仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

言葉が語る

2018年09月08日 | 浄土真宗とは?
『智慧の潮 親鸞の智慧・主体性・社会性』(ケネス・タナカ編・著)第七章 親鸞浄土教におけるホーリズムとその意義――ハイデガー哲学に照らして(デニス・ヒロタ)は、ハイデガー哲学の類似性から親鸞聖人の信心の世界をあきらかにしようとするものです。

論説は、深く理解できませんが、言葉の使い方に興味を持ちました。興味を持った言葉を紹介します。

親鸞にとって信心獲得とは、自己の主観的決断や精神作用ではなく、自己と世界、自己と仏が共に新たに出現し自覚されることである。


つまり、ハイデガーが被投性(投げ入れられていること)と事実性について語るのに対し、親鸞は悪業と生死的存在について語るのである。さらに両者とも、人間に自身の存在の避けることのできない業的有為性を本能的に無視する傾向があることを明確に自覚していた。したがって、二人の思想家にとって中心問題は、自覚の可能性と、その自覚がどのように無知の内に起こりうるのか、というごとであった。

言葉はそれ自身、特質上人間の自覚を可能にするものであり、人間が環境に反応することを可能にするのみならず、規範性あるいは正義の感覚を伴って、対象を特定の事物として同定することを可能とする。これは、意味や内容の文脈化された可能性であり、その可能性によって、人間は単純な記号や信号の地平を超え、言語的次元の内で生活することができるようになるのである。言語的次元では、事物は、言葉を通して、新しい感情的な意味や価値を獲得するのである。ハイデガーの、人よりはむしろ「言語が語るのだ」という場合の逆転は、枠はめ理論というよりはむしろ、「構成」への転換である。(以上)


“言葉を通して、新しい感情的な意味や価値を獲得するのである”。この言葉の問題について、デニス・ヒロタ氏には、『親鸞―宗教言語の革命者』(法蔵館)がありあます。丁度、県立の図書館が蔵書していたので借りてきます。
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