仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

宗教が景色になる時

2010年04月03日 | 新宗教に思う
元オウム真理教信者が、「お寺は、風景であり景色だけと思っていた」と語ったということが以前報道されていた。ある存在が空気のように溶け込んで意識されない。ここにはプラスとマイナスの両面がある。

なぜこんなことを思ったのかといえば、昨日の夕刊に「秋篠宮ご夫妻の長女眞子さま(18)は2日、国際基督教大学(ICU、東京・三鷹市)に入学された。」と報道されていた。日本文化を担う皇室の方がキリスト今日の大学へという思いがよぎり、キリスト教も仏教と同様に日本の景色のような存在になったと思った。

10年前、広島へ宗派の記念行事で出張したことがある。法座の中で「広島へ来たら見たいものがあった。それは新聞チラシの住宅見取り図に仏壇が刷り込まれているそのチラシが見たい」と発言したら、後日、お世話役の住職から広島市内で流通している住宅広告が数枚送られてきました。見ると「床」「仏」とあります。床は床の間、仏は仏壇の置き場という意味です。

これが土徳です。仏壇が安置されているのが当たり前に風景であるという常識があります。ところがこのことを一度、しっかりと意識しておかないと、住宅見取り図から仏が消えても、消えたことに気づきません。ある事象が空気のように日常生活に溶け込む。そして人間形成にある種の影響を与えたりする。ここに有難さもあれば怖さもある。

国際基督教大学だけではないが、準公共施設は、社会に対してその宗教団体を空気のような存在として認知させる効用があるようだ。幸福の科学も中高一貫教育校を開設し、この千葉に大学も計画しているという。新宗教団体が美術館やホールを運営しているところが多々あるが、そうした施設もその団体を空気のように社会に空気のように溶け込ませる働きがある。

浄土真宗も空気のように文化の一部として日本に溶け込んでいる。その溶け込んでいる真宗文化をはっきりと意識して、言葉にしておく必要がある。そうでないと見取り図の仏壇のように、失われても気づかずに終わってしまうかもしれない。
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