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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

質的転換

2023年07月02日 | 苦しみは成長のとびら
大乗へ掲載と書いていましたが、会報ビハーラ52号「編集後記」へ掲載します。以下転載

 性的少数者に対する理解を広げるための「LGBT理解増進法」が成立した。性の多様性に配慮し、同性カップルや友だちカップルであっても結婚を認め、異性カップルと同等の権利を与えるという動きが世界的に広がっている。
 多様性といえば『阿弥陀経』にも「青色には青光が、黄色には黄光が、赤色には赤光が、白色には白光が」とあることからして、浄土真宗のみ教えから言ってもジェンダー平等社会の実現は望むべき方向だろう。
しかしここに大きな繋念がある。それは浄土真宗をはじめ既成仏教教団は、門徒(檀家)制度に支えられているという点だ。法律学者の川島武宣氏は『日本社会の家族的構成』に、「家」制度を支える意識を次の様にまとめられている。①血統連続に対する強い尊重―父系血統、女性の蔑視。②多産の尊重 子を産まない妻の蔑視。先祖の尊重。③伝統の尊重、個人に対する「家」の優位。④家の外部においても個人をその属する家(家族)によって位置づけることー家柄の尊重とある。
この家制度は「LGBT理解増進法」がめざす方向と真逆にある。これは浄土真宗ばかりではなく、世界の伝統教団の課題でもある。
 旧来の家制度によって支えられる教団。個人の信心の確立によって相続される教団。両者とも重要な教団存続の課題だが、どちらにしろ、個人における信心の果たす役割を明確に提示する必要がある。
哲学用語で「限界状況」という語がある。ドイツの哲学者カール・ヤスパースの用いた哲学概念だ。『哲学入門』(1950)では、「死、苦悩、争い、偶然、罪などが限界状況として考えられ、これら限界状況の経験はわれわれを絶望のなかに突き落とすが、しかしわれわれは絶望に直面したときに初めて真の自分となることができる」とある。「真の自分となる」とは、自分の思慮分別を超えることだ。絶望は、歓迎されない状況だが、「真の自分となる」機縁だということだ。 浄土真宗で「捨機即託法」(しゃきそくたくほう)という。私の世界の絶望がそのままより質の高い阿弥陀仏の世界に開かれる起点となるということだ。自分を捨てることが、そのまま大きな世界に開かれる。この考え方は「限界状況」と同様に、質的転換をその内容としている。
今、重要なのは、家制度のなかでも、性の多様性の狭間で悩む人であっても、その苦悩に寄り添い、自分の思慮分別を超える道のあることを共有し共に歩むことだろう。(西原)
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質的転換

2023年07月02日 | 苦しみは成長のとびら
大乗へ掲載と書いていましたが、会報ビハーラ52号「編集後記」へ掲載します。以下転載

 性的少数者に対する理解を広げるための「LGBT理解増進法」が成立した。性の多様性に配慮し、同性カップルや友だちカップルであっても結婚を認め、異性カップルと同等の権利を与えるという動きが世界的に広がっている。
 多様性といえば『阿弥陀経』にも「青色には青光が、黄色には黄光が、赤色には赤光が、白色には白光が」とあることからして、浄土真宗のみ教えから言ってもジェンダー平等社会の実現は望むべき方向だろう。
しかしここに大きな繋念がある。それは浄土真宗をはじめ既成仏教教団は、門徒(檀家)制度に支えられているという点だ。法律学者の川島武宣氏は『日本社会の家族的構成』に、「家」制度を支える意識を次の様にまとめられている。①血統連続に対する強い尊重―父系血統、女性の蔑視。②多産の尊重 子を産まない妻の蔑視。先祖の尊重。③伝統の尊重、個人に対する「家」の優位。④家の外部においても個人をその属する家(家族)によって位置づけることー家柄の尊重とある。
この家制度は「LGBT理解増進法」がめざす方向と真逆にある。これは浄土真宗ばかりではなく、世界の伝統教団の課題でもある。
 旧来の家制度によって支えられる教団。個人の信心の確立によって相続される教団。両者とも重要な教団存続の課題だが、どちらにしろ、個人における信心の果たす役割を明確に提示する必要がある。
哲学用語で「限界状況」という語がある。ドイツの哲学者カール・ヤスパースの用いた哲学概念だ。『哲学入門』(1950)では、「死、苦悩、争い、偶然、罪などが限界状況として考えられ、これら限界状況の経験はわれわれを絶望のなかに突き落とすが、しかしわれわれは絶望に直面したときに初めて真の自分となることができる」とある。「真の自分となる」とは、自分の思慮分別を超えることだ。絶望は、歓迎されない状況だが、「真の自分となる」機縁だということだ。 浄土真宗で「捨機即託法」(しゃきそくたくほう)という。私の世界の絶望がそのままより質の高い阿弥陀仏の世界に開かれる起点となるということだ。自分を捨てることが、そのまま大きな世界に開かれる。この考え方は「限界状況」と同様に、質的転換をその内容としている。
今、重要なのは、家制度のなかでも、性の多様性の狭間で悩む人であっても、その苦悩に寄り添い、自分の思慮分別を超える道のあることを共有し共に歩むことだろう。(西原)
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限界状況②

2023年06月28日 | 苦しみは成長のとびら
『哲学入門』(新潮文庫・草柳正夫訳・昭和29年発行)から子少し転載します。

 挫折め経験と自己となることの経験 
 これらの限界状況‐死・偶然・罪・世界が頼りにならないこと―-は私に挫折を示すものであります。私がこれらの限界状況を正直に見るかぎり、私はこの絶対的な挫折を認めないわけにはいかないのでありますが、それではこのような絶対的な挫折に当面して、私はどうすればよいのでありましょうか。

 限界状況のうちには、無が現われるか、それともあらゆる消滅する世界存在に抗し、それを超越して、本来的に存在するものが感得されるようになるか、のいずれかであります。絶望でさえも、それが世界内で可能であるという事実によって、世界を超え出ることの指示者となるのであります。
 換言しますと、人間は救済を求める。ところで救済は多くの一般的な宗教によって提供せられるのであります。宗教の特徴とする点は、救済の真理性と現実性に対する客観的な保証にあるのであります。宗教の道は個々人の回心という行為へ通じている。しかし哲学はそういうものを与えることはできない。それにもかかわらず、あらゆる「哲学すること」は一種の現世の超克であり、救済の一類比物なのであります。
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限界状況

2023年06月27日 | 苦しみは成長のとびら
依頼された原稿で、下記の文言を転載してかこ書こうと思った。

哲学用語で「限界状況」という語がある。ドイツの哲学者カール・ヤスパースの用いた哲学概念だ。『哲学入門』(1950)では、死、苦悩、争い、偶然、罪などが限界状況として考えられ、これら限界状況の経験はわれわれを絶望のなかに突き落とすが、しかしわれわれは絶望に直面したときに初めて真の自分となることができる」とある。私たちは希望に支えられて生きている。しか希望は、許された時間の中に成立する。死は、希望を向って生きる事が許されない時だ。この希望のむかって生きる生き方を、どう断念するか。ここに絶望の果たす役割がある。(以上)


ヤスパースの『哲学入門』(1950)内容は、ネットの哲学事典からの引用でした。やはり翻訳でも原文を押さえて置いた方が良いと思い『哲学入門』(新潮文庫・草柳正夫訳・昭和29年発行)を購入してきました。昨日、午前中、京都で会議があったので、新幹線の中で読みましたが、やはり翻訳者によって、訳し方が違うので、上記の文面はありませんでした。似た表現の所を転載しておきます。

私たちは常にいろいろな状況のうちに生きているのであります。これらの状況は変化し、いろいろな機会が現われてきます。これらの機会はそれをこらえそこかうと二度とやってこない。私は自ら努めて状況を変化させることができます。しかし私は死なねばならないとか、私は悩まねばならないとか、私は戦わねばならないとか、私は偶然の手に委ねられているとか、私は不可避的に罪に巻きこまれているなどというように、いたとえ状況の一時的な現象が変化したり、状況の圧力が表面に現われなかったりすることがあっても、その本質においては変化しかいところの状況というものが存在します。私たちはこのような私たちの現存在の状況を限界状況(Grenzsituation)と呼んでいるのであります。すなわちそれは私たちが越え出ることもできないし、変化さすこともできない状況が存在するということであって、これらの限界状況はかの驚きや懐についで、哲学のいっそう深い根源なのであります。私たちはあたかもこれら限界状況が存在しないかのように、目を閉じて生活することによって、これら限界状況から逃避して、単なる現存在の状態において生きるという場合がしばしばあるのです。私たちは、自分が死なねばならないということを忘れる。自分が罪を負っていること、偶然の手に委ねられているということを忘れる。そこで私たちは自分の現存在的関係から駆り立てられ、具体的な状況にのみかかおりあって、それらを自分のために支配したり、世界内において計画や行動によってそれに反応的に対処したりするのです。しかし私たちが限界状況に対していかなる態度をとるかといえば、それはこの限界状況を糊塗(こと)するか、あるいは私たちが限界状況を本当に把握するかぎり、絶望と回生によってそれに対処するかの、いずれかであります。後者の場合私たちは、自分の存在意識を変革することによって自分自身になるのであります。(以上)
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お母さん、なんであの人は手ないんの?

2023年05月27日 | 苦しみは成長のとびら
(3) 【感動する話】「お母さん、なんであの人は手ないんの?」小さな子供の声が電車内に響き渡った・・・ - YouTubeよりの転載です


私はいつも同じ電車、同じ車両に乗って通勤する。
始発から乗る私は、だいたい座ることではできる。他の乗客もだいたい同じ顔ぶれで、みな朝の貴重な時間をそ同じ時間を眠ったり、ゲームをしたり自分の時間に没頭している。
 そんな朝の車両にいつからか、片腕のない女性が乗りこむようになった。
彼女は腕のない肩に大きなバックを下げている。女性は座るとすぐに鞄の中から教科書を取り出して集中して読んでいる。私は彼女の教科書を見て彼女が学生だと知った。たしかこの沿線にはインターナショナルスクールが一つだけあって彼女の鞄のマークは正にその学校のものだった。
私は妹と同じ年頃のその女性が気になって、毎朝彼女が乗り込む度に目で追うようになった。
ある日のことだ。その時間の電車には珍しく親子ずれが乗りこんできた。母親は紺のスーツ、女の子もワンピース姿の見からのお受験に向かう親子だった。母親は電車に乗るとすぐに空いている席に娘と座り、」これからの面談に練習か娘と質疑応答をし始めた。始終真剣な母と対照的に娘はあまり気が乗らないのか、あちこちをよそ見をしては母親に叱られている。
すると女の子は突然、一カ所を見て固まった。女の子の視線の先にはあの片腕の女性がいた。女の子は次の瞬間、車内に響き渡る声で言った。
「お母さん、なんであの人は手がないの?」
私は思わず女の子の母親を見た。女の子の母親は厳しい表情で女の子を見ると、「大きな声をださないの。皆これからお仕事なんだから静かにしていなさい」
母親の娘の質問には答えようとせず取りあえず、その場を取り繕うと何事もなかったように、また娘と質疑応答の練習をし始めた。しかし女の子の方はまたあの女性がきになるらしく、母親の問いには無関心でずっと女性を見つめている。
すると視線に気づいた女性が女の子にニコッと笑って手を振った。女の子はドキッとしてゆっくりと手を振ると、もう一度小さな声で母親に質問した。「ねえ、なんでお姉えちゃんは手がないんだろうね」
母親は困った表情で娘に言った。
「どうしてだろうね。お母さんにもわからないけど」
車内の人の体裁が気になるのか。母親は質問の核に触れず、しどろもどろしていた。
すると片腕のない女性が女の子のお母さんのところへ来て「私からお話ししてもよいでしょうか?」
私も車内の人も女性の行動に呆気にとられ、事の経緯を静に見守った。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
「りんか…」
「そう、りんかちゃんって言うのね、可愛い名前」
名前を褒められた女の子は、モジモジと恥ずかしそうだ。
「お姉ちゃんはねマイコって言うの。お姉さんの片手が無いの気になっちゃった?」
女の子は小さく頷くと母親の方をみて様子を伺った。母親は女の子に目で合図して女性の話を聞くように促した。
「そうだよね。気になるよね。りんかちゃんのお友だちや家族には手は2本あるyもんね。お姉ちゃんの手はね。生まれた時から一本だったの。」
私も周りの乗客も見知らぬ振りをしつつ女性の話に耳を傾けていた。
「ママのお腹にいるときから手が一班しかないってこと、わたっていたんだって。だけもママもパパもそんなの関係ないって元気だったら良いって思ったんだって。」
女の子はキョトンとしながら、しっかりと女性の話を聞いている。
「なんで私の手が片手なのか、よくわからないいんだ。だけど私は生まれてから今まで一度も片手が無いことでお友だちにからかわれたり、これが自分だって思っているから悩むことも無いんだ。どうしただろう?と思うのは勿論オッケーだけど、いつもどうりのりんかちゃんで接してあげて欲しいな」
「うん、りんぁ大丈夫だよ」
女性は嬉しそうな笑顔で「偉い。さすがちんかちゃん」といって女の子とハイタッチした。」(以下省略)
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