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読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『警察庁長官狙撃事件』

2019年06月21日 | 評論
清田浩司・岡部統行『警察庁長官狙撃事件』(平凡社新書、2019年)

1995年歴史上稀に見る事件であった地下鉄サリン事件の直後に起きた警察庁長官狙撃事件の真犯人を追って、その目的、方法、真犯人の人物を追求した本である。

この本を読んで感じるのは、たしかに真犯人による供述や告白があってのことだが、その供述の裏を取るということが、いかに重要かということが分かる。

ほぼ不可能と思われたアメリカでの拳銃や銃弾の売買や射撃練習などの裏取りが現地に行ってみれば(もちろん優秀な通訳やアドバイザーあってのことだが)可能だということ。なんでもその気になれば調べられるということだ。

そして最も衝撃的なことは、犯人の中村泰のこともそうだが、それ以上にはっきりと中村泰が真犯人だという裏が取れているのに、オウム真理教が犯人だということを前提にした公安出身の米村警視総監の妨害によって真犯人を立件できないで迷宮入りにしてしまい、時効になったことである。

警察庁長官が瀕死の重傷を負わされた事件だぜ、警察のトップが死にそうになった事件だぜ、その真犯人が誰の目にも明らかになっているのに、警視庁のトップのエゴのために立件できないって。殺されそうになった国松長官も何も言わないって、どういうこと!!日本の警察組織、腐ってる。

前にグリコ事件の件で、大阪府警のトップがバカだったので、真犯人を取り逃がしたという話のことを書いた時にも触れたが、テレビドラマ『踊る大捜査線』での警視庁幹部の責任のなすりつけあいはドラマの上の話ではなくて現実のことだと書いたが、それを裏付ける出来事がこの事件だろう。




『「安倍晋三」大研究』

2019年06月01日 | 評論
望月衣塑子『「安倍晋三」大研究』(KKベストセラーズ、2019年)

強制不妊問題についての5月28日の仙台地裁の判決は「旧法は個人の尊厳を踏みにじるもので、誠に悲惨だ」として、幸福追求権を定めた憲法13条に違反するとの判断を示した。

 一方で、被害者救済に向けた立法措置をしてこなかった国側の責任を認めず、原告の請求を棄却した。20年間で損害賠償請求権が消滅する除斥期間の適用についても「憲法に違反しない」とした。

要するに、優生保護法は違憲だが、被害者救済のための措置をなんらしてこなかった国にはなにも責任がないというわけだ。

この判決よりも先に安倍首相が政府声明を発表した。4月24日この問題の救済措置の法律が成立した時である。その時の全文は次の通り。

「本日、旧優生保護法に基づく優生手術等を受けた者に対する一時金の支給等に関する法律が成立いたしました。
 昭和23年制定の旧優生保護法に基づき、あるいは旧優生保護法の存在を背景として、多くの方々が、特定の疾病や障害を有すること等を理由に、平成8年に旧優生保護法に定められていた優生手術に関する規定が削除されるまでの間において生殖を不能にする手術等を受けることを強いられ、心身に多大な苦痛を受けてこられました。このことに対して、政府としても、旧優生保護法を執行していた立場から、真摯に反省し、心から深くおわび申し上げます。
 本日成立した法律では、厚生労働省が一時金の支給の事務を担うこととされています。今回の法律が制定されるに至った経緯や趣旨を十分に踏まえ、政府として法律の趣旨や内容について、広く国民への周知等に努めるとともに、着実に一時金の支給が行われるよう全力を尽くしてまいります。
 また、このような事態を二度と繰り返さないよう、全ての国民が疾病や障害の有無によって分け隔てられることなく相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に向けて、政府として最大限の努力を尽くしてまいります。」

「このことに対して、政府としても、旧優生保護法を執行していた立場から」と、まったく他人事のような文言である。まるで、「政府は同じ政府ですけど、私が首相の時の話じゃないんで、まぁ一時金の支給で収めてください」と言っているように聞こえる。

これと似たような発言を安倍首相がしている。2013年に国会で民主党(当時)の細野議員から消えた年金問題の責任を問われて、「私のときに発生したんじゃない」「私のときにわかった」だけだと開き直った。これと同じ構図が上の声明に見える。

ちょうど韓国の慰安婦問題にたいして、政府の責任を認めず、アジア助成基金という団体に金を出す形で、これでおしまいにしようぜということをやってきたのと同じ感覚である。

日本で総理大臣(=国家元首)になるということは、これまでの日本政府を背負って立つということを意味する。それはどの国の国家元首であっても同じはずである。つまり国家元首という公人の責務はそれまでの政府を背負って立って、過去の政府が行ってきたことで問題が生じれば、その時点でベストな対応をして、それがもし過ちを認めて謝罪するということであるのならば、そうするのが国家元首の責務だろう。自分が首相のときにしたことかどうかとか、自分の責任じゃないというようなことは問題にならない。だが安倍首相にはそのような自覚も責任感もまったくない。

この本を読むとそういう安倍首相の本質が分かる。

さらに1999年に起きた下関市長選挙での選挙妨害や、そのために安部サイドが建設会社社長でブローカーの小山佐市に約束していた大規模事業への関与(数億、十数億の事業への参入約束)を反故にしたことに起因する小山による安倍晋三自宅への放火事件などの真相も詳細に書かれている。ネットでチラチラ見かけただけでよく分からなかった話だったがよく分かった。

読んでよかった。もちろん内田樹との対談も面白い。編著者の望月衣塑子さんにはこれからもこのスタンスからぶれないで取材執筆活動を続けてほしい。


『不死身の特攻隊』

2019年05月18日 | 評論
鴻上尚史『不死身の特攻隊』(講談社現代新書、2017年)

佐々木友次さんという北海道出身の特攻兵が9回特攻命令を受けながらも、死んでこいという上官の命令に反抗して、生きて帰ってきたという話を書いたもの。

第一部で別の本にもとづいて、佐々木さんの飛行機乗りとしての経歴と最初の特攻命令を受けてから、終戦になって帰国するまでをルポ風に記述している。

第二部では鴻上尚史が三回にわたって90才を超えた老齢の佐々木さんにたいするインタビューを記したもの。

第三部では、特攻全般についてまとめている。

以前も書いたことがあるが、私も戦争なんかで死にたくないので、長男を戦艦大和で死なせた祖母の話を聞くたびに、戦争になったら山の中に逃げ込もうとかいろいろ考えていたので、特攻命令を受けても死ぬことはない、戦艦や船を沈めることが本来の目的なのだから、それを目指そうとして、2回成功させ、それが不可能な状況の場合には帰還したり、不時着したという佐々木さんの話には心打たれる。

しかしインタビューの中でも自らそう言っているように、これは下士官だからできたことで、将校にはできないことだっただろうと、私も第一部を読みながら思っていた。

それにしても命令する側がのうのうと生きていられるのが腹立たしい。これは明治維新の頃からの伝統のようだ。会津藩の白虎隊だって、総攻撃を命じた人間は生きて(つまり自決することなく)天寿を全うしている。集団自決したのは世間のことを何も知らない若者たちだけだ。佐々木さんに死んでこいと何度も命令した猿渡参謀長もこの作戦の最高責任者であった富永司令も米軍のフィリピン上陸に部下たちを捨てて先に台湾に逃げている。

特攻のようなことが成り立つ日本人の精神構造の特徴として「集団我」ということを著者は書いているが、たしかにそうなんだろうと思う。スポーツでも個人戦よりも団体戦のほうがいい結果がでるというところに、この日本人の特徴が現れている。

それにしても特攻というは過去のことではない。この本の最後で、2016年の自衛隊の南スーダンへの「駆けつけ警護」作戦への参加に、同じことがあったと答えている自衛隊員がいるそうだ。「1944年と2016年が一気につながった瞬間でした」と書かれている。

二度とこういうことがないようにするためにも日本は戦争をしてはならないと思う。


『困難な結婚』

2019年04月26日 | 評論

内田樹『困難な結婚』(ARTES、2016年)

内田樹が結婚の話って、なんか軽い読み物だなと思いつつ、手にしてパラ読みをしたところ、なんか面白そうなことが書いてあることが分かり、借りてきてしっかり読むことにした。

さすがに内田樹、ただものではない。のっけから面白い。
「もっといい人」は現れません
結婚しちゃえばだいたい同じ
配偶者が変われば、あなたは別人になる
社会の原理と戦うために結婚する
お金がないから結婚する
今より幸せになるために結婚してはいけませんとか・・・

ほらほらもう読んでみたくなってきたでしょう。

まぉ私も結婚して40年近くになるし、30才台は無我夢中、40才台にはあれこれもめるなんて経験もしてきたので、内田樹の主張にはほぼ納得。もちろんお金がないからこそ二人で助け合っていくために結婚するなんて発想はなかったが、よく考えてみれば、そのとおりだと納得。

子ども誕生と子育てによって人は変わるというのも、実際に自分が経験してきたことなので、納得。

戸籍とか、家庭にはボスがいたほうがいいとかという問題は納得していないが、家族の一体感は姓を一つにすることによって出来上がるわけではないという話も納得。

家事の分担は、若い夫婦にとって永遠の問題でしょうね。絶対的な公式があるわけではない。それぞれの夫婦で話し合って落とし所を見つけるしかない。

小遣い制はやめようとか、家事の分担の問題などは、当然のことながら、共働き夫婦であることを前提に語られている。

私の周りにも30才台、40才台で未婚の男女がたくさんいる。もちろん独身でいることが不幸せだなどとは言わないが、結婚生活の幸せ・不幸せも経験してみるのがいいと思う。

結婚を人生の墓場とも人生の楽園とも見ていない、リアルな、そしてそれなりの楽しみも見いだせる、内田樹の結婚話、これは一読に値する。




『父・金正日と私 金正男独占告白』

2019年04月19日 | 評論

五味洋治『父・金正日と私 金正男独占告白』(文藝春秋、2012年)

金正男は2017年2月に暗殺されるまで、おそらく半島ウォッチャーにとっての最大のターゲットだったと言っても過言ではないだろう。

北朝鮮に入るのも簡単ではないし、そこでなんらかのジャーナリズム的な取材をすることはほぼ不可能であるのに対して、金正男は、とくに金正日の死の前に継承者から外されて以降、気楽になったこともあってか、外国の取材なども受けるようになったからだ。

その金正男に2回も面談して行った取材や150通にもおよぶメールのやりとりを通して浮き彫りになった金正男の人となりを伝えようとする本である。

著者も断っているように、できるだけ本人の人柄なりがストレートに出るように、メールの内容や面談での語りに手を加えないで掲載するという手法を取っている。

言葉の詳細や背景については注の形でまとめて書かれているからそれも参考になる。

実際には数日の時間を置いてやり取りされたメールが次々と並べてあるので、時に退屈に思えたり、こんなにしつこく次々と質問して機嫌を損ねることはないのか、と心配したりしながら、読んだが、金正男の人柄なのか、丁寧に答えている。

金正男も言うように今の北朝鮮の国民の生活をよくするには市場開放しかないだろうが、父親の金正日が猛反対だったそうだ。市場開放することで外国の情報がどんどん入ってきて、統制が効かなくなり、反体制派が強力になって、「アラブの春」のように権力から引きずり下ろされてしまうことを恐れていたのだろう。

結局は核開発によってアメリカを威嚇し、それと引き換えに経済支援を引き出すしか能がない。それが韓国にも宥和派のムン・ジェイン政権が出来、アメリカもこれまでと違うトランプ政権になって、新たな展開が期待されたのだが、トランプも軍の強行派に押し切られて、終戦の合意を取り付けることを断念したようだ。

やはり金正恩は、兄金正男を生かしておいたら、市場開放派と手を組んで自分を倒しかねないと恐れていたんだろうな。だから彼を暗殺してしまったのだろう。


『フランス人は10着しか服を持たない』

2019年04月17日 | 評論

スコット『フランス人は10着しか服を持たない』(大和書房、2014年)

いわゆるフランス人レスペクト物の一冊である。これらの多くはアメリカ人が書いたものというのが味噌である。つまりアメリカという伝統を持たない大量消費社会から見ると、フランスという伝統をもち、(アメリカ人から見たら)コンサバティブな国民の生活の仕方がすごく新鮮に見えてくるのだろう。

ここで書かれていることの要点は、フランス人は自分たちの生活実態に見合ったレベルの、質のいいものを味わう(着る、食べる、鑑賞する)ことを心がけているという一点にある。

食事も近所の気心の知れた店で買ってきた新鮮で品のいいものを自ら料理して家族で味わう。

服も自分に似合うものはなにかを知ることで、お気に入りの服を季節に10着程度だけ出して、それを着回しする。

住居も品のいいものだけを大事に使う。食器も自分たちの鑑識眼で揃えた品のものを普段使いする。

自分の教養を高めるために本を読み、旅行をし、美術館などの鑑賞をする。

たまたまこの著者がホームステイをしたホストファミリーが貴族ということで、とりわけコンサバティブな生活の仕方をしていた人たちだったということも、著者に強烈な印象を与えたのだろうけども、スクラップ・アンド・ビルドの好きな日本人にも、教訓になるところがたくさんあると思う。

フランス人って本当に・・・?と思わないで、一種の生き方本として読めばいいのではないだろうか。軽い本のわりにはけっこう面白いものだった。

アマゾンを見たら、すごい売れているだね。


『日本軍のインテリジェンス』

2019年03月30日 | 評論

小谷賢『日本軍のインテリジェンス』(講談社選書メチエ、2003年)

加藤陽子が『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』で紹介していたので、読んでみた。未曽有の戦死者・負傷者を出した太平洋戦争へいたる日本政府や日本軍の情報活動について詳述した本である。

生の情報であるインフォメーションを分析して、大局的であれ、直前的であれ、様々な局面において使用可能な状態にしたものがインテリジェンスであるという分類にもとづいて、暗号解読や現地の日本人(大使から派遣武官その他)の情報収集に優れていたにもかかわらず、日本政府や日本軍が進むべき道、取るべき方向を間違えたのはなぜか、という観点からいろんな事例が紹介されている。

独ソ戦勃発の情報の処理のあり方について触れたところで、課長級による部内の意見取りまとめ→参謀本部作戦部長→陸軍省軍務局長→陸軍省次官→参謀本部次長→陸軍大臣→参謀本部総長の決済を経て、陸軍の試案が作られる→さらに海軍をはじめとする他省庁との調整という煩瑣な過程を示し、こんなことではどんなに的確な情報も有効に利用することはできないと指摘する。

他方イギリスの場合は情報収集→JIC(情報集約・評価)→首相(政策決定)と、きわめてシンプルだと評価している。

なによりも根本のところで、日本軍は「作戦重視、情報軽視」であったと指摘されており、上記のように、生の情報を分析するための過程が重視されなかったので、生の情報がそのままトップに伝えれ、それが政策決定者の都合のいいように解釈されたことで、間違った判断を生み出す結果になったと批判している。

ここではいちいち具体例を挙げることはしないが、太平洋戦争にいたる政策決定や、戦争中の様々な決定にいたる情報の扱いを見ていると、こんな無能な連中のために、何百万もの日本人が無駄死にさせられたのかと、忸怩たる思いになる。

これは、70年近い昔の話であって、現在とは関係ないとは言い切れない。首相の発言に忖度するために、文書が書き換えられたり、統計数字が改ざんされたりする事態は、70年前となんら違うところはない。三本の矢だとか、有効なインフレーションを起こして雇用を増やすなどの首相発言を忖度した連中の間違った情報で、自分の政策が正しかったと成果を誇る安倍首相を見ていると、嘘八百の大本営発表とそっくりだなと思えてくる。


『日本の朝鮮統治を検証する1910-1945』

2019年03月21日 | 評論

アキタ&パーマー『日本の朝鮮統治を検証する1910-1945』(草思社、2013年)

家の中では歩けるようになったが、また外歩きをするほどではなく、読書の時間が有り余るほどあるので、よく読める。

この本は、日本の朝鮮統治を民族史観的立場から史上最悪の「暗黒時代」とする主張に対して、自ら修正主義であると公言して、「日本の統治が様々な恩恵を朝鮮とその人民にもたらしたことを証する」ために書かれたものである。

このような立場においてこの本の著者たちが、可能な限り公平で科学的な立場を貫いていこうと努力していることは一読すればよく分かる。

まず第一章と第二章で日本の朝鮮統治政策に対する否定的見解を列挙して、それらがどのようなものなのかを示す。

第3章と第4章では朝鮮での徴兵制度や朝鮮統治の主役たちの同化政策のイデオロギーを精査している。また第5章では日本統治下の朝鮮の暮らしがどんなものであったかを現在はアメリカに在住している朝鮮系の人々からの聞き取りで示している。

そしてご丁寧にも欧米列強がアジアやアフリカでどのような植民地政策を行い、そこでの人民たちがどんな扱いを受けていたかを示して、それに比べたら、日本の統治は穏健であったことを示そうとしている。

挙げればきりがないのだが、それでもこの本に根本的に欠落しているのは、日本の朝鮮統治は侵略にほかならないという大前提である。日本の総督府が朝鮮でどんな近代的遺産を文化やインフラにおいて残そうとも、そしてそれが戦後の朝鮮の経済発展の重要な土台になったのだとしても、そもそも日本の朝鮮統治は、朝鮮から頼まれもしないのに武力をもって他人の国に押し入り、頼まれもしないのに国を支配するという、あってはならない行為であったことには変わりない。

加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』が冒頭から明らかにしているように、明治日本は一貫して朝鮮半島を「生命線」として捉えていた。だがそれは日本の都合だろう。朝鮮が日本の「生命線」だからといって、あるいは朝鮮が日本と同じように「近代化」の道に進もうとしないからといって、朝鮮を侵略していいということにはならない。

昨今では、こうした朝鮮統治時代の遺産が現代の朝鮮の発展の土台となったことをもってして、あれは決して侵略ではなかったなどという主張さえあるようだ。

朝鮮からはいかなる被害も受けていないのに、他人の家に勝手に上がり込んで、他人の家の中を無茶苦茶にした(きれいにリフォームした、というべき?)ことは、けっして拭い去ることはできない。

したがって民族史観的統治批判が事実に基づかない側面があると言って、客観的な事実にもとづく統治批判をせよと主張したところで、意味がない、というか朝鮮の人々の心に響くことはないだろう。


『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』

2019年03月18日 | 評論

加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫、2016年)

先週の金曜日(15日)に孫たちが遊びに来て、こんどサッカークラブに入るという孫がサッカーをしようというので、じいちゃん・ばあちゃんと孫二人でやり始めたところ、普段使わない筋肉を使ったせいか、肉離れを起こしてしまった。痛いけど歩けるという軽症ではなくて、痛くて歩けない中程度の症状のようだ。肉離れにはRICEが大事という。安静、アイシング、圧迫、高くする。安静とアイシングなら自分でもできるので、それから家から出ずに、ずっと安静状態にしていた。本を読むことぐらいしかできない。

1894年日清戦争、1904年日露戦争、1914年第一次世界大戦、1931年満州事変、1941年太平洋戦争と、10年毎に対外戦争を行ってきた近代日本の軍事史を政治や世論の動向をからませながら解き明かした本である。もともとは栄光学園の高校生を相手に5日間で行われた講義をもとにしたものだという。したがって、語り口も柔らかで読みやすい。

「それでも日本人は戦争を選んだんだよ」というこの本のタイトルからこの本が出版された2009年くらいから読みたいと思っていた本であったが、それでも日本人は戦争を選んだというところにもう少し重点が置かれているのかと思ったが、そうでもなかった。上記の軍事史をきちんとした資料をもとに分りやすく解説するものというにすぎなかった。だからといって、つまらない本というわけではない。

この本を読んで私が思ったことは、軍隊を大きくしてはいけないということ。軍人には軍人の行動原理がある。それは決して国民の生命と財産を守ることを主眼としているわけではない。そういう人間や団体が国家の運命を動かすようなほどに巨大化したらどんなことがあっても戦争の道に突き進むほかない。シビリアンコントロールとか言うが、軍部が巨大化したら、そんなコントロールなど効かなくなる。それをこの軍事史は教えてくれる。


「平成の30冊」

2019年03月10日 | 評論
朝日新聞「平成の30冊」(3月7日号)

朝日新聞の3月7日号に「平成の30冊」というのが載っていた。

ベストテンの中では、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』、桐野夏生『OUT』、小川洋子『博士の愛した数式』、小熊英二『<民主>と<愛国>』、村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』を読んでいる。

さらに11位から30位までの20冊の中にも読んだものとして、山本義隆『磁力と重力の発見』、福岡伸一『生物と無生物のあいだ』、高村薫『マークスの山』が入っている。

識者120人が5冊を選び、1位は5点で、5位が1点という点数化によって集計したとある。誰が何を選んだのかも知りたいが、それは書かれていないようだ。

例えば桐野夏生の『OUT』を私はものすごく高く評価しているのだが、どんな人がこの小説を評価しているのだろうか。私は描かれた女主人公の骨太さに感心したのだが、ノンフィクション作家という人が「繊細にして凶暴、複雑で魅力的な人格を入れ込み、読者を驚嘆させた」と書いているのを見ると、私と同じような感想を持ったのだなということが分かる。

これを目安に今後の読書案内としていこうと思う。

以下に私の感想にリンクしておく。

カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』

桐野夏生『OUT』

小川洋子『博士の愛した数式』

小熊英二『<民主>と<愛国>』

村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』

福岡伸一『生物と無生物のあいだ』

山本義隆『磁力と重力の発見』

高村薫『マークスの山』→これは『レディー・ジョーカ』についての感想。『マークスの山』も書いているとおもったが、勘違いだった。でも高村薫について書いているのはこれしかないので、こちらにリンクを貼っておく