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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

ウニコット用語辞典③

2022年05月05日 | 苦しみは成長のとびら

『ウニコット用語辞典』からの引用です

 

私は一人でいる

独りでいる(いられる)能力(the capacity to be alone)とは、情緒的成熟と密接に関連した、安心して孤独を楽しんでいられる力のこと。ウィニコットによって分析されるまでは、独りでいることに対する恐怖や、独りになりたい願望については論じられていても、ひきこもり状態とは異なる、独りでいられることの陽性の側面についてはほとんど言及されてこなかった。独りでいられる能力とは、母親と父親との三者関係、幼児と母親との二者関係よりもっと早い時期である一者関係にまでさかのぼる。多くの子どもは、子ども時代を脱するより前に孤独を楽しめるようになり、さらには孤独をかけがえのない財産として大切にすることさえある。

母親を自己に内在化することで、やがて幼児はしばらくは独りでいることができるようになるし、そしてまた、安心して独りでいることを楽しむことができるようにもなっていく。

独りでいられる能力は自己の内的世界に良い対象がいるかどうかによって決まる。内的な対象と良い関係が確立され、それが壊されないでいると、個人は現在と未来に自信をもつことができるようになる。内的な対象との関係ができあがると、内的関係に対する自信が生じてくるとともに、それ自身満足な生活ができるようになる。そうすることで、外界からの刺激や対象がなくても、安心して休息していられるようになる。成熟や独りでいる能力を持てるということは、個人が適切な母親の世話を通じて良い環境を信用する機会をもったということである。独りでいる能力は情緒発達のかなり早期の関係に由来するものであるが、一方では自我の成熟がかなりの程度成し遂げられていることをも示しているのである。

 

 

 「私は一人でいるl am alone」というフレーズを研究するなかで,ウィニコツトは,三つの互いに異なった情締発達の段階を示しているが,そのなかでウィニコツトは,常に環境の大切さを力説している。

 

 初めに「私I」という言葉があるが,これはかなり情緒が成長したことを示す。個人は一つの単位として確立されている。統合は現実のものになった。外的世界は退けられ,今や内的世界が可能になった……。

 次に,「私はいるlam」という言葉が来るが,これも個体の成長の一つの段階を表す。この言葉によって,個人は形を持つのみでなく,人生をも持つ。「私はいる」ことの始まりにおいては,個人は(いわば)手が加えておらず,無防備で,もろくて,被害妄想的になる可能性を秘めている。保護的環境がそこにあるからこそ,個体は「私はいる」の段階に到達することができる。保護的環境とは実際には母親である。母親は,自分白身の幼児に没頭し,自分自身の幼児と同一化することを通じて幼児の自我の要求に合わせている。この[私はいる]段階では,幼児が母親の存在に気づいていると仮定する必要はない。 次は[私は一人でいる]という言葉だ。これまで私か示してきた理論によると,このさらに進んだ段階には,幼児の方で母親の継続的な存在をわかるようになるということが含まれている。けれども私は,意識的な心で気づくようになると言っているのでは必ずしもない。[私は一人でいる]は,「私はいる」からの成長の結果であり,これは幼児が継続的に存在してくれた頼りになる母親の存在に気づくことによっている。この母親が頼りになる存在であったからこそ幼児が限られた時間であっても一人でいることができるようになったのであり,また一人でいることを楽しめるようになったのである。(ウィニコツト)

 

          「一人でいられる能力p.33」

 

「私はいる」の段階は3~6ヵ月で起こり,クラインの抑うつポジションやウィニコツトの思いやりの段階に発達的に到達することと関係している。であるから,「私は一人でいる」という段階は6ヵ月以降の幼児に生じてくるであろう。しかし,この能力が確立されるためには,母親が確かに存在することは継続されなければならない。

 ウイニコツトは自我関係性のきわめて重要な側面を強調している。

 

 ご理解いただけるであろうが,私か論じているのは実際に一人であることではない。独房に監禁されていて,それでも一人でいることができないということがありうる。こうした人がいかに苦しむかは想像を超える。(ウイニコツト)

         [「一人でいられる能力」p.301

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ウニコット用語辞典②

2022年05月04日 | 苦しみは成長のとびら

『ウニコット用語辞典』からの引用です。

「移行対象」についてです。

 

移行対象(transitional object)とは、過渡対象とも呼ばれる、乳幼児が特別の愛着を寄せるようになる毛布、タオル、ぬいぐるみ等を指す。その主たる機能は、母親との分離などのストレスフルな状況で、母親やその乳房の象徴的代理として、子に安心を与え、情緒を静穏化するところにある。乳幼児は、移行対象を触ったり口にくわえたりすることによって安心感を得るが、ウィニコットによれば、こうした対象は、乳幼児が「自分は万能ではない」という現実を受け入れていく過程を橋渡しし、母子未分化な状態から分化した状態への移行を促すものである。この意味で、移行対象は幼児の精神発達上重要な働きをしている。一般的に絶対的依存期から相対的依存期の過渡期である移行期(6ヶ月~1歳頃)にかけて発現することが多い。

 

ウィニコットは,新生児の拳や指や親指の使用と,(3ヵ月から12ヵ月くらい)年長の幼児のテディベアや人形,あるいは柔らかいおもちや、時には指しゃぶりとの関連を観察することから,第三の領域のこうした認識に至った。

 

新生児が拳を口に突っ込む活動に始まり,やがてついにはテディペアや人形,柔らかいおもちゃ,あるいは硬いおもちゃへの愛着に至る一連の出来事には,幅広いバリエーションが見受けられる。

 

ここでは,口唇的な興奮や満足があらゆることの基礎かも知れないが,それら以外の何かが重要であることも明らかである。他の多くの重要な事柄のなかには,以下のようなことが含まれている。

 対象の性質。

 対象を「自分でない」ものと認識する幼児の能力。

 対象の場所一一外側か,内側か,あるいはその境界線上か。

 対象を創造し,思い描き,工夫し,考案し,生み出す幼児の能力。

 愛情のこもった対象関係様式の始まり。

            

(つづく)

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ウニコット用語辞典①

2022年05月03日 | 苦しみは成長のとびら

娘がお産のため帰郷して、1月28日に出産、そして同じ市内に住むこととなった。私は、出産以来、幼児の成長を興味深く観察している。その観察の手引書は『ウニコット用語辞典』だ。400ページあるので、いろいろと参考になる。

 

ウィニコツト(1896 -1971)は、40年間で6万例の幼児を見て、幼児の成長に関することを著書と200を超える論文を執筆し発表された方です。「ほどよい母親」「移行対象」「一人でいられる能力」などの概念が有名です。

 

 ほどよい母親(good enough mother)とは、適度の心身の世話によって、快適な環境と、対象としての恒常性を与える母親およびその機能のことで、ほどよい母親になれない例として、強迫的に自己に没頭して幼児に関心を向けられない母親、また幼児に過度に没頭しすぎて同一化し、そのあと急に撤退する母親などが挙げられる。絶対依存の段階で母親が乳児の欲求を満たすことで、乳児は万能感をもつ。そこから母親が幼児へ少しずつ不適応を重ねていくことは、幼児に環境を提示することとなり、そうして幼児は万能感を脱却し、現実を認識できるようになっていく。明らかに完璧とはいえないお母さんの子が、まずまず正常に育っていくことができる。

 

1960年,ウィニコツトは彼の論文「本当の,および偽りの自己という観点からみた,自我歪曲」のなかで,自らの「ほどよい」と「錯覚と万能感」という用語のつながりについて詳述している。以下、ウィニコツトの言葉です。

 

……一一方の端には,ほどよい母親があり,もう一方の端には,ほどよくない母親がある。さて次のような疑問が呈されるだろう。「ほどよい」という用語は何を意味しているのだろうか?

 ほどよい母親は幼児の万能感を満たしてやるし,またある程度はその意味を理解している。彼女はこれを繰り返し行う。本当の自己が息吹き始めるが,これは幼児の万能的な表現を母親が実現してやることによって幼児の弱々しい自我に力が与えられた結果そうなるのである。

 ほどよくない母親は,幼児の万能感を実現してやることができず,そのため幼児の身振りに応じることに何度も失敗する。かわりに彼女は,幼児が迎合してはじめて意味を与えられるような彼女自身の身振りでもって代用してしまう。こうした幼児の側の迎合が偽りの自己のはじまりであって,これは母親が自分の幼児のニードを感じ取れなかったことによっているのである。

 幼児の自発的な身振りや感覚性幻覚に母親がくりかえし首尾よく応じてやった結果としてでないかぎり,本当の自己は生きた現実とならない。これは私の理論の基本をなす部分である。(ウィニコツト)

        

 

…私たちは,赤ん坊に授乳している母親よりも赤ん坊を抱えている母親についてより関心を持っている。(ウィニコツト)

             

 

幼児が経験を統合する能力を発展させ,「私はいる」(わたしME)という感覚の発展を容易にするのは,ほどよく抱えられるおかげである。(ウィニコツト)

 

幼児を抱っこすることも重要な行為で、抱っこされることによって「私はいる」という感覚が育っていくとのことです。「抱っこすると、抱き癖が付く」などと言ってはダメだということです。

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音楽療法の基礎③

2022年04月21日 | 苦しみは成長のとびら

『音楽療法の基礎』(村井靖児著)の続きです。

 

「同質の原理」は、アメリカの精神科医I.アルトシューラーによって、1952年に初めて発表されました。それは、精神病院で精神分裂病患者の音楽法を行うときの治療戦略として考えられたものでした。

 精神分裂病患者は当時も今も変わりなく、活気がなく、自分から進んで話をせず、放っておけば何もしないでただぼんやりしている人達、そんな印象が、アルトシューラーが扱った精神分裂病の患者にもあったと思われます。

 彼は、まずそういう人達にどんな音楽を最初に与えたらよいのかを考えました。そして結論として二殼初に与える音楽は、患者の気分とテンポに同質の音楽であるべきだと考えました。これが音楽療法における有名な「同質の原理」です。

 アルトシューラーの優れていたところは、患者さんの心理を気分とテンポの2つの面で捉えたことです。それは、音楽が持つ気分とテンポという2つの性質と対応しますと同時に人間の感情の動きにはテンポがあるという鋭い洞察に関わります。

 気分がテンポを持っている、あるいは感情の動きにはテンポがある。そのことを日常私達は暗黙裡に認めているのではないでしょうか。なんとなく浮き浮きしているとき、とてもイライラしているとき、気分か滅入っているとき、私達が同調できるテンポが違っていることは、読者諸氏も既にお気づきでしょう。

 心のテンポはそのときの気分によって支配されています。そのことが分かると、同質の原理で、精神分裂病の患者さんに最初に提示する音楽が、気分とテンポの両面で同質でなければならないことの重要さが了解できます。私達は、憂鬱なときには憂鬱な音楽を聴きたいですが陽気なときには陽気な音楽を聴きたい。深刻なときには深刻な音楽を求める。そういう具合に、自分のそのときの気分と同じ音楽を選んで聴こうとします。

 

 

異質への転導

 同質の原理で述べたI.アルトシューラーは、精神分裂病の音楽療法のもう1つの重要な治療戦略として「水準戦法」を提案しました。

 水準戦法は、人間の音楽に対ずる反応を、ますリズムへの反応の段階、次に和声を伴った旋律への反応の段階、さらに音楽の持つ気分の利用の段階、そして最後に絵両的な音楽で人間の連想を刺激する段階、と分け、その順序に従って刺激の種類を変えていく方法です。

 つまり本能的なリズムの刺激で、精神分裂病の患者さんの不活発、無為に治療的に迫り、次に旋律と和声の協和が小脳への刺激を伝達し、さらに気分的な音楽を持ってくることで患者さんの関心を引き付け、それを望ましい気分の方向へ転導していき、最後に絵画的な音楽で現実世界へ患者さんの思考を収り戻すことで、治療の一まとまりとします。

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音楽療法の基礎②

2022年04月20日 | 苦しみは成長のとびら

『音楽療法の基礎』(村井靖児著)の続きです。

 

では次に、音楽療法におけるアリストテレスの業績を述べることにしましょう。

 ご承知のように、アリストテレスは紀元前4世紀のギリシャの哲学者です。

 アリストテレスが私達に残してくれた概念上の遺産は、カタルシスという概念です。現在では広く精神療法全般に用いられていて、心の中に鬱積した感情や葛藤を自由に表現することによって心の緊張を解く方法、と理解されています。もともとアリストテレスは、その言葉を、悲劇の効果と、熱狂的な音楽の効果の説明で用いました。

 私達は「ギリシャ悲劇」という名のもとに数々の名作の名前を知っています。

 あの「エディプス王」に示されるような、運命にもてあそばれ、不幸の渕に沈む主人公の苦しみと運命の非情は、どの観衆の心にも怖れと憐れみの情を呼び起こします。けれどもその運命をともに嘆き怒りつつ、その苦悩に揉まれながら、観衆は逆にすがすがしい心の清らかさを感じていきます。そのような憐れみや怖れの感情からの離脱を、アリストテレスはカタルシスと呼びました。

 一方、熱狂的な音楽の効果について、アリストテレスは「政治学」の中で、次のように言っています。

  「教育のためには最も倫理的な音階法を用いるが、しかし他の人々が演ずるのを聴くためには、行動的音階法をも熟狂的音階法をも用いなければならぬというのは明らかである。何故なら二、三の霊魂に関して強烈に起こる感情はすべての霊魂にも起こる。しかしそれには多少の差違がある一例えば憐憫や恐怖が、さらに熱狂がそうである。 というのはこの感動によって捕らわれ易い人があるからであるが、この人々は霊魂を興奮させる節を用いるときは、その宗教的な節の結果として、ちょうど医療、すなわち浄めを受けた者のように、正常に復するのを見るのである。だからこれと同一のことを、憐れみ深い人々や怖がり易い人々、一般的に言って感情的な人々は、しかしその他の人々もそれぞれの者にそのような感情がいくらかでも襲ってくる限り、経験するに違いない。従って全ての人々にも、いわば、浄めが行われ、心は軽くなって快さを味わうに違いない。」

 つまり興奮的な音楽によって、興奮がかえって鎮められる。この理論が音楽療法において最も大事とされるアルトシューラー(lra M. Altshuler)の「同質の原理」の原点なのです。ルートはこれを音楽療法における「アリストテレスのカタルシス効果、または同質効果」と呼んでいます。

 このピタゴラスとアリストテレスの両音楽療法概念は、全く相反する治療の起こり方を指し示しています。一方は心を清らかにすること、日本的な言葉に置き換えれば、心を滅することが、宇宙の音楽を聴くことが出来る条件であり、心の調和を回復するのだと説きます。例えば興奮に対しても、不安に対しても緊張に対しても、恐怖に対しても、治療する場合に用いる音楽は調和の音楽であり、それはそれぞれの心情とは逆方向の音楽、つまり逆療法効果なのです。

 他方は心と同調すること、現在置かれている心の状態とともに振舞えることが心の調和を回復する条件だと説きます。(つづく)

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