依頼された原稿で、下記の文言を転載してかこ書こうと思った。
哲学用語で「限界状況」という語がある。ドイツの哲学者カール・ヤスパースの用いた哲学概念だ。『哲学入門』(1950)では、死、苦悩、争い、偶然、罪などが限界状況として考えられ、これら限界状況の経験はわれわれを絶望のなかに突き落とすが、しかしわれわれは絶望に直面したときに初めて真の自分となることができる」とある。私たちは希望に支えられて生きている。しか希望は、許された時間の中に成立する。死は、希望を向って生きる事が許されない時だ。この希望のむかって生きる生き方を、どう断念するか。ここに絶望の果たす役割がある。(以上)
ヤスパースの『哲学入門』(1950)内容は、ネットの哲学事典からの引用でした。やはり翻訳でも原文を押さえて置いた方が良いと思い『哲学入門』(新潮文庫・草柳正夫訳・昭和29年発行)を購入してきました。昨日、午前中、京都で会議があったので、新幹線の中で読みましたが、やはり翻訳者によって、訳し方が違うので、上記の文面はありませんでした。似た表現の所を転載しておきます。
私たちは常にいろいろな状況のうちに生きているのであります。これらの状況は変化し、いろいろな機会が現われてきます。これらの機会はそれをこらえそこかうと二度とやってこない。私は自ら努めて状況を変化させることができます。しかし私は死なねばならないとか、私は悩まねばならないとか、私は戦わねばならないとか、私は偶然の手に委ねられているとか、私は不可避的に罪に巻きこまれているなどというように、いたとえ状況の一時的な現象が変化したり、状況の圧力が表面に現われなかったりすることがあっても、その本質においては変化しかいところの状況というものが存在します。私たちはこのような私たちの現存在の状況を限界状況(Grenzsituation)と呼んでいるのであります。すなわちそれは私たちが越え出ることもできないし、変化さすこともできない状況が存在するということであって、これらの限界状況はかの驚きや懐についで、哲学のいっそう深い根源なのであります。私たちはあたかもこれら限界状況が存在しないかのように、目を閉じて生活することによって、これら限界状況から逃避して、単なる現存在の状態において生きるという場合がしばしばあるのです。私たちは、自分が死なねばならないということを忘れる。自分が罪を負っていること、偶然の手に委ねられているということを忘れる。そこで私たちは自分の現存在的関係から駆り立てられ、具体的な状況にのみかかおりあって、それらを自分のために支配したり、世界内において計画や行動によってそれに反応的に対処したりするのです。しかし私たちが限界状況に対していかなる態度をとるかといえば、それはこの限界状況を糊塗(こと)するか、あるいは私たちが限界状況を本当に把握するかぎり、絶望と回生によってそれに対処するかの、いずれかであります。後者の場合私たちは、自分の存在意識を変革することによって自分自身になるのであります。(以上)
哲学用語で「限界状況」という語がある。ドイツの哲学者カール・ヤスパースの用いた哲学概念だ。『哲学入門』(1950)では、死、苦悩、争い、偶然、罪などが限界状況として考えられ、これら限界状況の経験はわれわれを絶望のなかに突き落とすが、しかしわれわれは絶望に直面したときに初めて真の自分となることができる」とある。私たちは希望に支えられて生きている。しか希望は、許された時間の中に成立する。死は、希望を向って生きる事が許されない時だ。この希望のむかって生きる生き方を、どう断念するか。ここに絶望の果たす役割がある。(以上)
ヤスパースの『哲学入門』(1950)内容は、ネットの哲学事典からの引用でした。やはり翻訳でも原文を押さえて置いた方が良いと思い『哲学入門』(新潮文庫・草柳正夫訳・昭和29年発行)を購入してきました。昨日、午前中、京都で会議があったので、新幹線の中で読みましたが、やはり翻訳者によって、訳し方が違うので、上記の文面はありませんでした。似た表現の所を転載しておきます。
私たちは常にいろいろな状況のうちに生きているのであります。これらの状況は変化し、いろいろな機会が現われてきます。これらの機会はそれをこらえそこかうと二度とやってこない。私は自ら努めて状況を変化させることができます。しかし私は死なねばならないとか、私は悩まねばならないとか、私は戦わねばならないとか、私は偶然の手に委ねられているとか、私は不可避的に罪に巻きこまれているなどというように、いたとえ状況の一時的な現象が変化したり、状況の圧力が表面に現われなかったりすることがあっても、その本質においては変化しかいところの状況というものが存在します。私たちはこのような私たちの現存在の状況を限界状況(Grenzsituation)と呼んでいるのであります。すなわちそれは私たちが越え出ることもできないし、変化さすこともできない状況が存在するということであって、これらの限界状況はかの驚きや懐についで、哲学のいっそう深い根源なのであります。私たちはあたかもこれら限界状況が存在しないかのように、目を閉じて生活することによって、これら限界状況から逃避して、単なる現存在の状態において生きるという場合がしばしばあるのです。私たちは、自分が死なねばならないということを忘れる。自分が罪を負っていること、偶然の手に委ねられているということを忘れる。そこで私たちは自分の現存在的関係から駆り立てられ、具体的な状況にのみかかおりあって、それらを自分のために支配したり、世界内において計画や行動によってそれに反応的に対処したりするのです。しかし私たちが限界状況に対していかなる態度をとるかといえば、それはこの限界状況を糊塗(こと)するか、あるいは私たちが限界状況を本当に把握するかぎり、絶望と回生によってそれに対処するかの、いずれかであります。後者の場合私たちは、自分の存在意識を変革することによって自分自身になるのであります。(以上)
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