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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

音楽療法の基礎①

2022年04月19日 | 苦しみは成長のとびら

『音楽療法の基礎』(村井靖児著)、1995年発刊の古い本ですが、興味深いことが種々書かれています。メモ代わりに転載しておきます。

 

ピタゴラスとアリストテレス

 

 きて古代ギリシャで私達は、ピタゴラスとアリストテレスの2人の偉大な自然哲学者に出会います。この2人の学者は、音楽療法にとって重要な役割を演じました。

 ピタゴラスはサモスという地方に生まれた紀元前6世紀頃の人だと言われます。彼の生涯はあまりはっきり分かっていませんが、彼の自然観は数を万物の根本原理として、万物は数の関係によって秩序を作り出すと考えました。

  「森羅万象のうちに、また音を構成する2音間の振動数の比の中には、比類のない調和の関係が見出される。すなわち、オクターヴは1:2、完全5度は2:3、完全4度は3:4、長3度は4:5、短3度は5:6と6:7、長2度は7:8といった整然とした整数比がみられる。」

 この見事に調和した数の関係から、音楽を数学、幾何学、天文学に並ぶ大事な学問と考えたピタゴラスは、音楽は、私達が演奏する日常の楽器や歌ばかりでなく、人間の体の中にも、また広く宇宙の中にも存在するのだと考えました。

 つまり、私達の体には健康と呼ぶ調和のとれた機能や心と体の関係があり、さらに宇宙には天体の運行という整然とした規律があると考えたのです。

 しかも天空には、宇宙の音楽が妙なる響きで奏でられていて、その音楽は通常の私達の耳には聴こえませんが、もし心が浄化できれば、その音楽は聴ことが出来ると考えたのです。そしてその音楽が聴けるようになることを目指して、ピタゴラスは、弟子達に心を清める生活を課しました。

 この考えの中には、音楽療法にとってとても重要な考え方が含まれています。音楽の調和は乱れた心身の調和を調整する力があるという考えです。このような考えから、ピタゴラスは心身の乱れをおさめ、魂を鎮める音楽を自ら作曲して、弟子達に聞かせたことが知られています。

 中世の音楽家たちが、音楽の理想が宇宙の音楽を実現することにあると考えた思想の基礎には、このピタゴラスの考えが受け継がれています。この音楽の調和によって心の不調和を癒す方法を、ルートは「ピタゴラスの逆療法」と呼んでいます。(つづく)

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なぜ心はこんなに脆いのか

2022年04月12日 | 苦しみは成長のとびら

『なぜ心はこんなに脆いのか 不安や抑うつの進化心理学』(著者ランドlルフ・M・ネシー著)、『病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解』 (2001/4/15・ランドルフ・M・ネシー著・ジョージ・C・ウイリアムズ著)

の続編です。

 

 

本の紹介には次のようにあります。

進化論で明らかにする、心が傷つきやすい本当の理由

不安や抑うつといった症状は、一見私たちにとってデメリットにしか見えません。しかし、これらを引き起こすメカニズムが人類の歴史の中でなぜ淘汰されなかったのか、という進化論の視点に立ったとき、それらが私たちの生存のために必要な存在であったことが見えてきます。またその視点から、その機能がなぜ現代において誤作動を起こし、不安などの症状を引き起こしているのかも考察し得るのです。つらい気持ちが存在する理由を進化論で解き明かす、画期的な進化心理学。(以上)

 

この本は、進化論の視点から不安や抑うつを生む仕組みが人類に備わっている理由を考える本です。

人間の幸せとはマイナスの感情である不安や抑うつが遺伝子の生存率を高めることにどう貢献している。たとえば、抑うつ状態は不必要に行動するのを避けエネルギー消費を節約することで、過酷な環境下での生存率を上げるのに有効であった。また現状を悲観的に見積もる「抑うつリアリズム」と呼ばれる認識の傾向により、これも厳しい環境での生存確率を高めていた可能性が指摘されています。そして最後は「なぜ人生はこれほど苦悩に満ちているのだろう?」と、意味不明ですが、次のようにあります。

 

こうして私たちは大きな円を描いて、最大の問いにもう一皮戻ってきた。「なぜ人生はこれほど苦悩に満ちているのだろう?」読者の中でも特に幸運な人たちにとって、人生の始まりは、後のブッダであるシッダルタのそれと似ていたことだろう。シッダルタほど完全に甘やかされた生活ではおそらくないだろうが、多くの人は、安全な繭の中で、愛情に溢れる両親に守られて、広い世界の苦悩について知ることさえなく育つ。ようやく町に出かけることを許されたシッダルタは、強烈な唐突さで訪れる人生の痛みと悲しみを目の当たりにし、その原因と解決方法を求める探求を始めることになる、そして彼の出した結論は、すべての苦悩は欲望から発する、というものだった。この答えは、正しいように思える。もしシッダルタが現代に生きていたら、彼はおそらく、なぜ自然選択は欲望とその追求によって引き起こされる苦しみや喜びの情動を形づくったのだろう、という問いに取り組んでいたのではないだろうか。

 この問いに対する総括的な答えは、シンプルだ。私たちの脳は、遺伝子の伝達を最大化するように形づくられている。そして情動とは、特定の状況において役にたつように特化された状態だ。いった代償がありながらも、私たちの人生は生きるに値するものになる。さらに私たちには、欲望をコントロールするメカニズムが備わっている。常に完全に機能するわけではないとはいえ、そのようなメカニズムのおかげで、多くの人がユーモアや良い人間関係を携え、自分がもっていないものについてほとんど思い煩うことなく生きていける。ただし、こうしたことにはすべて、自分がほかの人にどう思われているかを過度に気にしてしまうという代償がついてくる。このような自然選択の産物は、すべてひっくるめて、多くの人の-ほとんどの人と言ってもいいかもしれない-人生を幸福で意義のあるものにしてくれる。こうして考えると、もう一度、問いをひっくり返して考えてみるべきであることがわかる。私たちは人生の苦悩に圧倒される代わりに、これほど多くの人が精神の健康に恵まれていることの奇跡に感動し、畏怖の念を抱くべきなのだ。(以上)

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病気はなぜ、あるのか

2022年04月10日 | 苦しみは成長のとびら

『病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解』 (2001/4/15・ランドルフ・M・ネシー著・ジョージ・C・ウイリアムズ著)

 

病気はなぜ、あるのかという適応進化な研究で、生物の形態や行動に、永い進化の過程で培われた適応的な意味があるように、罹病や老化といったプロセスにさえ進化的な意味があると主張している。以下転載。

 

からだの中でもっとも簡単な部分をとってみても、人間が作ったどんなものも対抗できないほどの精巧な構造をもっている。たとえば、骨を例にあげよう。骨の筒型の形は、強度と柔軟性を最大化する一方、重量を最小化している。同し重さで比較すれば、骨は、純粋のはがねの棒より強い。それぞれの骨は、その機能を果たすように、見事な形をしている。ダメージを受けやすい先の方は太く、飭肉のてこ作用を用いるように表面に鋲のような突出部がついている。繊細な神経や動脈が通るところには溝かできて安全な通路を提供している。個々の骨の大さは、強皮が必要なところはどこでも、太くなっている。骨が曲がるところはどここでも、骨が密になっている。骨の中の空洞さえも役にたっている。そこは、新しい血液細胞を育てる安全な場所なのだ。(以上)

 

ではさあまざまな病気はどんな意味があるか。

 

たとえば「老化とは若さの泉だ」と指摘している。血管の老化、つまり動脈硬化にはカルシウムの沈着という現象が見られる。骨折に際して、カルシウムの代謝を変える遺伝子が関与し、その遺伝子はまた動脈硬化を促進する役割を果たす。

 つまり同じ遺伝子が一生の中でポジティブにもネガティブにも働くが、進化という立場から眺めると、この遺伝子は淘汰上有利に働く。遺伝子が老いた場合に不利に働いても、若いときにわずかに有利に働くならばその遺伝子は集団の中に広がり続けていくはずだとのこと。

 痛風は? うつ病は? 分裂病や児童虐待にも適応的な意味はあるのだろうか?一つ一つ論じている。

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お見舞いの心得

2022年03月25日 | 苦しみは成長のとびら

昨日の続きですが、フックスしたら「ゆっくりと勉強します」と返信があったので、長すぎたと思い、私の言葉で書いて送信しました。

○さんへ

ベットの横で、椅子があれば椅子に座ったほうがよいでしょう。

それは、お話しする時間があることの意思表示と、目線が同じになるので圧迫感を与えないことになります。

 

いつもの話でよいと思います。疾病という特別の状況にある人には、いつものことが特別な意味を持ち、終末期に近づくにつれて、周りの人は敬遠して孤独になる場合が多いいからです。

 

安易な励ましよりも、

「痛みはいかがですか」「私に何かできることがあれば…」「だれかにお伝えすることがあれば、」など、病人に思いを寄せていることがことを、直接お話したらよいと思います。

 

相手が、お話してくださるようなら、傾聴することも大事です。そして死んでいく人を恐れないことも大事です。死は自然なことであり、自分もいつかは、そうなっていくことなので、出会っている今を大切にすることが重要です。

 

ユーモアが大切だといわれています。笑いによって、痛みも軽減し、生きる活力が生まれてきます。

 

無理にではなく互いの思い出を分かち合うことも大切です。思い出を共有することによって、この世に生きてきたことを実感できるからです。

 

別れるときに、「よくなってね」「早く退院できるといいね」ではなく、「お大切に」「お大事に」のほうがよいでしょう。あるいは「また来てもいいですか」と聞くこともよいかもしれません。「よくなってね」「早く退院できるといいね」は、その時はいいのですが、再度、お見舞いに行ったときには、「よくなってね」「早く退院できるといいね」の言葉の記憶が「まだ良くなっていないの」「まだ退院できないの」という印象として残るからです。

 

全体的に「あなたに出会ってよかったわ」という思いを伝えることが肝心だと思います。ゆったりと、朗らかな気持ちでお見舞いに行ってください。

 

ビハーラ電話相談 月~金 14時から17時

「毎週 木曜日は 元がんセンター中央病院婦人科医長 種村健二朗先生が入っております。何か、気になることがあれば電話してみてください。」とお伝えください。

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死にゆく人と何を話すか

2022年03月24日 | 苦しみは成長のとびら

知人に「がん疾患で余命が長くない人がいて、見舞いに行きたいけど、注意点を教えて」と頼まれたので、『死にゆく人と何を話すか』(1990/2/1・ロバーロ・バックマン著)を抜粋して送りました。以下は、その抜粋です。

 

 互いに交わす対話に関して二、三の重要なポイントがある。それらはあなたの心が平静なときには容易に理解できる内容であるが、必要に迫られているときには案外忘れやすいことがらである。

 

 1.「話すこと」が互いのコミュニケーションの最良の方法である場合が多い

 いうまでもなく対話以外にコミュニケーションの方法はいろいろある。接吻、触れること、笑うこと、顔をしかめることなど。話すことはコミュニケーションのいろいろな方法のなかで、最も効果的、直接的方法なのである。

 

2.苦痛について話すだけでも、それは苦痛を和らげるのを助ける

 話すことは、人間はそれにより、プレッシャーをほんの少しだけ開放させて、それを大きなプレッシャーに耐える手だてとするのである。

 このように。話すという行為のなかには。「苦痛の軽減」がある。したがって、聴くこと、つまり患者に話す機会を与えることによって、彼らには、「癒し」が与えられる。言い方を変えれば、たとえあなたが、患者の話す言葉のすべてに答えられなかったとしても、患者を援助できるということである。

 

これに関してアメリカで次のような興味ある実験が行われた。全くトレーユングを受けていない人に、上手に聴くことの簡単なテクニックを教えて患者に会わせ、患者の問題点を聴いてもらった。この研究における聴き手は、「うなずくこと」以外には、「わかりました」「もっと話してください」しか言ってばならず、またほかに何もしてはならないと約束させられた。また患者への質問あるいは患者が説明する問題について何か話すことも許されなかった。そして面接が終わると、ほとんどすべての患者が、非常に良い治療を受けたという実感をもったという。なかには、この。治療者に電話をしてきてまたの面会を依頼したり、治療のお礼を言ったりする者もあったという。

 

 3.会話を避けようとする考えは、結局有害である

 友人や家族は、患者との会話を避ける一つの理由として、恐れや不安に関する話が新しい不安をつくる可能性があることをあげる。

実際は、何も話をしないと、逆に不安を増大させてしまうごとになる。すなわち、話す相手をもたない患者は、逆に不安や抑うつにより陥りやすい可能性をもっている。他の二、三の研究者達も、重症患者の最も大きな苦痛として、人々が彼らに話しかけないこと、そして孤独感が重荷として増すことをあげている。

 

 

自由な会話をさせる簡単なルールを知らないために生しるので、次にこれについて述べてみよう。

 

状況設定を正しく

  お互いの体の位置が大切である。まずあなたは気を楽にして患者のそばに坐ろう。リラックスしている様子が相手にわかるようにしよう(たとえあなたがそうでなくても)。そしてしばらくのあいだそこにとどまるというジェスチャーをみせよう(たとえばコートを脱ぐなどして、目の位置は相手と同じ高さにし、話しているあいだは目をそらさない。

 相手との問は気楽に話せる距離を保とう。入院中の患者で、そこに椅子がなく、あっても低すぎる場合は、立っているよりベッドに腰掛けるほうがよい。

 

患者が今話したいと思っているかどうかを見分けよう

 患者が単にその時だけ話す気分でないのか、あるいはあなたという人間と話したくないと思っているのか二つの場合があろう。こういう場合でも、決して腹を立ててはいけない。もしも患者が何を欲しているかよくわからなかったら、いつでも「お話ししたい気分ですか」と尋ねるがよい。

 

自分の感情を述べるのを恐れてはいけない

 次のような言葉を心おきなく用いなさい。「何と言ったらいいかわかりません」あかたの感情を述べることは、それが何であるうと大きな価値がある。

 

あなたに誤解のないことをはっきり示そう

 患者の言っていることを問違いなく理解できたら、そのように言おう。「落ちこんでしまったようですね」とか、「それが、あなたを怒らせてしまったんですね」とかいう返事は、患者が話した、もしくは表した感情をあなたがしっかり受け止めたことを相手に伝える。しかし患者の言葉をはっきり理解できなかったときは、「どんな気がしました?」。それをどうお思いでですか」「いまの気分はいかがで卞か?」などと聞き返そう。あなたの推測や、判断が間違ったままだと誤解を生かからである。

 

早過ぎるアドバイスを慎もう

 求めがないのに他人にアドバイスはすべきではない。

 

回想することをすすめる

  多くの患者は(若くても老人でも)互いに思い出を分かち合いたいと思う。子供達でさえ、もっと幼いときの話をしたいと考えているし、あなたからそのような話を聴きたいと思っている。年とった患者は、もし彼らがあなたの両親であればなおさらであるが、回恕によって彼らの人生の意義を確認しなおすのである。

 思い出を分け合うことは、彼らやあなたにとってはつらいことであったり、楽しい経験であったりする。それは、彼らが死によっていかに多くのものを失おうとしているかに思いを致させ、彼らを泣かせ、またあなたを泣かせるかもしれない。もしそのようなことが起こっても、それを抑制してはいけない。実際、多くの精神療法家やカウンセラー達は、患者に過去をみつめさせ、そのなかで起こったよいことを確かめさせるのに、この方法(言わゆる誘導された自叙伝)を用いている。

 

ユーモアの働き

 多くの人は、重症患者や死に臨んだ患者に笑う余裕などあるわけはないと考えている。しかしこれは、ユーモアというものについてきわめて大切なことを見逃している。ユーモアは実際には、大きな恐れや不安に対処していくうえで重要な働きをする。すなわち、それは私達の気持を新鮮にし、激しい感情にうち勝ち、物事を大局的に杷握できるようにする。ユーモアは人間が対処できないと思われることに対処していく方法の一つなのである。

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