高校時代の話をしたら納得しておられた。今では宿泊する人といえば、西国巡礼の人とか私の母校のボート部が朝日レガッタで宿泊するくらいらしい。そういう人はみんな常連さんなので、知らない人から予約の電話が入ると「だれ?」ということになるらしい。

植木屋旅館を「ボロ宿」に入れるのは失礼かもしれないが、私的には「古い」宿なので、紹介したくなった。決してボロ宿ではありませんよ。

植木屋旅館はこちら



『黄色いベスト運動』

2019年09月28日 | 評論
『黄色いベスト運動』(ELE・KING、2019年)

フランスで昨年の11月に起きてフランス全土に広がった黄色いベスト(ジレ・ジョーヌ)運動とは何だったのかを、いろんな人が語っているパンフレットであるが、よく出来ていて、わかりやすい。

とくに堀茂樹、松尾匡、国分功一郎のインタビューはどれも分かりやすくて、よい。なかでもさすがに堀茂樹は分かりやすく話している。

黄色いベスト運動は、従来のような労働組合主導によるデモではなくて、自然発生的に起きた運動で、指導者もいないという。彼らは、EUが推し進めてきた、そしてフランスでは二期目のミッテラン、シラク、そしてサルコジ、オランドが進めてきたグローバリゼーションによって、ヨーロッパのどこでも能力を発揮して高収入を得ることができる中流上層以上の階層ではなくて、今いる場所から出ることができない、地理的にも、社会的にも、文化的にも、中央の政治や社会から無視されてきた周辺部の人々が、どうしようもなくなって街頭に出てきたのだという。

堀茂樹によれば、フランスでは伝統的に、労働組合や共産党がこうした底辺の人々のネットワークを作っていたのだが、共産党の弱体化や労働組合幹部の支配者側への組み込み(要するに御用組合になっていったこと)によって、こうしたネットワークがなくなってしまい、助け合いもなくなり、ばらばらにされていたという。

フランスでは中道が左右に分かれて、政権を担当してきた。左がミッテランとオランド、右がシラクとサルコジだった。だがグローバリゼーションの完成は、そうした余裕をなくしてしまい、ほとんど左翼のような主張をする極右のルペンが大統領選でつねに最終決戦に残るような支持を得るようになってきたために、中道をひとまとめにするしかなくなり、社会党と共和派連合の枠を取っ払ってマクロンが中道の統合をおこなったということのようだ。(このあたりは国分功一郎の解説による)

従来、フランスでは、選挙で社会党なり共和派連合なりのエリートを選んでおけば大丈夫、彼らが行う政治の舵取りにまかせておけば大丈夫で、必要に応じて、デモによって修正してやればいいという考えだったが、もはやエリートたちは多数になった底辺層のことなど考えていないことが分かった。それを知った底辺層が、エリート支配(EU支配)に耐えられなくなって街頭に出てきたのだという。(これは松尾匡の解説による)

最近はあまりニュースでも取り上げないから下火になっているかもしれないが、問題は何も解決していないわけで、また11月ころになったら、街頭に出てくるのだろう。該当に出てきて、自分たちの要求をアピールする彼ら。私たちも消費税増税反対の声をもっとあげようよ。

『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』

2019年09月24日 | 評論
鈴木敏夫『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』(文春新書、2019年)

スタジオジブリのプロデューサーをしている鈴木敏夫が『風の谷のナウシカ』から『思い出のマーニー』までの制作から宣伝その他までのプロデュースの経緯を話したものを活字化したものである。喋ったものなのですごく読みやすい。

鈴木敏夫って、プロデューサーって言うけど、別にアニメ制作に関わっているわけじゃないし、楽なことやって、スタジオジブリの代表者みたいな顔してるけど、なんなのって、ずっと思ってきたのだが、これを読むと、最初から最後まで、この人と高畑勲や宮崎駿との人間関係、発想、提案、アドバイス、尽力が、ヒット作を生み出すのにたいへんな貢献をしてきたことがよく分かった。

何よりも、常識では計り知れない高畑勲と宮崎駿の関係のあいだに挟まって、二人をまとめていく力、海の物とも山の物ともつかぬ出発点に、この人のちょっとした言葉に二人が力を得て、制作が具体的になって行く様子は、もちろん高畑勲と宮崎駿という人たちあっての上のことにしても、並大抵の精神力ではやっていけないだろうなと思う。

徹底的に調べる学者肌の高畑勲、ちょっとした話しの糸から次々と物語を紡ぎ出す宮崎駿、『風の谷のナウシカ』から『千と千尋の神隠し』までリアルタイムで見ることができたのは感慨深いものがある。

『日本軍兵士』

2019年08月13日 | 評論
吉田裕『日本軍兵士』(中公新書、2017年)

「310万人に及ぶ犠牲者を出した先の大戦。実はその9割が1944年以降と推算される。本書は「兵士の目線・立ち位置」から、特に敗色濃厚になった時期以降のアジア・太平洋戦争の実態を追う。異常に高率の餓死、30万人を超えた海没死、戦場での自殺・「処置」、特攻、劣悪化していく補充兵、靴に鮫皮まで使用した物資欠乏……。勇猛と語られる日本兵たちが、特異な軍事思想の下、凄惨な体験をせざるを得なかった現実を描く。」

アマゾンに載っていた紹介文をそのままコピーして載せた。大義も何もない、ただただ天皇の自己保身のために最後の1年間に多数の戦死者を出した戦争だったことがよく分かる。逆に言えば、1944年の時点で戦争を終結させていれば、・・・・いやいやそれ以前に戦死した人たちだって無念だろう。結局、満州や朝鮮を日本の生命線などと勝手な口実をつけて他国を侵略したのが諸悪の根源なのだ。

慰安婦問題や徴用工問題を話し合いで解決しようとしないで、嫌らしい経済的報復をする安倍内閣の姿には、盧溝橋事件などを起こして、侵略の口実を作っていった戦前の軍部が重なって見えてしかたがない。

わざわざ「表現の不自由」展と断って慰安婦像を展示したあいちトリエンナーレのような企画を中止に追い込んでしまうような風潮が蔓延していることにもたいへんな危機感を抱く。

生活は悪くなる→日常的な不満が蔓延する→そのハゲ口が嫌韓や嫌中となって紛争を引き起こす原因となる。戦前の道を私たちもたどっているような気がしてならない。



『9条入門』

2019年07月26日 | 評論
加藤典洋『9条入門』(創元社、2019年)

内田樹がすぐにでもどこやらをポチるなり本屋へ直行するなりして購入して一読せよとツイッターで書いていたので、そんなに面白い本なのかと思い、図書館で借りてきた。

びっくらこいた、というのが正直な感想だ。まさか憲法9条の戦争放棄宣言がマッカーサーの大統領になりたいという野望から出たものだったとは。

1948年の大統領選挙で勝利して、アメリカ大統領になりたい。

そのためには48年までに占領軍司令官として占領政策を速やかに完了して凱旋しなければならない。

天皇が敗戦の宣言を行うことで数百万の兵士が速やかに武装蜂起をしてほとんどゲリラ戦もなかったことを考えると、日本の占領統治政策の実行には天皇の存在が不可欠である。

しかし極東委員会の諸国の多くは天皇の処分(死刑とか天皇制の廃止)を主張するところがほとんどであり、天皇存続で彼らを納得させるためには、日本が天皇のもとに再び軍事国家とならないとような憲法が必要である。

そこで憲法1条の天皇の象徴化と9条の「特別な戦争放棄」という、今後国連が担っていくであろう世界平和の理念ともいうべき姿を日本に体現させることによって、それが可能になる。

著者によれば、日本の側にも、当時の共産党の野坂参三でさえも「自衛権は放棄すべきでない」と主張したにもかかわらず、首相の吉田茂をはじめとする閣僚たちが声をそろえて「自衛権の放棄」を主張した裏には、マッカーサーの主張に声を合わえることによって、天皇が東京裁判で責任を問われないようにする必要があったというのだ。

いったい憲法9条の出生の秘密を知ったうえで私たちはどうしたらいいのだろうか。

おまけにその後の憲法を国民に周知させる運動が、占領者にすりよった東大法学部の教授たちによって進められていたという事実まで明らかにされている。

戦争に破れた時の国民の「二度と戦争はいやだ」という思いは、こうして幾重にも私物化されてきた。もちろんその最たる姿が日米安保条約によって生じた、アメリカ軍の一翼にすぎない自衛隊の創設と巨大化である。



『音楽という<真実>』

2019年07月12日 | 評論
新垣隆『音楽という<真実>』(小学館、2015年)

偽のろうあ者作曲家の佐村河内守のゴーストライターをしていた新垣隆の告白の書である。

1995年頃、著者が桐朋学園大学の大学院を出るころ、つまり佐村河内守のゴーストライターを始めるまでの話は、本当に嬉しそうな回想で、読んでいるこちらも楽しかった。

だがゴーストライターになって以降の話は、読んでいるうちにだんだん腹が立ってきた。彼にとっては普通の生活では決して実現できない行為、自分の曲をオーケストラで演奏してもらえるという行為が、たとえゴーストライターとしてであれ実現できるということで、いい加減な形で、というか、佐村河内守の虚偽に手を貸す形で、行ったとはいえ、社会的常識から見ての一線を超えないようにしておけば、こんな悲惨なことにはならなかっただろうに。

ゴーストライターそのものは現実に存在するのだろうし、それ自体は非難されるべきものではないと思う。

だが、今回の件は、ゴーストライターという詐欺の他に、佐村河内守の詐欺があった。つまりろうあ者ではないのにそうだとして世間を欺いたことである。

そして彼がそういう作曲家として社会との関わりを持った(障害のある子どもの指導をするとか、ろうあ者作曲家としてCDを売ろうとしたとか)ことが問題を引き起こした。

この本のタイトル『音楽という<真実>』というのは、音楽だけは嘘を付けない(つかない)という意味なのだろうが、著名な批評家に詐欺ではないかと指摘されて、やっと真実を話す機会が得られたとホッとしたという告白は、連続犯罪者が早く俺を止めてくれと犯罪の中に自分をアピールするのに似ている気がして、これまた不愉快な思いを抱いた。

いわくつきの作品『HIROSIMA』第一楽章




『メイド・イン・ロンドン』

2019年07月08日 | 評論
熊川哲也『メイド・イン・ロンドン』(文藝春秋、1998年)

最近熊川哲也がダンサーとしてのキャリアを終えた機会に出版した『完璧という領域』という本があるが、これはロンドンのロイヤルバレエ団のキャリアを上り詰めて退団したのを機会に自分の半生を振り返った本だ。

大まかな区割りとしては第四章までの半生記が面白い。日本では男子のダンサーはマイナーだから、ダンサーとして生きていくことには相当の勇気が必要だったと思うのだが、中学生の時に著名なマエストロに見出されて、一気にロンドンのロイヤルバレエスクールに入団したのがよかったのだろう。

彼の半生記を読んでいると相当の自己主張をする人のようで、これも外国でキャリアを積み上げるには絶対に必要なことだったのだろうと思う。指導者の言うことをなんでも忠実に守るだけのタイプでは伸びることはなかっただろう。

そのいい例がローザンヌ国際バレエ・コンクールへのエントリーだが、これだってバレエスクールにいて、順調にキャリアを上がりつつあったことからすれば、必要ないものだが、自分の名前を世界に売りたいという彼の我の強さが功を奏したことになる。

その時の動画がある。



私のようなバレエ素人にもすごいと思わせるものがある。

この後彼がKカンパニーを設立して、自分で資金集めからプログラム作りからやってきて、とうとうダンサーとしてのキャリアを終えることになった現時点で到達した心境を綴っているのだと思われる『完璧という領域』という本も読んでみたいものだ。