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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

こんな幸せはありません

2013年11月15日 | 日記
昨14日、8日に死去された歌手・島倉千代子さん(享年75)の葬儀・告別式が14日、東京・青山葬儀所で営まれ放映されていました。

「私の部屋の中にスタジオができて、それで私はできる限りの声で歌いました。自分の人生の最後に、もう二度と見られないこの風景を、見せていただきながら歌を入れられるって、こんな幸せはありませんでした」

 亡くなる3日前、自宅に機材を持ち込み、新曲「からたちの小径」のレコーディングを行った折の肉声だという。

死を受け入れたとき、多くの人が豊かな眼差しで今を受け入れます。まさに臨死の場は、豊かな人間の可能性を見せていただく場でもあります。そのようなことを感じた葬儀報道でした。
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バチが当たるとは

2013年11月14日 | 仏教とは?
昨日(25.11.13)は、築地本願寺の報恩講へ門信徒有志(27名参加)と共に参拝しました。そして帰りがけに、スカイツリーに上ってきました。参加者の皆さんも初めてで、快晴の青空の下にひろがる関東平野を一望できました。と言っても地球は丸いので地平線の稜線に拒まれて、関東平野は一望できません。350m、さらに450mと、その高さのちがいも楽しめました。

スカイツリーに到着すると「本日は茨城県民の日のため、混雑しています」とのアナウンス。私たちは、団体チケットもすでに持っていたので、そのまま入れましたが、直接来た人は、1時間ほど並んだようです。私は茨城県民の日と聴いて、山岡鉄舟のことが思われました。

1871年(明治4)年11月13日、初代県令(今の知事)に山岡鉄舟が赴任され、県庁が水戸城の中におかれています。

山岡鉄舟の話を、いくつか法話でしますが、その中の1つをご紹介します。

鉄舟が江戸で剣術の指南をしていた時のことです。ある弟子が、「先生、先生は常日頃、神仏に罰が当たると言われますが、私など毎日、道場に来る途中で、神社の鳥居の前で小便をしてきますが、一向に罰が当たったことはありません」を言った。すると鉄舟は、「馬鹿者、鳥居のまでに小便をする奴があるか、鳥居の前で小便をすることは犬畜生のすること。おぬしはすでに成人でありながら、犬畜生の分斉に落ちたということじゃ。それが罰が当たった姿じゃ」と言い放った。(以上)

神仏の罰を未来ではなく、「今」に味わっているところが好きな話しです。
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しなかったという業

2013年11月13日 | 日記
産経新聞(25.11.12)の朝の詩に次のような詩がありました。

過去

千葉県流山市 小名木 繁雄(55)

過去は
自分のしたことで
できている
そして
悔しいのは
しなかったことでも
できているということ

(選者 新川和江)

過去は、したこと出来ているだけではなく、しなかったことでもできているという視点が新鮮でした。
考えてみると、私流にいえば、「過去はしたことでできてる。現在は、しなかったことでできている」と言いたい面があります。
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ケアの社会学

2013年11月12日 | 日記
日曜日(25.11.10)、大分から羽田空港までの飛行機の中に4時間座っていたことを書きました。4時間すわらされたおかげで、出来たこともありました。それは持参していった図書館で借りてきた上野千鶴子著『ケアの社会学―当事者主権の福祉社会へ』を、少しですが目を通すことができたことです。なにしろこの本は500頁上下2段に小さな文字で書いてある書物です。気になるところだけ読んで思っていました。

“当事者主権”という題名にもあるように、従来、ケア(care)の原義が「心配する」「気をもむ」であるように、ケアを提供する側でケアを考えるということが一般的でした。

私は、福祉活動の上でのケアには疎いのですが、スピリチュアルケアでいえば、たとえば『スピリチュアルケア入門』(窪寺 俊之 著) には、下記の様にあります。(以下同書よりの抜粋)

患者の目の高さ、痛みのレベルに視点をおき、一緒に苦痛や時間、空間を共有しながら患者の必要に答えるのがケアである。特に不安や恐怖、孤独感の強い人には一緒に居るだけでもケアとなる。

メイアロフの基本的なケア理解は「ケアはその人が成長すること、自己実現を助けることである」にあり、彼は基本的理解を、教育、芸術、医療にも適応できる概念として展開させている。

ケアを受ける患者の痛みを、ケアする医療者も共有するこの共感的意識がケアの中心にはある。‥お互いを成長させるよい意味での相互依存的関係がケアには存在する。

ケアは共ににあい合うことである。ケアする者がケアされる事が起こる。(以上)

重要なことを書いておられますが、いずれもケアする側の視点です。上野千鶴子さんの本では、パターナリズム(父権主義)を排除する方向で、ケアの人権を①ケアする権利②ケアされる権利③ケアすることを強制されない権利④ケアされることを強制されない権利。の4つをあげ、ケアのニーズも詳細に検討されています。

スピリチュアルケアを考える上でも、重要な指摘です。

しかし、この本ではニーズ(ニースを4つに分類しているが)に応えることをケアとしている点では、仏教の様に、その人の価値観が否定される方向に向かうケアの場合は、上野千鶴子さんのケアの考え方だけでは、納まらないように思われます。そうしたことを考える上にも、参考になる本です。
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無常ということ

2013年11月11日 | 仏教とは?
土、日の大分県は、いつも当寺へご出講頂いているTご住職のお寺への法話でした。18年、毎年ご来駕頂いているので、満分の一でのご報謝できると、うきうきとしていきました。ところがご報謝どころではなく、御馳走をいただき、温泉に浸かり、観光めぐりをして、その間に、少しばかり法話でした。

夜は、学生時代の友人もお誘いして下さって、楽しいひと時でした。

その友人のKさんとの会話です。Kさん「先日、ご門徒が亡くなり 枕経で、都会からもどってきたIT企業に勤める、そのご門徒の息子とお勤めした。短い法話の中で、『お父さんは自らの身をもって、命の終わりのあること無常の世を生きていることを示して下さった…』という無常の世を生きていることを伝えたら、その息子いわく、『本当のこの世の移り変わりは早い。日進月歩で技術が進むのでウカウカできない…』といわれ、この人は何を聞いているのかと驚いた」(意趣)とのこと。

無常は「後生の一大事」とセットにならないと意味がない、などと話が弾んだことです。

今、回想すると、私たち仏教とは、無常を「刹那滅で移り変わる」という法話をしてきたのではないだろうか。「刹那滅で移り変わる」無常は、お釈迦さまが誕生する前から、皆さんが理解していたことでしょう。ではお釈迦さまが、お示しくださった無常とは、無常の世を無常と思わずに生きている私の闇を指摘されたものでしょう。仏さまの教えは、私を離れて語ってはならない。そう思います。

大分からの帰りは、低気圧の前線が、下降ルート上にあるとのことで、4時間、狭い中に閉じ込められました。しかし夜10時に無事帰院しました。
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