『ウニコット用語辞典』からの引用です
私は一人でいる
独りでいる(いられる)能力(the capacity to be alone)とは、情緒的成熟と密接に関連した、安心して孤独を楽しんでいられる力のこと。ウィニコットによって分析されるまでは、独りでいることに対する恐怖や、独りになりたい願望については論じられていても、ひきこもり状態とは異なる、独りでいられることの陽性の側面についてはほとんど言及されてこなかった。独りでいられる能力とは、母親と父親との三者関係、幼児と母親との二者関係よりもっと早い時期である一者関係にまでさかのぼる。多くの子どもは、子ども時代を脱するより前に孤独を楽しめるようになり、さらには孤独をかけがえのない財産として大切にすることさえある。
母親を自己に内在化することで、やがて幼児はしばらくは独りでいることができるようになるし、そしてまた、安心して独りでいることを楽しむことができるようにもなっていく。
独りでいられる能力は自己の内的世界に良い対象がいるかどうかによって決まる。内的な対象と良い関係が確立され、それが壊されないでいると、個人は現在と未来に自信をもつことができるようになる。内的な対象との関係ができあがると、内的関係に対する自信が生じてくるとともに、それ自身満足な生活ができるようになる。そうすることで、外界からの刺激や対象がなくても、安心して休息していられるようになる。成熟や独りでいる能力を持てるということは、個人が適切な母親の世話を通じて良い環境を信用する機会をもったということである。独りでいる能力は情緒発達のかなり早期の関係に由来するものであるが、一方では自我の成熟がかなりの程度成し遂げられていることをも示しているのである。
「私は一人でいるl am alone」というフレーズを研究するなかで,ウィニコツトは,三つの互いに異なった情締発達の段階を示しているが,そのなかでウィニコツトは,常に環境の大切さを力説している。
初めに「私I」という言葉があるが,これはかなり情緒が成長したことを示す。個人は一つの単位として確立されている。統合は現実のものになった。外的世界は退けられ,今や内的世界が可能になった……。
次に,「私はいるlam」という言葉が来るが,これも個体の成長の一つの段階を表す。この言葉によって,個人は形を持つのみでなく,人生をも持つ。「私はいる」ことの始まりにおいては,個人は(いわば)手が加えておらず,無防備で,もろくて,被害妄想的になる可能性を秘めている。保護的環境がそこにあるからこそ,個体は「私はいる」の段階に到達することができる。保護的環境とは実際には母親である。母親は,自分白身の幼児に没頭し,自分自身の幼児と同一化することを通じて幼児の自我の要求に合わせている。この[私はいる]段階では,幼児が母親の存在に気づいていると仮定する必要はない。 次は[私は一人でいる]という言葉だ。これまで私か示してきた理論によると,このさらに進んだ段階には,幼児の方で母親の継続的な存在をわかるようになるということが含まれている。けれども私は,意識的な心で気づくようになると言っているのでは必ずしもない。[私は一人でいる]は,「私はいる」からの成長の結果であり,これは幼児が継続的に存在してくれた頼りになる母親の存在に気づくことによっている。この母親が頼りになる存在であったからこそ幼児が限られた時間であっても一人でいることができるようになったのであり,また一人でいることを楽しめるようになったのである。(ウィニコツト)
「一人でいられる能力p.33」
「私はいる」の段階は3~6ヵ月で起こり,クラインの抑うつポジションやウィニコツトの思いやりの段階に発達的に到達することと関係している。であるから,「私は一人でいる」という段階は6ヵ月以降の幼児に生じてくるであろう。しかし,この能力が確立されるためには,母親が確かに存在することは継続されなければならない。
ウイニコツトは自我関係性のきわめて重要な側面を強調している。
ご理解いただけるであろうが,私か論じているのは実際に一人であることではない。独房に監禁されていて,それでも一人でいることができないということがありうる。こうした人がいかに苦しむかは想像を超える。(ウイニコツト)
[「一人でいられる能力」p.301