どこ吹く風

旅のことを主に書く。

最後の日

2005年08月31日 12時57分37秒 | 旅-マニラ
 最後の一日だからマニラの近場で見るべき所を見て、買い物をしたいということになった。キアポと中国人墓地を見てマカティのグリーンベルトへ行く事にする。観光半日、買い物半日という予定でtaxiに迎えに来てもらって出発。キアポは混雑しているのでとチラッと見るだけの素通りで中国人墓地へ行こうとする。

 何処へ行っても市場にはできるだけ行くように心がけているのでUターンさせて戻り、降りて歩く。暑さと人ごみの熱気は車の中から眺めるだけでは物足りない、ベト付いた身体を押し合いへし合いして肌で感じた方がいい。おりしも今日は日曜日キアポ教会は説教の真っ最中だった、敬虔な信者を掻き分けて後ろの方に安置されているキリスト像を見て反対側市場側に出た。大勢の人ごみの中を見物する。

 野菜や果物が珍しく面白い、何か分からないが適当に買う、剥いて貰ってその場で口にしたものもある、名前は聞いてもメモしていないので分からないが淡い味だった。ガード下で笛を探したが見当たらない、竹で作った楽器(?)をかう、先が割れていて叩くとブオ~ンと響くやつ、音がきれいに響くので買った。
口に咥えてヒゴを弾き口腔を共鳴箱にする楽器ーアイヌから東南アジアぜんいきにある。-を探したが無かった。

 10数年前はビスタン・ピリピノではその類のモノが数多くあった、あのような施設があればいいのに。小さな店が並びフィリピンの手作り工芸品があった、中央にはレストランがありバンブーショーがあった。飛び入りさせられたリズムにタイミングが合わず足を挟まれっぱなしで恥をかいたこともあった。

 キアポの市場見物の後中国人墓地へ向かう、それほど遠くないと思うが入り口を探してほぼ一周し入園した。大きくなお墓が並んでいる、郷友会の合同墓地のようなものもある。邸宅を思わせる墓もある、管理が行き届き街中よりずっと清潔だ。シーミー(があるかどうか知らないが)の頃は大賑わいだろう。

マカティに向かう、昼食はローリーさん(ドライバー、ようやく名前を思い出した。)等とSMマート(?)の地下の大食堂で食べる。日曜なので小学生の息子も連れてきていたので一緒に食べた。はにかみ屋の子でオミヤゲは何が良いかと尋ねてもモジモジしている、チキンのから揚げを押し付けるようにして持たせた。

 午後は買い物をしてホテルへ戻るだけなので車は返って貰った、夕方まで待つとのことだったが、TAXIを拾えばいいので断った。マカティにはグロリエッタとグリーンベルトのショッピングモールがあるらしいが、私たちが買い物したのはきっとグロリエッタだろうと思う。私は小さな笛を買った、それとTANDUAY RHUMにFANDADORを合わせて6本。
妻や娘達はそれぞれ何か買い物をしたようだ。

 あまりの広さにウロウロするのも疲れる、できるだけ動きたくないがオンナどもはそうはいかなない。あっそうそうGパンも買ったのだった。裾を調整する時間は彼女達に付き合わずに坐っていた。場所柄なのか歩いている人たちの服装や表情は以前とは違う、小奇麗になり、ノンビリした雰囲気がある、なんやかんや言われながらも少しずつ良くなっているのだろう。
 
 最後の夜だから夕食は豪勢にやろうと話しながらホテルへ戻った

トゥバ

2005年08月29日 07時18分53秒 | 旅-マニラ
 今回はライステラスを見たかった、遠い、マニラを9時に出てバナウェイ到着は6時、途中食事時間はとったが殆んど走りっぱなし、運転助手が必要なわけだ。

山を上ったためか涼しい、朝起きてバルコニーに出ると谷あいに田んぼが見える。霞がかかったようにボケている。孫が熱を出して一晩中むずがっていた。夜から熱さましを買いに出かけたが空いているドラッグストアがなかった、赤ちゃん連れの場合はもっと念入りに準備すべきだった。ハンセイ。

 ホテルの売店で木製のオミヤゲを買う、とても重いがイスを買った。木を刳り貫く枕式のイスで大きさ、作る手間を考えても安い、しかし重い、担いで運ぶわけでなしと思い切って買った。

 8時半出発、ライステラスのビューポイントは10箇所ほどあり、散策コースもあるがマニラまで戻らないといけないので一ヵ所だけに留める。民族衣装を来たお婆さんたちが数名坐っている、一緒に写真に写る為にそこにいるのだ。一緒に入ってもらった、ニコニコした笑顔がいい、どこでもお年寄りの顔はいい顔をしている、お礼は一人当たり5ペソか10ペソ渡した、その金額が妥当かどうかは分からない。

 この季節はそうなのか風景がかすんでいる、朝の逆光のためかな、遥か下の方まで棚田が並ぶ、長い年月をかけて造ってきたのだろう、人間の努力にただ頭が下がる思いがする。もう一泊してゆっくり廻るべきだった。

 帰りはバギオ経由で行くとのこと、遠回りになるがこの際見れるならどこまでも、という感じで出発、昨日の道を下る。ボントックまで行きバギオに戻るルートは道が悪くて通れないようだ。ただひたすら走る、途中ランチタイムをとり道端でトゥバを売っているの見つけたので買った。
トゥバは初めてマニラへ行ったころから味見したかったものだ。本で知ったのだが椰子の樹液を自然発酵させた飲物とのこと。マニラでは見つけることができず、知人が持ってきたものは酢になっていて不味いものだった。

 その名を知って10数年、今度はホンモノの味がするだろうと期待して飲んだ、爽やかで甘く、シュワ~と又プツプツと泡が立っている、もっとアルコール分が強いと思っていたのに殆んど清涼飲料水だ。もっと時間が経てばアルコール濃度も上るかと期待して時間経過と味との関連を確かめながら飲んだ。翌日は甘みが薄れて椰子の香りと味が強くなったがアルコール分が増えた感じは無かった。
 500ml瓶で20ペソ、味は期待したものではなかったが10数年来の想いを達する事ができて嬉しかった。

 ベンケット道路に猿岩を通りバギオに着いたのは4時ごろだった。バギオ名物の鶏料理を食べたかったが時間が無いので早々に発つ。
鶏料理とは殺すときに棒でぶん殴り血液を肉に滲み込ませると美味しくなるとのこと、血抜きをするのが一般的な調理法だがわざわざ血を滲み込ませるのは珍しい。考えてみるにミネラル分が豊富な血を食するのは道理に叶ったものである、我が島のチーイリチーもその一つ。食べたかった、この次だ。

 バギオは木彫の盛んな地でもある、ホテルで買ったイスと同じものが4割安く売っているので、もう一つ買った、それに同じ方法で作った花置き台、これは口で説明するのはムツカシイ写真で説明しようと思うもお世話になった歯医者さんにプレゼントしたので手元に無い。いつか写真を撮ってアップします。

 夜も次第に更けてきてもマニラは遠い、マルコス道路を走りマニラに着くと今度は渋滞、EDSAをノロノロ進む。夕食の場所は運転手に任せたら時間が遅いので閉店していた、しょうがないので又アリストクラートへ行く11時前になってい、。ホントにご苦労さんでした。

ライステラス見物というより車に乗ってい疲れただけでだった。しかし風光明媚で運転手の人情味にも接したし良い旅だった。途中の街も通過しただけだが面白い光景をチラッと見ることができた。

 写真説明
 イスと花台です、写真が無いと書いたがありました。
 三脚の上に直径50cmほどの木鉢がのります。

 持ちにくいという欠点はあるが運んできたら価値が出てくる。
 フツーの旅人なら買わないでしょう。
 孫たちが喜んで坐っています。

ライステラス

2005年08月28日 07時39分50秒 | 旅-マニラ
 いつものように早起きしてリサール公園の脇道を散歩する。屋台では道端にしゃがんで朝ごはんを食べている人もいる。パンデサルというパンが1個4ペソ、モノは試しと買い味見する、塩味でそれなりに美味しい。

 朝食はjollibeeでとりBunaue(バナウェイ)へ向けて出発した。長距離を走る事になるので早めの9時発。地図を拡大コピーしてきたので運転手に渡す、フィリピンの人でもルソン島中部まで知っているとは限らない、運転助手がその地図を参考にしてルートを指示しているようだった。基本的には国道を北へと走ることになるが、町を通過するとき次の町を目指して進むかの参考にしていたようだ。

 出発前運転手(名前を忘れてしまった。)がライステラスのあるバナウェイは高地で寒いので準備をしてきたと毛布を見せた、一緒にホテルに泊まろうと言うと笑いながら車で寝る、大丈夫という風なことを言う。
フィリピン人は厚かましく何でも要求する、というイメージを持たれがちだがこの方は全くその気配すら感じない。手配してくれたGさんの人徳だろう。

 彼はフィリピンで数人に奨学資金を提供していて、運転手の係累の子にも奨学資金を出しているとのこと。我々はその方の紹介なので丁重に扱っているのだろう、それに加えて根が温厚な性格であるように見受けられた。
食事の注文でも一汁一菜どころか白米におかず一品しか注文しない、もっと食べなさいとこちらが追加注文することがしばしばあった。

 フィリピンの町の入口はアーチがあり町の名前がデカデカと書かれている、それによるとBAMBAMGA、ARISTRO NUEVA VISAYAとかSAN JOSEとかを通ったようだ。BAGABAGUというところから暫らくして山道に入る。
途中の街で昼食を取る、jollibeeだ、朝もjollibeeだった、フィリピン最大のファーストフードチェーン店で、マクドナルドを押さえてトップになっているのが面白い。またjollibeeに対抗するためにマクドナルドに米のメニューがあるのには笑った。
ガンバレJollibee!

 山道を上って行く日も沈みそうだ、ホテルは飛び込みで探すつもりで予約はしていない。運転手が街の人に尋ねて小奇麗なホテルに到着、一人800ペソとのこと、運転手と助手も一緒の泊まろうと誘うが車で寝るという、遠慮しているのだろうか。そこで宿泊料相当額を現金で渡した。

 食事は定食が付いているが50ペソの追加料金を払えばバイキングになるとのことだったのでそのようにした。夜ホテルのロビーで民族舞踊が披露された、最後は飛び入り歓迎だったので一緒に踊った。泊り客は西洋人も多かった、ライステラスは世界的に有名なのだろう。来る道すがらライステラスが見えたが明日のビューポイントからはもっと凄い風景が見えるだろう。

フィリピン名物

2005年08月27日 08時58分06秒 | 旅-マニラ
フィリピンといえばジプニーというほどジプニーは有名だ、ボディやボンネットに派手な絵を書き、馬やペガサス、フォーンが7~8本と所狭しと飾り付けられている。見ているだけで楽しくなる乗り物だ。
初心者がある目的地へ行くために乗って行くのはムツカシイ。最終地の終点は表示されているが途中のルートが分かりにくい、フロントガラスに小さな表示板があるが瞬時に判別するにはコツが必要だ。

膝我を突き合わすほど狭い車内で固い座席に片尻を置く感じで坐る、ゆったり坐る事もたまには出来るがだいたいチョイ掛けだ。地方で見かけた後部にぶら下って乗りたかったがマニラでは禁止のようだ。
ぶら下ったり屋根の上に坐ってみたい。

 フィリピンにはもう一つの有名なモノがある。バロットという卵、これがフィリピン関連では必ず話題になるシロモノなのです。
 バロットはアヒルの卵で、孵化寸前の卵をゆで卵にするので、殻を割ると雛が蹲って入っているのが見える。ゆで卵を割るとき通常先が尖った方を上にして割る、するとそこがアタマの側になる。口ばしとか目が見えはじめて産毛に覆われた羽も出てくる。

 バロットの食べ方は先の方に穴をお開けて荒塩を入れまず汁を飲む、それから剥きはじめる。前述のように頭を身体にくっ付けて丸まっているのでガブッと齧る、口ばしは固いので吐き出す、骨は柔らかくて身と一緒に食べてしまう。フツーのゆで卵の黄身のような味がするところがある、胴体になのか。

 食べては美味しく、話題性もある面白いバロットはチャンスがあればチャレンジする価値はある。バロットの話しをすると気持ち悪いと嫌がる人が多い、今回タガイタイの展望台で打っているのを見つけて買い、家族の前で食べると欲しそうな顔をしてもっと買うように言われた。

 オバアのところへ行き追加してみんなで食べた。少しずつ割って中味を確かめながら食べていた。鶏がらスープにチキンとゆで卵の組み合わせなので美味しいのは当たり前だ、姿かたちが少々気になっても食べるとそれ以上のモノを得ることが出来るバロットです。
価格はマカティの飲み屋付近で売り歩いているもので50ペソ、田舎で22ペソ、その程度なのでダメで元々という感じでトライするのがいいでしょう。なお飲み屋へ行くときバロットをオンナの子の手土産に持参したら喜ばれる事請け合いです

3月10日(木) 観光椰子園

2005年08月26日 06時52分52秒 | 旅-マニラ
 ヴィラ エクスデーロという観光椰子園へ行く。南の方へ2時間ほど走ったがハイウェイは穴ポコもなく補修がきちんとされている。途中タール火山と思われる富士山に似た山が遠くに見えた。あそこへも行きたい、見たい場所はたくさんある。

 当初バグサンハンの滝に行く事も考えたが、ボートでの遡行は赤ちゃんも一緒だということで止めた。もう一つの理由は、これが大きいのだがボートマンとのチップの金額での不愉快な交渉に嫌気がさして行く気が失せたのも事実だ。慣れない、気の弱い人は100ドル取られる事ある。日本人は概しておとなしいのでカモにされる確率が高い、台湾人や韓国人はボートマンがケチというほどしっかりしている。
この辺りはハッキリ意思表示できる台湾・韓国人を見習ってノーの連発で切り抜ける気力が必要だろう。
チップの相場なんて知らないが、最低賃金から考えて自分なりの妥当な金額を出すべきだろう。

 必ずトラブルになるので今回は未だ行ったことの無い観光農園を選んだ。高い入園料を支払うとカラバオ(水牛)に引かれた馬車・・・馬車はおかしい、牛車で中央のレストランまで連れて行く。ギターマンと歌い手つきの牛車で風情がある、揺られて面白かった。
 入園料に昼食が含まれている、レストランへ行くとチケットを見てアチラ側へ行けと外を指差す、訳が分からずウロチョロしながら歩いていくと川に下りる階段がある。川の中にテーブルが並べられて食事をしている人たちがいた。これは面白い、靴を脱いでテーブルに坐る。川の水はきれいで滑らないように注意しながらバイキングの料理を取りに往復した。料理内容はそれなり、というところ。上流側に堤があり水が流れるさま、水紋を観ながら食事をした。
足は水に浸かっているので涼しく感じる。

 園内には農園主が蒐集したものを展示する館があった、マニラカテドラルを模した建物で、かつての”古きよき時代”の文物書画工芸品などが所狭しと陳列されている。

 このヴィラ エクスデーロ農園は、わざわざ時間を作って見に行くほどのことは無いが、一度は行ってもいいのかなとも思われる。

 帰りにタガイタイまで寄り道する、昼も過ぎているので日光がベタになり全体が霞がかかったようになってせっかくの風景がボケてしまったのはザンネン。それでも湖に浮かぶ島の眺めは素晴らしい。大勢の観光客がいる、大音量のカラオケからフィリピンでは珍しく下手くそな歌が流れてきた。タホ売りの若者だ、憂さが晴れただろうか。

 下る道沿いに果物屋の店が並んでいる、買おうと思うも運転手が飛ばすのでタイミングを失った。またタガイタイはブコパイの名所だと聞いていたのでパイを食べたいと思い運転手に伝えたが、あちらの店が美味しいと言いながら忘れてしまったようだ、おかげで食べ損なった。

 ラスピ-ニャスのバンプーオルガンを見るのは出発時点で伝えてあった、それは覚えているらしく既に日は落ち真っ暗になったうえ、ラッシュ時間になったのに廻ってもらった。暗い教会の中なのでよく見えなかった。前回は演奏者の横近くまで上って見たが時間が遅かったのでチラッと見るだけで帰った。

 夕食はみんなでアリストクラートへ行く、メニューが豊富なのと値段もそこそこだと思われるので好きなレストランだ。あ
明日の打ち合わせをしてホテルまで送ってもらう。

マニラの思い出と出会い

2005年08月25日 08時39分49秒 | 旅-マニラ
 初日の観光はマカティまで出たもののグリーンベルトを廻ることなく夕日を見るべく海に向かう。ホテルに戻り易いようにリサール公園も向かい側で車を降りた。TAXI料金はまとめて支払っても良いとのことなので明日の時間を確認して別れる。

 マニラ湾に張り出すようにコンクリートの床が作られている。けっこう広くて屋台やカラオケまである。水とアイスクリームを買って日が落ちるのを待つ。期待したほど赤くはならなかったがマニラ湾の夕日はきれいだ。

 10数年前は二階バスによる夕日観光というものがあった。リサール公園前からロハスブルバードをパサイまで往復するだけだが、これがとても可笑しく面白いツアーだった。
まずバスはフツーのバスの屋根にベンチを二列に並べて周囲に手摺をめぐらし、後部に乗降用の梯子が付いている。言うちゃあ悪いがフィリピンらしい乗り物だった。

 お客が集まるのを待って出発、一番前の木製ベンチに陣取る、高いところなので気分まで高ぶる。私が乗った時間は夕日がとっくに沈み真っ暗になってからだったので、景色を楽しむより雰囲気を楽しむ時間になっていた。ロハスブルバードは当時から整備されていて街路樹が並木になっていた。バスの屋根の上の席なので街路にはみ出した椰子の葉や木の枝が頭や顔に当たりそうになる。

 それ来たぞ~っと誰かが合図すると一斉に頭を引っ込める、危ないといえばアブナイ、みんなキャーキャー言いながら首を引っ込めていた。バシャッと音がするのは誰かが当たったのだろう。バスの作りといいルートの危なさといいフィリピンらしい、無事パサイ往復したが愉快な観光だった。
今は廃止されたようだ、もう一度乗りたかったのに。

 その夜はインターネットで知り合ったマニラ在住の方との飲み会が予定されていたのでマカティまで出かけた。深夜まであれこれ話した、ありがとう、それにホテルまで送ってくださったもうお一方にも、ありがとう。
楽しいマニラの一夜でした

  (書き続ける時間が無いので、これにてシツレイ。)

写真は、少々ボケているが、タホ売りのようすです。
     美味しかった。

市内見物

2005年08月24日 10時52分49秒 | 旅-マニラ
 マニラは暑い、しかし夜になると気温が下がり凌ぎ易くなる。アリストクラート前の整備された通り、ロハスブルバード沿い、その向こうの海側も大勢の人で賑わっている。人間が多いのは分かる、前もそうだった、だがしかしそこに集っている人の雰囲気は大違いだ。前はビンボウったらしいというか胡散臭いというかそのように感じたが、今は皆さん明るい、楽しんでいる雰囲気が伝わってくる。

 美味しいものを食べて気分もいいので散歩を楽しんでも良かったが、乳児も同行しているし疲れも若干あるのでホテルに帰る。
 ホテルはマニラパビリオン、このツアーの一番安い宿泊価格のランクになっているが立派なものだ。特にセキュリティがしっかりしている。これまでの旅行で高級といわれるようなホテルに泊まった経験が少ないので、カードに記録された階しかエレベーターが止まらないようになっているシステムは初めての経験だった。
 また私たち夫婦の部屋と娘達の部屋が建物の端と端なのには閉口した、何をするにも一緒の行動なので拾数部屋の前を通り過ぎて遥か遠くまで廊下を歩かされるハメになった。
 朝散歩がてらにリサール公園沿いを歩いているとタホ売りが来た、話は聞いたことがあるが味見したことは無いので一杯注文する、10ペソ也、ユシ豆腐に蜜をかけたようなもの、プリンのようなものと言えばいいのかな。出勤前の人たちが食べていく、この人たち朝からおやつを食べながら出勤するのか。家族の味見用に追加注文した。好評だった。

 朝食を含めて食事が一切付かないのでジョリビーへ行き朝ごはんを食べる。ホテルの隣近所にはファーストフードの店が競うようにある。マクドナルドは当然としてケンタッキーチキンにグリーンなんとかという店そしてチャンピオンのジョリビー。フィリピンなんだからまずはジョリビーというのが自然な流れ、おじやセットを注文した。一人当たり50ペソ足らず、つまり100円足らずというところ。

 観光はインターネットの掲示板仲間に手配してもらったTAXIを利用した、一日2.500ペソで遠出の際のガソリンは別途支払うという条件だ。車はワンボックスカーなのでよかった。ただ後部座席を3列にしていたが、2列なら尚快適だっただろう。

 観光は定番どおりイントラムルスから始まりマニラカテドラル、カーサマニラと巡る、私は数回目、末娘は数年前一緒に来たので2回目だが歴史ある建造物は何回来ても飽きる事は無い。
 サンチャゴ要塞はスペイン時代を考えさせるし、リサール記念館は国民に慕われているリサールの生き様を表現している。彼の高い志を現在生きている政財界の皆さんに認識させたい、時々リサール記念館詣でをしなさい。

 そこへ入管のとき、記念に来場者名簿にお名前を! という感じでペンを渡されたので記帳する、住所氏名の下に寄付金額の記入欄がある、ヤラレタ~と娘たちと大笑い、100ペソでも200円、まっいいか。

 昼食の場所は適当に選んでくれと運転手に頼むと、パサイの向い側の湾を埋めたてている何も無い所に連れて行く、所々にポツンとビルが建っている、さらに離れて拾数件の店が集まっている場所が出てきた。
全てが飲食店のようだ。店名から察するところファーストフードのモールという感じだ。市街地からも遠く離れているこの荒地によくもまあ企画したものだと感心する。時間の所為もあろうが賑わっている。フィリピンは食うや食わずの人々ばかりと思っていたが、いつからこのようになったのだろうか。

 シーフード主体の店に入る。運転手と助手は遠慮しているのか入ってこないのを引っ張り込む。シニガンにイニハウ、BBQチキンはもちろんバグースにその他諸々を一緒に食べる、6人分で1480ペソ3000円、安いと声を上げたいところだが現地の所得を考えると安い安いを連発するのもどうかという気になる。

 最低賃金が時給で605円と日給でそれくらいしかもそれさえ守られない国とを単純に比較して安いというほど無神経ではない。あの日の昼食は私の1時間分の賃金以下だがフィリピン人にすれば日給分という人が大勢いる、そういうことも念頭においてモノゴトを判断した方がいい、たとえ観光であっても。

 午後からアヤラミュージアムへ行く、入館料は高すぎるがフィリピンの歴史がジオラマで分かり易く説明展示してある。面白いと思ったのは展示ブースに空きがありこれから起るであろう出来事のスペースを予め用意してあることだった。最近の出来事もチャント見せている。つまりピープルパワーのことです。国を変える出来事はちゃんと後世に伝える事もミュージアムの目的の一環なのだろう。歴史を反省せずむしろ隠蔽しようとする国との違いがある。
しかもここは一財閥のミュージアムである、その姿勢は評価したい。

マニラへ

2005年08月23日 08時33分44秒 | 旅-マニラ
 フィリピン航空の沖縄便は、週4便でマニラ→那覇→福岡→マニラルートとその逆の、マニラ→福岡→那覇→マニラのルートである。
那覇からマニラへ行く場合直行便なら2時間弱で行けるが福岡経由の場合は3倍以上の回り道となる。ツアー料金が安い出発日は当然福岡経由となる、私たちもその便に乗った。13時発16時30分着、時差があるので1時間プラスの長時間フライトとなった。

 旅行社の説明では航空運賃とホテル代だけでホテルへの送迎は無しととのことだった。空港での諸手続きを終えて外に出て、TAXIを手配しようとしたら名前を書いた紙を持った人がいる。掲示板仲間に頼んで手配したTAXIは明日からだし・・・あやしい、しかし何故名前を知っているのかといぶかりながらも合図した。日本語でホテルまで送るという。金は要らない、企画している旅行社から連絡があった、必要なら明日からガイドをしても良いとのこと。フィリピンというお国柄だから送迎のある無しはチャント説明をしてもらいたかった。

 年配の方で日本語もまあまあ上手く歴史から地理文化まで一通りの説明をしている。明日からどうするかと聞くのでTAXIは手配済みだからケッコウですと断った。受け入れの現地旅行社としては送迎だけでは割に合わないだろう。
ホテルのチェックインまでしてくれた、那覇で前もって送迎の説明が無かったので最後まで素直に受け入れることが出来ずに落ち着かなかった。送迎は無いという説明だったのに、でも無事送ってもらったそTAXI料金も節約できたので良しとするか。

 途中のパサイ付近の風景は以前と変わらないように見えた、真っ暗になっていたせいもあるだろう。しかしビトクルスの交差点を過ぎた辺りから様相が一変した、色とりどりの華やかな街灯が立ち屋台が並び大勢の人が出歩いてる。人がウンザリするほど多いのは前もそうだったが服装や雰囲気が小奇麗になっている、以前とは大違いだ。ロハスブルバードが一変している。

 ホテルでの荷解きや休憩もそこそこに夕食へと出る。目指すはアリストクラート、フィリピン料理が揃っているし、値段も大衆料金だ。ボーイがTAXIを呼ぼうとするのを断りジプニー乗り場へ行く、ジプニーを見ればフィリピンということになるほど有名なジプニーに乗らない手は無い。それにリサール公園付近からマラテ近辺へ行く道路は一方通行なので迷う事も少ない。
 それにジプニーに乗れることを家族に自慢もしたい、ちょっと歩いてジプニーを止める、初乗りが5.5ペソになっていると書かれていたが、その料金で何処までいけるのかが分からないので30ペソを渡すと9ペソのおつりが来た。

 アリストクラートはマラテチャーチの前に在ったので降りる場所を間違うわけが無い、と思いつつもケッコウ長く感じ不安も出てきた、家族にはキョロキョロ景色を見るフリをして教会を探す。かつてのマビニの歓楽街はまるっきりなくなりあの頃を偲ばせるものは見当たらない。バイヤッド、パーランモと懐かしい言葉を聞いた、暫らくして教会前に来る、ついでに私もパーランモと小声を出しながら天井を指で弾いて降りた。教会付近は以前と変わらず静かだが、海側を見ると街灯に噴水その他もろもろかつての面影が無いほどの変わりよう。

 孫がいるのでクーラー無しの部屋を探して坐る。初めて来たときこじんまりと落ち着いた部屋でテーブルにはローソクがあった、そこで食事をした覚えがある、今日は大衆的な大部屋だ。
 シニガンにアドボの代表的なものをまず選びチャプスイ、ブラロ、BBQチキンにバグースと手当たり次第という感じで注文した当然サンミゲールも。
4名では多すぎるが少ない滞在期間にアレコレ味見するには残してもしょうがない程注文せざるを得ない。ゴメンなさい。

 チキンが美味しい、何故フィリピンのチキンは美味しいのか。味付けもさることながらチキンそのものが違うのだろう、淡白というより味が無いブロイラーのパサパサしたものとは違う。初めて食べるフィリピン料理にみんな満足した様子だ、腹いっぱいになった。あれだけ注文して一人当たり600円足らず、言うこと無し。

 フィリピンの初日はただ夕食をとっただけだったが胸はずむ。一日だった。

写真:アリストクラートのメニューです。

下調べ

2005年08月22日 08時45分05秒 | 旅-マニラ
 今回(‘05.3.8~3.14)のフィリピン旅行を思い立ったのは、新聞広告だったか旅行社のチラシだったかで”マニラ AIR & HOTEL”の安いツアーを知ったからである。
フィリピン航空が就航して以来マニラが近く安くなったので、また行きたいと常々考えていた。しかし先立つものがないので旅行社から貰ってきた案内チラシを眺めて気分だけを味わっていた。

 往復航空賃と4日間のホテルの素泊り料のみだが、¥58.000~99.000となっている。料金の差は出発の曜日とホテルのランクによる違いである。それに延泊の場合も一番ランクの低いホテルは、¥3.500である。
1週間の旅でも、68.500 なら国内旅行よりも安い。食事と交通費を1日当たり5.000としても10万円で1週間の旅ができる。

 行きたいな~と思っていたら妻と娘が旅行へ行きたいと話している。そこでマニラを提案したら乗ってきた、うふふふふ・・・
案内役ということで旅費を出してもらえた。

 早速あれこれ調べ始める。まずホテル選び、ランクがA~Fまであるので一番安いAクラスの比較をする。しかしインターネットとフィリピンの古いガイドブックとではと同じホテルなのに名前が違っている。新しいガイドブックを買ったほうが良さそうだと本屋へ行くと、数社の世界各国・観光案内書がずら~っと並んでいる。どの出版社が良いのかな、とフィリピンもしくはマニラを探す。しかし見当たらない、見逃しかと思い今度は念入りに見る、見当たらない、見逃しではなく無いのだ。

 一番大きな書店だと思ったのに品切れか、しょうがないと別の本屋へ行く、無い。品切れではなく仕入れていないのかもしれない。意地になりあちらこちらの本屋を巡ると1冊だけあった、初心者向けという感じの内容の浅いガイドブックが。
フィリピンって人気が無いことを改めて認識した。

 観光地のとしてのフィリピンは、見るべき場所、食べ物など素晴らしいものがある、しかしフィリピンは怖い、アブナイなどの悪いイメージが大きいのだろう。そういえば旅行社のチラシ、パンフレットもフィリピンに関しては殆んど無いのが実情だ。せいぜい紙1枚のペラペラで1色刷りしか置いていない。フィリピンに行こうということ自体が憚られる雰囲気なのかな。

 そのようなイメージのフィリピンに家族旅行、それも1歳にならない孫まで連れて行くのは、ある人に言わすれば無謀ということだろう。ある種の危惧・不安は持たれていても本当は良い場所なんだよなフィリピンは。

 ガイドブックはある程度新しくないと役に立たない。例えばMRTは古い本には載っていない、ホテルも名前が変わるようだ。A(安い)コースのホテルはマニラパビリオンとトレイダースホテルからの選択なので、リサール公園近くのマニラパビリオンに決めた。

 またライステラスを見たかったので日程も1週間とした。これで市内および近郊の観光ができる、バナウェイのライステラスが1泊だけではキツイとおもうがしょうがないか、それと迷ったのがバグサンハンの滝見物、小舟で川を遡るのは面白いが、フィリピンの一番嫌な面と戦うのは疲れる。今回は止めて置こう。
バグサンハンの嫌な面とはボートマンとのチップ論争である、これでボラレタ日本人は多いだろう、そのためにフィリピン嫌いになった人も多いだろう、行きたい所だがイヤナ場所でもある。

 旅は現地でも楽しいが、事前の下調べもまた楽しい、ワクワクしながら出発を待った。

写真は、マニラ湾の夕日

フィリピン・マニラ

2005年08月21日 09時42分12秒 | 旅-マニラ
 初めてマニラを訪れたのは1990年だった。たしか2月だったと思う。暑かった、当時は電力事情が極端に悪く毎日停電が起きた。店では路上に置いた発電機を回す対策を採っていた。発電機が無いところは暑さや照明を我慢せざるを得ない。クーラーが切れて暑くなったので窓を開けるとムッとする熱気が入ってきたので慌てて窓を閉じたこともあった。
 車も冷房は付いていたがあまり効かず窓を開けるとヘアードライヤーを顔面に吹き付けられたような感じがしてビックリした。あの暑さは尋常なものではなかった。それでも精力的に街を歩いた。仕事で行ったのだが、その仕事が公言できる無いようではないので詳しくは言わないが、犯罪とかその類ではなくヨタ話的な部類なので大っぴらに言うのが憚られるのである。

 私はある人の企画の補佐的業務をするために付いていったのである。他人の金でマニラを楽しんだということだ。ただし旅費は出してもらったが、それ以外の報酬は貰っていないし旅費相当分は仕事をしたつもりなのでお互いフィフティ・フィフティで恨みっこ無しだ。つまりこの企画はダメじゃないかと内心思っていながらスタートしたので後日いろいろあった、その言い訳的な意味も込めたフィフティ・フィフティ発言である。

 私としてはマニラを、フィリピンを知る機会を得たことをその方に感謝しています。

 当時の私は何処かへ旅するときは勉強して出かけた。ガイドブックを数冊買って読み、図書館でその補充をしてとフィリピンのことを読んだ。付け刃であっても予備知識があるのと無いのとでは違う、楽しみ方が違うと思っているアレコレと本を読んだ。フィリピンは英語が通じるのでナントカなるが出来れば現地語も少しは知りたいと思いガイドブックのチョットした単語や会話の項を読んだがそれだけで覚えるはずも無い、ムツカシイと思いながら一応読む。タガログ語の会話本を買って持って行った。

 何処の国でも外国人が自国語を学ぶ姿は嬉しいようで親切に教えてもらえる。言葉というても食べ物の名前と地名、それにカタコトの挨拶でも親密度が増すし、手前味噌だが理解が進んだ気にもなる。独りよがりのことでも自分なりに努力している気分を味わい、楽しめればいい。
言葉は分からなくても地図を片手に行きたい場所にいけるし、食事も身振りで注文できるので言葉は必須条件ではない、しかし少しでも知っていた方が良いのは自明の理、でもこれだけ英語を学んでも話せない、書けないのにこの年になって新たな外国語なんて笑い話にもならない。それは分かっていてもチョッカイを出したくなる性格です。

 結果は10くらいのセンテンスと2~30単語を覚えただけです。数字は1から3までは言える。威張れないか・・・
 
 現地スタッフにジプニーやバスの乗り方を教えてもらい利用した。TAXI利用でも300円で行けるが20円で行けるバスがいい。ヒマになったら当てもなくジプニーに乗った。終点まで行き戻ってきたり、途中で面白そうな場所が来たら降りて歩いたり、ただそれだけでも面白い。

 楽しい思い出があるマニラに数ヶ月前に家族旅行した。妻・二人の娘に孫の5人旅、孫は1歳なので実質的には4人だ。
何でフィリピンに・・・とか危なくない? とかの言葉も聞かれたが、楽しい旅になることは間違いないと確信して出発した。

写真は、パビリオンホテルからリサール公園・大蔵省、キアポ方面遠望

印象

2005年08月19日 11時19分51秒 | 旅-スイス
人・人間
 スイスの国名は、Confederatio Helvetica 「ヘルヴェチア連邦」と言う、と解説書にある。へ~っという感じだ、初めて知った。
九州ほどの広さに720万人の人口だそうだ。
人が少ない、希薄という印象はあった。その希薄というのは目にする人々の数が少ないというより、自分との接触度が薄いという意味も含んでいる。

 山への人出は多いが人間臭さが無い、人間を感じさせないほど山の風景に溶け込んでいるのだろう、と考えてもおかしくない。しかし、しかし・・だ。
初めてのヨーロッパなので考え違いがあるかも知れないが、人ごみの中でも人を感じさせないのは自分と大勢の人との間に非常に大きな空間があるように感じる。

 アジアでは何処でも人ひとヒトで、空気もネットリして目が合う人たちと自分は何か関係があるのじゃないかとの錯覚を覚える。何かしらヒトとの関わりが出てくる雰囲気が漂う。それほど経験が多いわけではないが、アジアとの差が感じられる。

 スイスでは隣に坐っているオバチャンがスイス人なのか外国人なのか判別できない。この時期、この時間に旅を楽しんでいるのは我々と同じく外国人かもしれない。このような意識も作用しているのか。



 スイスは旗が似合う国だ。野山をバックにしてへんぽんとはためく赤地に白十字の国旗。集落でも国旗を立てている家が多い。車窓からの風景だが集落の半分の家庭に旗が立っている地域もあった。何かのお祭りだったのか、それにしては国旗を立てている家が偏っている。

 山の一軒家、片田舎のポツンと建つ家にも立っている。その風景がまた絵になる。石屋根の家の庭先の旗、緑の野山の赤い旗は風情があり美しい風景だった。
そこで国旗を立てている家が多いですね、聞いてみたら、スイスでは飲食を提供する場にはおおかた国旗が立っているとのこと。
これで納得がいった。

ハイキングコース脇の民家に上っている国旗は喉を潤し腹を満たす場所だそうだ。それを国旗に象徴させるということは、国は国民を飢えから守るということを現しているのだろうか。

この項で暫らくスイスから離れよう。
昨日スイス鉄道の旅のVTRを図書館から借りて見た。ミラノからサンモリッツ、アンデルマット、チェルマット、ゴルナーグラード、そしてモンブランまでの沿線を紹介していた。チェルマットまでは見覚えのある風景だった。
今は廃線になりボランティアが運行しているというフルカ峠はぜひ通ってみたい。また越えてみたいところだ。

 妻が旅行の話をしたら、スイスだけに11泊したの!勿体無いという雰囲気だったそうだ。それも殆んど山岳地帯だけ。まあスイスのある面だけを見たということです。
また歩ける日を夢見ることにしよう。

アウトドア

2005年08月17日 10時24分17秒 | 旅-スイス
 交通費の項で、費用明細を載せるつもりでいた。Excelで作った表を htmlに変換するところまでは行ったが、その表をブログにリンクする方法が分からない。私のホームページに載せて、それにリンクを貼るつもりでいたけど、アップできない。元もとのソースを保管してある場所が分からなくなった。何処だろう・・・

 スイスはアウトドアを楽しむ人が多い、その内容も多い。行ったところがそのような場所だからということを考慮しても多い。まず目に付いたのが自転車、ツーリングスタイルに身を包んだグループ・家族が坂道を登っていく。あのような坂道を登らなくてもいいのにと思うも、その行為を楽しんでいるようだ。

 子供を乗せるリヤカーに荷物のためのリヤカーとデザインもステキな補助器具がある。二人乗りも機能性デザインもグッド。自転車用の車両もフツーに連結されているお国柄だからでしょうか。山、坂のあるところは自転車に向かないという常識はこの国では通用しないようだ。
挑発的な言い方ですが、長崎のみなさんは昨年何か感じなかったでしょうか。

 ペダルが無い自転車をリースしていた。自転車型からスクータータイプまで。初めは意味が分からなかったが暫らく考えて下り専用と気づいた。シュワルツゼーからマッターホルンを背に駆け下ったら爽快だろう。イヤ肝を冷やすかな。

 ハイキング大勢のハイカーが歩いている。ストックを両手に持った爺さんバアサンが様になった格好で楽しんでいる。私たちは下りのハイキングを楽しんだが、途中で出会う人たちは登って来た人たちだ。この年でここまで・・・言葉が分かるなら”先は遠いヨ、がんばれ”と笑顔で声を掛けたい気分だ。(笑)

 パラグライダーも盛んなようだった。いつでも山にぶつかってできる上昇気流があるのだろう。飛び立つ場所までロープウェイが来ているのでラクに飛べる。中には担いで上ってくる鳥人もいた。飛び立てばそこは・・・飛ばなくても想像できる、練習を始めてアルプスで飛んでみようか、という気分になった。

 パラグライダーとサーフィンボードを組み合わせたものも湖で舞っていた。沈したらボードとパラグライダーを担いで飛び立てる場所までトボトボあるくハメになる。
山をバックにすると、如何なるスポーツでも素晴らしく見えた。なぜスイスの山をバックにすると如何なる事も似合ってくるのか。偏見の色眼鏡が自然に被さってくるのだろうか。
自分もこの大自然と溶け合ってステキな風景のひとコマになっていると意識すると気持ちもシャンとなる。自意識過剰と言われようが、そう考えてもちっとも変だと思わせない大地であり、風景だ。

 次ぎ行く事があればどの種目にエントリーしようか。ハイキングは当然として自転車かな。 

交通費

2005年08月16日 07時47分47秒 | 旅-スイス

 旅行の費用は航空賃、宿泊費それに交通費が移動用の列車・汽車と観光するためのケーブルカーやロープウェイ料金に分けられる。
 スイスでは観光客へのサービスとして、外国人向けの交通費割引制度がある。大まかに言えばスイスパスとハーフチケットである。ある期間汽車や湖船・バスが乗り放題になるのがスイスパスである。また99フランでハーフチケットを買い、それを提示すると殆んど全ての交通機関が半額になるシステムもある。

 どちらの方法が安くつくかは行き先、旅行期間、利用する交通手段などを具体的に検討しなければ答えは出てこない。
一例として私たちの費用、スイスパスとハーフチケットの場合とに分けて計算してみました。
 あくまでも目安とご理解ください。
 費用明細はこちら ←リンクする方法を理解するまでお待ちください。
 
 空港内若しくは隣接する駅の案内所で購入できます。日本国内の旅行社で購入するとたぶん多額の手数料込みになっていると思われるので現地での購入をお勧めします。

 現金、スイスフランをどの程度持参するか。ドルならともかくスイスフランとなると地方在住者は困る、金融機関がそれほど準備していない。それにレートの問題もある。1フラン当たり3~4円の手数料を取る。私たちは郵便局で3万円ほど替えた。

 注:私たちと書いたが、金の出処は妻で私はたんに書いているだけです。正確に言えば金のことは「妻が」と書くべきであったが、文を書いているとき何か違和感を感じたの私が、とか私たちと表記した。
黙っていれば分からないことだが、妻がこれを読まないとも限らないので一応付記しておく。

 印象としてそれほど多くのフランを準備する事は無いだろう。殆んどの店でカードが使えるのでカードを持っている人はカード利用がいい。駅やスーパーで1000円ほどの買い物でもカード処理で済ますことをお勧めします。後日記録になるし、レートも交換時の手数料が掛かっていないような気がした。
 現地の空港で両替することも出来るので全く手持ちフランが無くても大丈夫でしょう。アジアと違い市中の外貨交換所は無いだろうから、銀行レートとの差で1食分の食事代を浮かすことはできませんヨ。(笑)

 写真はチューリッヒの空港です。
    案内板に従って行くと案内所へ行けると思います。

小鳥のえさ

2005年08月15日 07時45分41秒 | 旅-スイス
 小鳥のえさを食べたらスイスのことを思い出した。
小鳥のえさとは、フェルストで初めて出されたもので穀類や乾燥果物、ナッツ類が入ったシリアルの一種である。
 子供の頃米軍からの流れ品で、トウモロコシを押しつぶしてヒラヒラになったものを、私たちはファラファラーぐぁーし(ヒラヒラした菓子)と呼んでいた。今はシリアルと言うらしい。

 そのファラファラー・グァーシだけのシリアルはよく見かけるが、圧し麦やナッツに干しブドウ等がミックスされたものは初めてだった。”これってなに?”と口に入れると、食べられないモノではない。面白い食べ物だ、ヨーグルトをかけて食べるので栄養もあり身体に良さそうだ。
チャンスがあれば手に入れてオミヤゲしたいと考えた。
 
 チェルマットのCoopでおみやげのチーズやチョコレートを買うため、店内を回っていたら見つけた。750g入りで400~500円ほど。内容表示を見ても理解できないので値段で選んだ。
 このブログの最初の項「アルプスのHiジジイ」で書いた、友人の忙しい男にアルプス土産として持って行き、健康を保ちながら頑張って欲しいと思っているからだ。

 アルプスの香りとは程遠いが、スイスの質実剛健さがこのシリアルに現れていると私は考えているので、彼にも気に入ってもらえるはずだ。
私は蓋付きの容器に入れて食卓においてある、口が寂しくなるとボリボリ食べる。レーズンを追加して入れると甘みが出てより美味しくなった、しっとりしたレーズンも数日で水分を抜かれてカビも生えなくなる。

 このブログにスイスの思い出を書いているので、スイスの記憶はカビが生えることなく新鮮そのものだ。戻ってはや7週間になろうとしているのに未だスイスから抜け出せないほどだ。記憶は常にその事を考える事によって定着するので、これほどスイスの事を考え続けたら、もう忘れる事は無いだろう。地名も今頃になってアタマに入った、ムリして現地の表記を書いたのも、スペルを覚えるというより地名をアタマに入れたかったからである。その成果は出た。

 でももうスイスから抜け出そう、願望希望だが、また行く事もあるだろう。その時にこの数週間に仕入れた(付け刃的)知識が役立つことを期待してスイス編に一応区切りをつける。あと2,3項目は書くつもりだが・・・・

 小鳥のえさは、腹持ちが良いので一掴み食べて暫らくすると腹が膨れてくる、山の非常食にもいい、またスイスでの行動食にも使えそうだ。その時は乾燥リンゴとかナツメなどの果物を追加しよう。

推測 憶測 妄想

2005年08月14日 06時18分37秒 | 旅-スイス
 たった11泊の短いスイスの旅でアレコレ憶測でモノを言うのはおこがましい気もするが書こう。車窓から見える風景に疑問がわき、自分なりに結論を出したものがある。また買い物をしながら感じた疑問もある、それも自分なりの答を出した。ワトソン君に説明するホームズのように鋭い推理なのか、はたまた妄想なのかは正確な答えを未だ見つけていないので何とも言えない。個人的には正しい推理と思っている。中らずとも遠からじ、程度だと思っている、安易過ぎるかナ。

 スイスはユイ、結つまり共同作業、協同組合が発達したところだと思う。広大な牧草地から街中の狭隘な牧草地までじつに良く管理されている。トラクターが動けない斜面や狭い所は人力での刈り取りが行なわれていた。それに山の中腹で放牧している頃麓では刈り入れをしている。冬の用意なのだろうか。このように重層的な作業がなされている。各家庭がバラバラの作業では出来ないだろう。集落ごとに共同で作業を分担した方が効率的だろう。

 牧草管理、放牧担当、乳絞り・販売加工と作業を分担して行なわざるをえないだろう。山の放牧場には大きな石があちらこちらに積み上げられている。牧草地の整備の一環だろう。これらも個人ではムリだ。

 スイスは直接民主主義の国といわれる、集落ごとの共同作業が基礎となり、話し合いで持って物事を決定する風習が育ったのだろう。限られた生産の場を効率よく利用して、さらに納得できる分配をするには強権か話し合いしかない。

 スイスはきっと貧しい国であっただろう。また宮廷・貴族制はそれほど発達しなかったのではなかろうか。その根拠はスイス料理というものをあまり耳にしないからだ。私たちがビンボウ旅行で食に金を回さなかったので、そのように感じたのかもしれない。

 フォンジュは一回だけ食べた。あれはチャンプルーと同程度の扱いでいい、料理人が出る幕が無い家庭料理だ。
食は王朝・宮廷で発達する、スイスには王朝食文化が発達するほどの強力な権力者が出なかったのではなかろうか。
調べたらすぐ分かる事だろうが、調べるほど拘っているわけではない、ただ疑問が起きて勝手に理屈をくっつけて分かったフリして楽しんでいるだけです。

 次にスイス、特に私たちが行った地方は山岳地帯なので勾配の強い坂道が多い、それも延々と続く上り坂も多い。当然大型トラックも走っている。トラックは思いのほか快調に坂を上っている。ふと気づいた、トラックが黒煙を出していない。我が島だけでなく、日本では必ず煙を吐きながら喘ぎあえぎノタノタと上るトラックがあるのに、そのような車両に出くわさない。

 煙を吐かないトラックがあっても不思議ではないが、黒煙をまるっきり吐かないトラック(大型車両の事)だけというのもヘンだ。何故だ? 
きっとディーゼル車が無いのだろう、これが私が出した結論です。完璧に整備したら日本のような黒煙車は出てこないかもしれない。しかし全ての大型車両が全く排ガスのケムリを出さないのは考えらえれない。エンジンが違うと思う。
この推理はいかが?

 牛乳、買って飲んだ、あの美しい牧場でノンビリ草を食みながら育った乳牛だからさぞかし自然の味がするだろうと思っていた。一口飲んでの感想は予想に反して淡白だった。乳脂肪分が2.7%となっている。ドイツ語表記なので勝手にそのように思っているだけだが、これも中らずとも遠からじ。日本では3.5が普通になっていると思う。

 酪農先進国がこの数字、日本と違って濃厚飼料を与えないのだろう。飼料用の牧草の改良は進んでいるだろうが、トウモロコシのような飼料を与え続ける事はしないのだろう。狭い牛舎に閉じ込めて濃厚飼料で乳量を上げ、脂肪分を増すようなことをしていないのだろう、と推測した。

写真は牧草の刈り取りに向かう人たち