仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

仏像と日本人―宗教と美の近現代

2018年09月06日 | 都市開教

『仏像と日本人―宗教と美の近現代』(中公新書・碧海寿広著)、新刊本コーナにあったので借りてきました。

本に記された内容案内に次のようにあります。


仏像鑑賞が始まったのは、実は近代以降である。明治初期に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐、すべてに軍が優先された戦時下、レジャーに沸く高度経済成長期から、〝仏像ブーム〟の現代まで、人々はさまざまな思いで仏像と向き合ってきた。本書では、岡倉天心、和辻哲郎、土門拳、白洲正子、みうらじゅんなど各時代の、〝知識人〟を通して、日本人の感性の変化をたどる。劇的に変わった日本の宗教と美のあり方が明らかに。(以上)

仏像の本は多く出版されていますが、仏像を通して、その仏像を見る側の意識の変化に触れている論書は希少です。前書きに次のようにあります。


仏像は日本の至るところに存在する。たとえば路傍の石仏だ。全国津々浦々、道を歩く途中で地蔵などに出会う。しばしば、花か供えられていたりもする。仏像に、誰かが何かを祈っているのだろう。どこにでもある風景だ。
 一方、博物館や美術館にも仏像はよく展示されている。奈良時代や鎌倉時代の仏像の前で、人びとはそれらの歴史的な位置づけを学び、あるいは造形上の魅力を語り合う。顔がとても美しいとか、写実的な表現だとか、いろいろと語り合う。こちらも、よくある光景だろう。
 日本の仏像をめぐる、ありきたりの風景と光景。だか、この二つには、決定的な背景の違いが存在する。前者は、仏教か古代の日本に伝来してから後、広く見られるようになった風景である。それに対し、後者は明治以降とりわけ戦後になり、ようやく普及した光景である。つまり両者のあいたには、近代にもたらされた歴史的な断絶があるのだ。
 その断絶をつくった最大の要因が、美術という考え方である。近代以降、西洋的な美術鑑賞の文化か日本に輸入され、やがて、仏像もまた美術品ととらえる風習が形成される。その結果、仏像を信仰対象として拝むのではなく、美術品として鑑賞し語る人びとか増えた。木書が詳しく論じるのは、こうした仏像をめぐる近代以降の変化である。
 もっとも、近代以降の変化によって、仏像が宗教や信仰の世界から美術の領域へと、一挙に連れて行かれたわけでは、もちろんない。仏像を信仰対象として拝む人は、いまもたくさんいる。のみならず、仏像を美術品として鑑賞しながら、なおも宗教性をともなう経験をする人びとも出現してきた。本書は、こうして美術と宗教のあいだで揺れ動く、近現代の日本人の心模様を追跡する。そして、そこに見出される、新しい宗教性の諸相を明らかにしていきたい。(以上)(つづく)
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