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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

傷ついた心がより豊かなものを生み出す

2023年05月10日 | 苦しみは成長のとびら
昨日に続きですが、傷ついた心がより豊かなものを生み出す。阿弥陀仏の慈悲が思われます。2013年11月01日のブログで次の記事を紹介しています。

読売新聞(25.10.31朝刊)でよい話に出会いました。まずは新聞記事から。(以下転載)

薬物中毒を克服 歌手ライブに140人

 10代で薬物中毒に陥り、立ち直った経験を持つ歌手の杉山裕太郎さん(39)(さいたま市)の講演とライブが30日、松戸市民劇場で開かれた。約140人が聞き入った。
 杉山さんは、中学生時代にシンナーや万引きなどの非行に走り、高校中退や暴走族のリーダーを経て19歳の時、覚醒剤に手を出した。
 薬を打つ回数が増えて食減少。「このまま死ぬかも」と思った23歳の時、脳裏に一両親の顔が浮かび、実家に戻った。「仕事を探せ」と諭す父に「おめえらのせいでこうなったんや」と、薬を注射する姿を見せつけた。
 その時、父が「今まで何も知らなかった。おめえは大事な宝。立ち直るために何でも協力する」と号泣。「おれは愛されていた。今まで何やっていたんや」と思った。その後、2年かけて薬物中毒を克服。つらい時、たびたび音楽に励まされた経験から歌手になり、全国で歌とともに体験談を伝えている。(以下省略)


「ユウタ、お前はお父さんらの大事な息子だ! 一緒にがんばって、止められるように何でも協力する。お父さんたちが悪かった! お前がそんなに苦しんでいるとは知らなかった」と叫びながら、杉山さんを力いっぱい抱きしめ、泣いてくれたという。
 杉山さんは、ハッとして、世間体にしか興味がなく、自分への愛情などないと思っていた両親が、今、自分の悲惨な現実を目の当たりにして、自分のために泣いてくれている。その瞬間、杉山さんは、遠い幼年時代に両親から愛されていたことを思い出したと語っています。

そして、岐阜県にある朝日大学の法学部に入学、首席卒業。現在は、歌を歌い、親子関係を中心に、非行に走り覚せい剤におぼれていった自分のヒストリーを語っているそうです。(以上)

傷ついた心が父親の慈悲を誘発し、その慈悲によって自分を受け入れる心境に開かれていったという構図です。


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悪さをしない子は悪人になります④

2023年04月13日 | 苦しみは成長のとびら

引き続き『悪さをしない子は悪人になります』(新潮新書・2023/1/18・廣井亮一著)からの転載です。

 

子どもの攻撃性を肯定的行動につなげる

 それでは、子どもの攻撃性を肯定的行動につなげていくためには、親や教師の関わりとして何か求められるのでしょうか。

 子どもの攻撃性の肯定的側面をもっとも強調したストー「『人間の攻撃心』

は、親は子どもが外界の危険や内部の攻撃的感情を適切に処理することができるという確信を持って養育すべしと述べています。つまり、子どもを「信じている」かどうかということです。

 

 これらの学説を一言でくくれば、家裁調査官と非行少年との関わりをテーマにしたNHKドラマ『少年たち3』(2002年8月放送)で上川隆也演じる家裁調査官が語った、゛”信じること、希望を持つこと、人間はつながっている”という台詞に集約されます。

そうすると、子どもの攻撃性が健全な肯定的行動になるか、非行などの否定的行動になるかは、とりもなおさず子どもと大人の関係によるものだということができますぃしたかって、「非行少年は凶悪化している」と言いたければ、それは「非行少年は凶悪化させられている」と言い直したほうが適切です。

(つづく)

 

引き続き『悪さをしない子は悪人になります』(新潮新書・2023/1/18・廣井亮一著)からの転載です。

 

「甘え」と攻撃性

 攻撃性と依存性の関係については、日本人の心性を「甘え」の観点から解き明かした土居健郎の『甘えの構造』(弘文堂)、ここに分かりやすく説明されています。

 それによれば、「甘え」とは、「乳児が自分と母親とが別の存在であることを体験したことにより、一層相手との一体感を求めようとする感情表現である」としたうえで、「甘えられない乳児の憤怒は単なる攻撃性の現れではなく、依存欲求の不満による反応行動である」としています。攻撃性と依存性は、同じ関係性の裏表であるということです。

 また、犯罪心理学者の福島章(「現代人の攻撃性」太陽出版1974)によれば、「甘え」は、他者に依存し他者が自分に与えてくれることを受動的に期待するもので、「攻撃」は、相手に自己の欲求を強く認識させるが相手との溝を深めるものである、とその類似性を指摘したうえで、いずれも他者に関係を求める未熟で過渡的な対象関係的行動であると説明しています。

 攻撃性と依存性のアンビバレントな関係は、第一反抗期の幼児の母親に対する攻撃性をみれば容易に理解できます。たとえば、幼児が母親に対して、「おかあちゃんなんて嫌い」と泣き叫び怒りながら暴れて叩いたとします。これは、幼児の母親に対する反発という攻撃的な行動ですが、私たちは、この幼児の行動に攻撃性ではなく母親に対する「甘え」(依存性)を感じるでしょう。

 このような、攻撃性(反抗)と依存性(甘え)の関係は、乳児や幼児に限らず児童期においてもよく表れることです。思春期においては、自立と依存という発達課題を伴って、第二反抗期に親や教師に対する激しい反抗として依存性が示されます。ところが、親や教師は思春期の子どもに対しては、反抗の背後にある依存性を感じるだけの余裕を持てなくなり、反抗を抑えるだけの関わりをしてしまいやすいのです。すると、彼らの依存性を同時に潰すことにもなりかねません。

 親に依存することを許されず、虐待を受けて育った非行少年は、彼らの激しい攻撃性と依存性をあたかも黒と自が反転するように相手に向けます。これは彼らの攻撃性と依存性が極めて未熟な状態であることを示しています。(終わり)

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悪さをしない子は悪人になります③

2023年04月10日 | 苦しみは成長のとびら

引き続き『悪さをしない子は悪人になります』(新潮新書・2023/1/18・廣井亮一著)からの転載です。

 

 

「悪」と攻撃性

 子どもの「悪」は、やんちゃ、いたずら、わるさ、反発、反抗などの攻撃性として表れます。ここで、「悪」と攻撃性について説明します。

 「攻撃」は意図的になされる危害行為で観察可能であり、「攻撃性」はその行動が生じる心理的な過程であると説明されることがあります。このように定義する限り、攻撃性は「悪い行為を生じさせる心的過程または心的エネルギー」となります。

 値かに、凶悪事件、粗暴事件などの反社会的非行は他者に危害を及ぼす攻撃行動であり、自傷、薬物乱用、援助交際などの非社会的非行は自分を傷つける攻撃行動です。非行、犯罪やいじめなどの問題行動のほとんどは、攻撃性の歪んだ発動によるものです。

 そして、それぞれの犯罪・非行には、加害者の敵意、怒り、被害者の悲しみ、加害者に対する憎しみ、といった陰性の感情が付随するため、攻撃的な人格や行動傾向は否定的に評価され、抑制されるべきものであるとみなされてしまいます。

 ところが、ここで注意しなければならないことは、子どもの攻撃性は、親や教師など子どもにとって大切な人との適切な関わりによって、主体性、積極性、自生性といった生きる力を獲得するための肯定的行動にもつながるものだということです。攻撃性は、成長に伴い自分の意志、要求を通すための自己主張や、困難に立ち向かう勇気、主体的な行動力を促進していくのです。

 すなわち、攻撃性とは、自分を守り外界に対する適応、活動性や主体性を導く心的エネルギーだということです。攻撃性の原義に、「攻撃的」と「積極的」の意味がある通りです。

 したがって、子どもが成長に伴って各発達段階で示す、さまざまな反抗や反発を単に力や罰で抑え込んでしまうと、子どもの攻撃性を健全な方向に伸ばすことにつながらず、歪めてしまうことにもなりかねません。思春期の少年が非行やいじめなどの問題行動を起こしたり、青年が大人になるための必要条件を獲得できずいつまでも幼稚なままでいたりする理由の一つに、こうした子どもの攻撃性に対する対処のまずさが関係しているように思います。(つづく)

 

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悪さをしない子は悪人になります②

2023年04月08日 | 苦しみは成長のとびら

『悪さをしない子は悪人になります』(新潮新書・2023/1/18・廣井亮一著)からの転載です。

 

悪理学

 「悪」について説明します。

 動物行動学、生態学をもとにしながらさまざまな観点から「善」と「悪」について考察したL・ワトソン(『ダーク・ネイチャー悪の博物誌』は、善良なものが腐敗して邪悪なものに転じる契機を「悪理学の三原理」として次のように提示しています。

 第1原理一よいものは、場所を移されたり、周囲の文脈からはずされたり、本来の生息環境からはずされりすると悪いものになりやすい。

 

 どのようなことであれ、もっともよく生きられる場所から移動させられたり切り離されたり遠ざけられたりすると、よいものの安定性が乱され悪くなりやすいのです。そし、元の場所にも移された場所にも問題が生じてきます。ものにはそれぞれに応じた「居場所」があり、それを喪うと悪いものになるということです。

 

第2原理一よいものは、それが少なすぎたり多すぎたりすると非常に悪いものになる。

 

 何にせよ、多すぎたり少なすぎたりすると悪くなります。第1原理が質的な問題なのに対して、この第2原理は量的な問題です。生態系ではどのような種、集団も決められた限界を超えると悪くなるという自然のバランスがあります。

 

第3原理一よいものは、お互いに適切な関係をもてなかったり、つきあいのレベルが貧困化したりすると、きわめて悪質なものになる。

 

 いろいろなものとのつながり、関係がなくなるとよい状態が乱されるだけでなく、そのもの全体が完全に悪くなります。多様なつながりが減ると生命力は減退します。したがって、多様な共生的つながりが大切になります。悪理学の三原理のうち、もっとも重要なものがこの第3原理だとワトソンは言っています。ワトソンによれば、こうした「悪」の捉え方はアリストテレスの倫理学に通じるものだと言います。アリストテレスの倫理学は「黄金の中庸」という「ちょうどよい分量」をよしとします。中庸の範囲内に収まっているかぎりにおいて、よいものになるということです。何事も「ほどほど」がいいのです。そして、「よい在りよう」とは、よい者のみが生き残れるということではなく、悪い者も含めてさまざまな者が生きられる環境と言います(アリストテレス『コマコス倫理学』)。

 したがって、「善」と「悪」は相対的なものであり、「善」は「悪」の反対物ではなく、両方ともが存在するフィールドの一部分なのです。「善」が質的、量的、関係的にシステムとしてのバランスを崩したときに「悪」に転じるわけです。この考え方によれば、人間の場合は「人」及び「人と人の関係」における「善」と「悪」を包括して捉えなければならない、ということになります。悪理学からすれば、「悪」を排除して「善」だけを求めようとしたら、より邪悪な悪を生み出すことにしかなりません。(つづく)

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悪さをしない子は悪人になります①

2023年04月06日 | 苦しみは成長のとびら

『悪さをしない子は悪人になります』(新潮新書・2023/1/18・廣井亮一著)、興味深いタイトルの本です。

 

図書案内に次の様にあります。


「悪」は排除するべきものではない。悪と善は相対的なものに過ぎない。大事なのは、総体としての生身の人間の中に「悪」を正しく位置づけることだ。罪を犯し、非行に走った少年であっても、「悪」を正しくその子の中に位置づけてやれば、それは人生をプラスの方向に導くためのエネルギーともなるのだ

 

以前、このブログで〝ハトの喧嘩〟について紹介したことがあります。


http://satukirou.hatenablog.jp/entry/2013/10/03/202215転載。

鳩を籠に入れて喧嘩させると、際限なく殺し合う。相手が無様に倒れ伏してもその皮を剥ぎ続け、容赦のない追撃を加える。これが平和の象徴とされるか弱き存在の真実だ。

 鳩は自らを弱者と思っている。どこに行っても生態系ヒエラルキーの下位に甘んじるし、鋭い爪も牙もないが故に、広い場所で鳩同士喧嘩した際、逃げ出した相手を追い打ちして仕留めるほどの攻撃力もない。

 だから、鳩には自らの暴力を抑制しようなどという発想は生まれない。暴力の均衡を探ることの重要さも理解できない。条件が整ったら無限にエゴと暴力を解放してしまう。

 人間も、自然界においては鳩と同じく、物理的な暴力を持たない弱者であり、基本的に己の暴力を抑制する発想を本能レベルでは持ちえないのだと思う。

 実際、人は簡単に、「自分は弱い」「自分は虐げられている」という思いを、「だから自分は何をしてもいい」に転換して、落としどころの見えない過激な行動に走ってしまう生き物だから。(以上)

 

悪の効用と関係があるのかも知れないと、標記の本を読み始めました。

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