どこ吹く風

旅のことを主に書く。

楽しかったこと

2006年02月28日 07時31分42秒 | バリ
写真が無い、あの頃はデジカメなんて無かったし・・・
家に置いてあるものでバリのものは・・
探せたら後日載せましょう。
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 レギャン通りについて書いたが、バリで最近もテロによる爆破があったがその爆破があったレストランがレギャン通りにある。先日ツアーの大黒柱的存在の千ちゃんが、”我々が食事した食堂の2.3軒先に高級なレストランがあったでしょう、あのレストランだよ爆発があったのは。”と話していた。
バリではガイジンーそこでは我々もガイジンの部類に入るーが多いところです。オーストラリアが近いためだろうオージーが多かった、あの頃も。
 
 と、レギャン通りの補足をして、バリ滞在中の楽しかった想い出を続けよう。
ホテルの前に海はある。クタビーチはインド洋に面した長さが数キロにも及ぶ見渡す限り砂浜で押し寄せる波は荒く高い。
サーファーにとっては素晴らしいところだろう。子供づれの我々は常に注意を払っていなければならない、毎年遭難者が出るようだ。波打ち際の膝の深さしかない無い所でも波が来ると頭まで水に浸かってしまうほどだ。その波が四六時中寄せてくるので気が抜けない。

 波に巻き込まれないように常に波に乗っているように注意して動いていた。波打ち際を散歩している白人の老夫婦が突然襲ってきた大波に巻き込まれた、波が引いたら浅いので二人とも立ち上がったが水中で揉まれたのだろう奥さんの水着は肩から外されてオッパイ丸出しの状態になっていた、そのくらい危ない浜である。
 半身のサーフボードを男の子からレンタルしたら子どものメンドウまでみてくれボードで一緒に遊んでくれた。ボードで波乗りするのは子どものみならず大人も楽めた。

 ある時はヌサドゥアのほうでパラセールに乗りに出かけた。モーターボートに繋がれたパラセールに乗るのである。操縦方法を教えてもらい順番に空へ舞い上がった。子どもはインストラクターが同乗するので安心して大空の散歩を満喫してきた。
地上ー水上かーわずか数十メートルだが上から眺める景色は格別だ、遥か彼方にアグン山が見え海岸端の椰子の木々に囲まれた建物、水平線、全てが感動を持って眺めることが出来た。
もっともっと漂っていたかった。

 ケチャックダンスを見に行った、屋外なので蚊が多く手で払うが気を抜いた瞬間蚊に刺されてボリボリ掻きながらの観賞となった。
演じるものはラーマーヤナからで王子と悪魔の戦いで、チャチャチャ チャカチャカチャカ チャッチャッチャッの独特のリズム発声に合わせて王子にサル王妃が入り混じって物語が進む。
かがり火の中で演じるので趣がある、興奮状態でホテルに戻った

レギャン夫人

2006年02月27日 09時23分40秒 | バリ
 レギャン通りはクタビーチ界隈で一番賑やかな通りだった、両側に商店や長屋風な市場が並んでいる。オミヤゲ品、日用雑貨、食堂・レストラン、銀行、役所(?)、宝石店等ありとあらゆる業種の店が続いている、そのうえ例の売り子も数知れず彼らが扱う品々の種類も数知れずでゴチャゴチャしていて見て歩くだけで楽しい。

 一緒に行ったご夫人達はこの通りを毎日ジャランジャランするのを楽しみにしている、それで自らをレギャン夫人と呼んでいた。値切り交渉を楽しむようになり数人で一人の売り子に集中攻撃して追い込むまでになった。バッグを買い翌日同じ品を買いに行ったら安くし過ぎて店主に叱られたのか幾ら攻めても前日の価格では売らなかった、これほど買い物を楽しめるようになっていた。

 布、トンボ玉、蔓製バッグ、装飾品など小物を見てブラブラするのは楽しい、毎日同じところを歩くのだがが新しい何かを発見する、それを自慢しあうのも又楽しい。
 あるとき私と息子の前に彫り物が施された棒を、持った男の子が現れて買えという仕草をする。1mほど筒で先に龍の頭と尻尾が付いている、”何か?”と聞くと口に当てて別のワシの彫り物の容器から針を取り出して筒に差込んで吹く動作をする。

 吹き矢だと気づいた、インドネシアは吹き矢を使って獲物をとると何かで読んだ覚えがある。まず息子が興味を持ち私も欲しくなったので別のデザインは無いのかとか付随する矢の数などを含めて何時もの様にやり取りした。1000円ほど出したがお面が500円だしチョット高かったかな。でも好い物が手に入った珍しいし飾り物になると思ったし暫らくは吹き矢せ遊び吊り下げて飾り物として当初の目論見通り使っていたが今ではエモン掛になってしまった。

 バティックで有名なティンガナンへ出かけたときご夫人たちは布を見に店に散らばって行った。集落は中央広場を囲むように周囲に住居がありその住居も入口が狭く中が見えにくいので店なのか住宅なのか分かりにくい。
布を見てもしょうがないので広場のど真ん中にある屋根だけのオープンな集会所らしき所に坐っていると竹製の打楽器ジュゴグの音が響いてきた。昼下がりの物憂げな太陽の光の下に流れる軽やかな響きがとてもよかった。その響きに誘われて行くと一軒の店でご主人がバスが着いたのを察して客寄せで鳴らしてた。手作りのようで飾りも何も無いがとても綺麗な音が出ている。

 街で見た楽器でガムランは欲しいが高くて手が出ない。ジュゴグは飾りが付いて彩色されたものがあり弾かなくても飾りとしても良いと思うが大きいので買うかどうか迷っていた。それに楽器としての性能判断に自信をもてない。
いま目の前で素朴な作りだが良い音色を出しているものがある。客が入ってきたのを歓迎するように演奏も益々熱が入っていく、品定めの時間のバックミュージックでもある。私は布は見ずに演奏を聴いた。
そしてそのジュゴグを指さして幾らかと聞いた、演奏者のご主人は布を方を見て何か言う、再度ジュゴグを指してこれが欲しいと言うとようやく分かったようだ。
3000円で折り合いが付いたのでバラして新聞紙に包んでくれた。

 バティックの店で楽器を買う変なお客と思っただろうが、あの時の音色は素晴らしくて心の隅々まで染みとおった。バリの人はあの程度の演奏レベルはフツーに持っているのだろう。あのジュゴグにしても村には竹を削り組み立てる人が2,3人はいそうだ、布を売るより利益が出たと思う。
私も持ち帰りるのにメンドウだったが我が家であの時と同じ音色を楽しめた。

いくらイクラ?

2006年02月25日 10時14分30秒 | バリ
本文と写真の関連はありません。
今では我が家の守り神となった一つです。
坐ったとき背中から見守っているのを感じます。

 バリは買い物およびその関連の思い出が多い、それほど売り子の接客態度がおもしろい。フツーの日本人なら買い物不信症になる恐れがある。(笑)

ジャランジャランー散歩ーに行くと寄って来る物売り、”センエン千円”と声を掛けながら寄って来る。手には当時流行ったプロミスリングー組紐のような作りの腕に巻きつけるリングーを持っている。「要らない」と無視しても引き下がる相手じゃない、3本にしてセンエンと言う、「要らない」のひと言。5本にする、「要らない」。10本にする、[要らない]要らない物は要らない、好い加減にしろ!と呶鳴りたくなるが大声を出すほどの事は無い、これもバリ風景のひとコマと割り切るのがお互いの為だろうと勝手に自分をナットクさせる。

 ”安いヨ安いよローレックスセンエン"と言うヤツまで現れる、こうなるとお笑いだ、ホントにコピー商品と呼べるのか疑問すら感じる。ホンモノのローレックスを知らないので比べようも無いが幾らなんでも千円とは・・オモチャと思われるよ値上げして偽者らしくしたら!とアドバイスしたくなる。

 物売りは客が買わないとなると最後に出す言葉は”イクラいくら”とくる、幾らなら買うのかという意味である、「こういうものに興味は無い、値段の問題ではない幾ら安くなっても買わない。」と言いたいが言葉が通じないので態度で示す以外に無いつまり無視。
 買いたいモノがある時は粘るのがイチバン、時間を掛けて交渉するのが最良だった、博打で言えばハッタリをカマスのも必要だ。バスが動き出す瞬間まで勝負するのである、その値段なら要らないという態度でバスに乗り込むと相手が折れる場合が多かった。もちろんこちらの提示額が原価割れしているのか断られて買えない場合もある、その時は別の場所で見つけるサと割り切ることだ。その場所でしか手に入らない物なんてそんなに有るわけじゃない。

 物の妥当な値段は幾らか。これはムツカシイ日本国内でも判断は難しい。
外国での目安は行く先で日給や月給を聞くそして1ヶ月の生活費から物の値段を割り出すのである。1ヶ月の賃金が1万円に満たない地域国は多い、日給500円にも満たない人が普通なのだ。
このような状況条件で物の価格を類推すると凡その見当がつく。一食で日給相当の食事をするのは年間何回あるか、自分なら昼食に日給の何パーセント掛けられるか、そういう感覚で計算するといい。
モノでも同じ、その品物を作るのに職人が何日掛かるかを推計してそれに芸術点や好み度を加えて自分なりの評価額を出してみる、それを基礎に交渉したら良い、あくまでも自分の価値尺度で判断する事が必要だ、他人より高く買ったからと嘆く事は無い少々高く買ってしまったとしても。
売る側にも生活があるのだと嘯こう。(笑)

丁々発止と駆け引きしながら買い物するのもバリ観光の楽しみの一つです。
「いくらいくら」は帰ってからも人気の言葉になりました。
このいくらいくら、はアジアの観光地の共通語と思うが如何でしたか皆さんが行かれた場所では

珍しいもの

2006年02月24日 18時32分39秒 | バリ
 紀行文によくガイドブックに載っていない穴場、とか地元の人しか知らない・・とかの記述がある。それは魅力的な言葉だ、しかし誰もが行くところは行っておきたい、訪れる人の大多数が行くというのはそれだけ魅力のあるところでもある。

 それゆえ私たちは既に書いたように、誰もが行くところは見た。やはり素晴らしい景色・光景があり、期待を裏切るものではなかった。残った日々は市場の中を歩いたり美術館へ行ったり泳いだりと思い思いの行動をした。当然ガイド無しの個人行動どうだった。

 このツアーの大黒柱である千ちゃんの友人であるガイドのダナさんから”今夜は自分ので改宗式があるので見に行こう。”との誘いがかかった。夜迎えに来るという。
はて改宗式ってナンだろう、今夜の改宗はイスラム教からヒンズー教に変わる儀式だそうだ。
バリはヒンズー教の島なのでヒンズーの方がビジネスとか暮らしに便利なのだろう。

 夜ホテルを出た、空は真っ暗で満天の星の上普段とは違う位置から見る星なので星座がサッパリ分からない。
「そうだ南十字星が見えるはずだ」と皆で探すがなかなかアレがそうだと言えるものが見つからない、車が来る頃になってようやく星を結ぶ事が出来た。見えすぎるのも困ったものだ。

 儀式のある着くと大勢の人がある方向へ歩いている、お巡りさんまで出ている、ガイドのダナさんから逸れないように目で追いながら子どもと手を繋ぐ。暫らく歩くと村芝居をやっているような所に出た、そこがその場所だった。
儀式は既に終えて祝宴が開かれている、庭の一角のような広場のようなところでロープで区切られている。ロープの中にテーブルが並び中央に本日の主役が坐っている、その周りはバリ独特のうず高く積み上げた果物やお菓子が飾られその他のお供えも並んでいる。

 お客さんも大勢いて飲みかつ食べている、舞台が作られていて可愛い娘さんが踊っている。私たちは主役の方に挨拶をして席に坐った、なぜこの場に坐れるか分からないがダナさんのカオの所為だろう。お祝いに招かれているので私たちは一家族千円程度を集めてご祝儀とした。

 ロープの外側にはの老若男女が集まりこちら側を見ている、こちら側というより目的狙いは舞台の踊りにあるようだ。踊り手は衣裳や様子から見て専門の人たちであった、先ほど踊っていた娘さんも場慣れした様子で踊っていた。
大勢の人に囲まれて飲み食いするのは勇気が要る、ハレの食だから当然ご馳走だ、ロープに手を掛けた子供たちの目がそれを物語っている。

 この雰囲気は子ども頃の部落行事を思い出す、大人は一品持ち寄りの酒宴で舞台は青年会や婦人会の出し物で賑わい子供たちは周囲を駆け巡っていた。その雰囲気を再現するかのようだった。

 コーラが出されたがそれが面白い、オープナーで蓋を開けるのでは無く太い釘で壜の蓋に穴を開けてそこにストローが差し込まれている、なんとも荒々しいコーラの飲み方だ。また蓋を開けるにも壜の口付近を2本一緒に持ち蓋のギザギザを片一方の蓋の上に被せる様にする、すると壜は段違いになっているその底を地面に打ち付けると上の蓋が開く。
100円ライターで開けるのと基本は同じ。

 改宗の宴の途中に長老らしき人が何か祈りか祝辞かを述べる場面もあり、舞台の踊りも続く、音楽はスピーカーで中に流されているし、しかも大音量なので大勢の見物人が集まるのもムリは無い。
儀式を受けているのは若い二人なので結婚披露宴の雰囲気に思われた、もしかして結婚を期にどちらかが改宗したのかもしれない。
よく分からないが、とにかく珍しいものに参加する機会があったのは良かった。

観光

2006年02月23日 09時35分03秒 | バリ
 バリは見るべき所が沢山ある。
見るべきというのは言い過ぎだが、見て楽しい場所おもしろいもの心洗われる光景がいたるところにある。

 せっかくバリまで来たのだからイチオウ見ておくべき場所は見ておこうと当初からの計画に従って2日間は全員で観光した。
ウブド、ヌサドゥア、キンタマーニ、ベサキ寺院、ティンガナン等がその代表的な観光地です。
それにガムランの演奏にケチャックダンスを見たり、影絵を見たりと見て楽しいものや面白いものも多くある。
それらをひと通り見て残りの数日間は各自各家庭の自由行動となった。

 ここで挙げた地名は有名なのでガイドブックで必ず紹介されている所です。沖縄で言えば首里城、海洋博記念公園、ひめゆり記念館のようなものでしょう。
10数年前の旅行であったが今でもそれらの場所やダンスを思い出せるのでバリは凄いところです。

 特に印象に残っている場所はキンタマーニへ行く途中の棚田、上へ上へと延々積み上げられた田圃は人間の営みの重さを感じた。三尺四方に満たない田を見て驚くやら呆れるやら、道端の小屋で一人で竹の木琴ジュゴグを弾いている、叩いているというべきか。軽やかな音が稲の苗を撫でながら登っていく、谷の向こうの田にも響いているのではないだろうか。
ここはバリだ~、バスを止めて暫し耳を傾ける。農家のオッサンが作業の疲れを癒して叩いているというシチュエーションがなんとも言えないほど良い。バリだ~。

 バロンダンスも演舞場で見た、観光客向けに常設されている。ラーマーヤナを読んでいると理解し易い、ケチャックダンスや影絵を見るときでもラーマーヤナの知識があるとその場面が理解し易いと思った。
演じられる内容は長い物語の一部分なので完結はしない、もともとラーマーヤナの世界は勧善懲悪では無くて、善と悪がせめぎ合いそれが延々と続き勝ち負けは無いようだ。物事の二面性を飲み込み混沌としたものがこの社会であると規定しているように見える。
善悪の神々やその化身が未来永劫戦い続ける模様を踊りや影絵にしている。

 とても可笑しかったのはホテルの庭で開かれた影絵の上演だった。スクリーンにワヤン人形の影がガムランの響きをバックに映し出される。語り手がストーリー述べながら人形を扱う、人形も人や動物に神話に出てくる想像上の動物のほかに善とか悪を象徴するものまである、それらを場面に応じて出したり引っ込めたりする。
 楽屋裏を覗くとガムランを演奏する人と座長なのだろう人形遣いの二人しかいない、座長は両手に人形を持って操るばかりか足の指にバチを挟み太鼓まで叩いている。動かす必要の無い背景となるモノは所定の位置にある道具に刺してある、それもストーリーに応じて換えていく。

 その上座長はストーリーを語りながらである、しかも三箇国語で語っているインドネシア語は当然で英語と日本語が加わっている。ヒドイ日本語で「あんた ナゼナゼわるいある、よい神たたかう・・」と抑揚をつけて話す、分かったのはその部分だけ後は意味不明の言葉が続く。インドネシア語、英語日本語と語っているつもりだろうが日本人に理解できない日本語、おそらく英語もその程度だったのだろう。

 語りながら人形を操り太鼓を叩くのを一人でこなしているのを楽屋裏から見てあまりの奮闘振りは日本語の下手さをカバーして余りあるものであった。帰ってからも独特の言葉使いと抑揚は時折り家で真似をしてウケた。

 バリは楽しいところです

変更

2006年02月22日 07時34分03秒 | 懐かしい旅の記録
 今朝ブログを開けてビックリした。
テンプレートのスタイルが変わっていたからです。昨日気分を変えるために変更したのですが、変更した後を見ようとしたのですが見ることができなかった。

 ブログを閉じてすぐ開いても変わっていなかったので私に操作ミスだろうと思っていた。今朝PCを立ち上げいつものサイト巡りのをしてから開いたらマッターホルンが飛び込んできたのでア~ッと思った次第です。
再起動しなければならなかったようです。
 
 マッターホルンで気持ちが好いのですが今は南国バリについて書いている、合わない、マッターホルンとバリの神々の写真はどう見てもマッチしない。
しかしマッターホルンは好きな山で、プロフィール欄にホテルの窓越しに写した写真を載せたほどである。
 スイスを書いている頃このスタイルがあったら(見つけたら?)プロフィール欄の写真も変わっていただろう。

 重なるのはイヤミになるかな~。
せっかく見つけたので1日で変更するのもナンだし、当分このままにしておく。バリを書き終えた後でベサキ寺院とかキンタマーニの景色のテンプレートを見つけたらショックだな~。(笑)

ものの値段 値切る

2006年02月21日 07時11分56秒 | バリ
 ホテルからレギャン通りに出るまでの間、通りに出てからも両替商の店がある。店によりレートが違う、それほどの差は無いけどやはりムキになるものだ、店頭に表示されている数字を見比べて両替する。店によって円に強い、ドルに強い、中東に強い店があるようだ。

 このように努力して換えるのだから使うときも細心の注意を払う、つまり一生懸命値切る事だけど・・
この値切る行為はごく自然に訓練される、というのはホテルを一歩出るとそこにはミヤゲ品を売りつけようと待ち構えているがワンサカいる。

 いったいバリで物の値段・価格はどのように決定されるのか、経済学を専攻した私でも分からなくなり混乱する。(笑)
ある種の哲学基本原則を持たねばバリでの買い物はできない。
その原則とはいたってカンタン「必要な品を自分がその品に価値を見出す金額を払う。」というスタイルです。

 今様の言葉で言えば、「市場原理・自己責任」というところでしょうか。
例えばアクアー水の事ですーを買えと近づいてくる、最初は”300円”と言う「高い!」とひと言いい無視して歩く。”250円”未だ無視して店を覗きながらブラブラ歩く、まだ着いてきて”アクア200円"と言う、周りはタバコや絵画等の他の商品を売ろうとする人でいっぱいになっている。
頃合を見て「アクア100円」と告げると一瞬考えるようにして”OK”で商談成立となった。

とその時新参者のアクア売りが”安いヨ安いよアクア300円”と割り込んできた売り子には笑った。
100円の水を買うのに1マイルほど付き纏われ時間も小一時間は掛かっただろう。
 注)金額はウロ覚えです、そのような雰囲気だった、ということでご理解下さい。
また、その数年後妻が再度行ったときにはシツッコイ物売行為は規制されていたとのことです。

 ものの値段は一事が万事この調子だった。
ある時疲れたのでホテルまでTAXIに乗ることにして交渉すると1万ルピアと言う、高い5000ルピアにしろと要求するとダメという。暫らく押し問答いていると姿を消しして何処かからピくアップー小型のトラックーを持ってきて、これなら○○ルピアで良いと言うのでトラックに乗って帰った。

 その時私たちが30分も掛けて交渉して得たものは、50円ほど値切った満足感とトラックの荷台の硬くて尻が痛くなったことであった。(笑)
金額はホテルで落ち着いてから計算した結果なので、みんなに僅かな金でお尻の痛い想いをさせて・・・と文句を言われたのは当然であった。

ジューシー じゅーしー

2006年02月20日 07時45分57秒 | バリ
 バリも屋台が多い、道端でゴーゴーと唸り声を上げるコンロでミーゴレンを手際よく作っている。油を多量に使っているけど鍋でかき混ぜるとき麺から炎が上がっているのであの油も燃えてそれほど摂取せずに済みそうと思いながら見ていた。

 不思議なのは大きく丸いエビセンがご飯の上に乗ってくることだ。ライスとエビセンの組み合わせが分からない、エビセンの味が好きでないので何時も残していた。バイキングでは初めから取らなかった。

 珍しいものとして蛙のフライを注文した事がある、鶏のから揚げと変わらない味という印象だった。娘もよく食べた、お腹の下で足が開いている形で明らかに蛙と分かる、同行のご婦人たちはキャーキャー言うているが、勇気を持って口に入れたらアッサリ味にナットクしている様子だった。

 私はジューシー(雑炊)が好きなので食堂で注文してみた、もちろんインドネシアの言葉は数語しか分からないのでライスとかスープとかの英語を混ぜる。英語でも雑炊の作り方を説明するほどの力は無い。
身振り手振り英語日本語をあらゆる努力をしてウェイトレスに伝えた。みんなジューシーはは絶対に出てこないと興味津々で待っていた。

 注文した料理は次々出てきた、私はひたすら待つ、暫らくしてウィトレスが持ってきたものは紛れも無くジューシーだった。ジューシーがバリのレシピにあるかどうか知らないが雑炊は米文化の基本だよと子供たちに威張った。
今でも我が家の旅のエピソードの一つとして語り草になっている。

 ホテルは数室が一棟となっている平屋が点在し廊下は無く手入れされた花木が美しい庭園沿いを歩いて各部屋に出入りするスタイルだった。
部屋からロビーへ行くたびにメンバーの部屋付近から異様な臭いがする、ドリアンの匂いだ。私に食べさせようと買ってきたのとのこと、有志が集まったところで割って食べた。結論から言うと食べきれたのは私と・・・私だけだったかな。
買ってきた本人は溝に吐き出した、口に入れただけリッパというところか、残りの人は押して知るべし。

 私はマニラで数回食べたので味香りに慣れていた、初めて食べても美味しかったのに。味より臭いだろう、妻は喉の奥の臭いが何時までも無くならないと嗽やら飲物を何回も飲んでいた。口の中から臭いを無くそうとせずにドリアンの香りはあのようなものだと素直に受け入れた方が良い、そうすべきだ、そういうものだから。

 近頃香りが全く無いドリアンをスーパーで売るようになった。買った事は無いが匂いが無いドリアンなんてCM風に言えば、クリープの無いコーヒーなんて、ということだろう。
 ドリアンのお礼にマンゴスチンを買った、これは大好評だった、マンゴは美味しいがヤマトゥの半分近くは食べきれないという、ウルシ科の植物なのでしょうがない面がある。 しかしマンゴスチンは皆がみんな美味しいと言う、ただ食べ方というか割って中味を出すのが分からずに苦労するようだ。

 両手の指をしっかり組んで両掌で押しつぶすと割りに簡単に中味を取り出せる。あの真っ白いミカン状の実は外皮の暗紫色からは想像できない。一粒口に入れると甘酸っぱいジューシーな果汁が口に広がる、さすが果物の女王と呼ばれるだけのことはある。

 注)ジューシーとじゅーしーは、ジューシーはフツー通りのイントネーションでいい、汁気いっぱいのことで、
じゅーしー(雑炊)はウチナー訛りで発音する。中国語の四声で言えば三声の高さで一声のように発声する。

バリの印象

2006年02月19日 13時10分06秒 | バリ
 バリの風景は驚くものではなかった、ちょっとだけ違和感を感じたのは田の畦に生えている椰子の木だった。田も椰子も珍しいものではないが両方が組み合わさっている景色は見たことが無い。暫らくそのような風景を見ていると目にも脳にも慣れてしまった。

 人、人間に関してはウチナーンチュから見ると「バリんちゅ」は色黒だけどワッター島人と対して変わらない風貌をしている。これはアジア共通の現象だと私は思っている。
その人々の顔や様子がのんびりしているのがたまらなく好い。のんびりというより穏やかと言う表現が適切かな。

 みどり青々と育っている稲、水辺では水牛がゆったりと寝そべっている、石垣を積んで階段状になった田を見ると営々と築き上げてきた先人の偉業を受け継いでいる様子が窺える。受け継いで伝えるただこれが続いているだけのようだが、この単純に見えることがバリの豊かさに通じているのだろう。

 観光を終えてホテルへ戻る道すがら用水路に腰まで水に浸かりノンビリと坐っているお年寄り、その側ではしゃいでいる子供たちの姿を車窓から見ると見ている私も心が洗われる気分になった。
バリに魅かれるおおかたの人はこの光景に胸を打たれると私は考える。
あの老人は至福の時を過ごしているのだ。いつの日かその光景に溶け込んでいる自分の姿を夢見た。

 そのような牧歌的な景色とは裏腹にクタビーチ付近は別世界の様相だ。観光目当てに物を売る人に各種のサービスを提供若しくは押し売りする人が行き交っている。街を通ればなお目立つ、目立っているのは観光客の方だろうが観光客である私の方から見ると押し付けがましい物売りは目立つ。

 ビーチに寝転がりあるいはただボ~ッとしているだけであらゆる物が手に入る、飲物食べ物はもとよりマッサージや髪結いまで、さらに半身用のサーフボードをレンタルする人などが入れ替わり立ち代りやって来る。
始めはどう対処するのか分からず戸惑っていたが、あまりの多さに慣れてしまいあしらい方も学習して、すんなりかわしたり逃げたりからかったりと終いには物売りが寄ってこなければ何か物足りなさを感じるまでになった。

 タイや中国にも物売りがいるがあの時のバリの物売りほどしつこく付き纏う者には会ったことが無い。バリの人に言わすとあのような物売りはバリ島以外からの出稼ぎ者が多いとのことだった。
あの物静かなバリの人からは考えられないのでナットクしたが真偽の程は・・・

 バリの印象を感じたまま書いたが、ではバリでイチバン感じたのは何だと問われれば答えは何だろう。
目に見えるものはその通りだが、目にするものの裏側、時の流れに流されていないものにとても魅かれた。自然の風景はのどかそのものでその自然を残す心それが嬉しく心を打つ、バリヒンズー教の教えなのだろうか。

写真は、家に飾っていあるバリヒンズー教の神々です。
名前は知りません、順次掲載します。

レギャン夫人

2006年02月18日 08時55分26秒 | バリ
 当時コンチネンタル航空が就航しており、グァム島を経由してハワイやアメリカ本土、バリなどへ行けた。
当然私たちもコンチでバリへ発った。グァムでの乗換時間は経った1時間しかなく連絡通路を走った記憶がある。

 コンチはサービスが良くて、飛び立って暫らくするとバーが開く。
応接セットが置かれたスペースがあった、ファーストクラスを改造したのか別にファーストクラスの席があるのかそのクラスに縁の無い私には分からない。
とにかくバーではアルコール類とツマミのサービスがあり、しかも無料なのだ。飲み放題だが節度を持って飲んだ。(笑)

 飲んでいると時間も気にならない、そうこうするうちにデンパサール空港に到着する。我等の大黒柱千ちゃんの友人でもある現地ガイド・ダナさんが向かえてホテルへ行く。
ホテルはクタビーチを路一つ挟んだところにあった、海端に位置するホテルと気づいたのは夜が明けてからであった。なにせ到着時間が深夜だったから。

 ホテルではウェルカムドリンクは勿論だがガムランで出迎えてくれたのには全員ビックリうっとりだった。
ホテルはコテージスタイルで受付ロビーは壁無しの建物で、部屋へは手入れの行き届いた庭の中を歩いていく、コテージが幾棟もある。バリでは椰子の木より高い建物を建ててはいけないそうだ。

 朝の目覚めも軽やかに気分は上々空気も熱帯のそれ。
朝食のためにレストランへ行くとガムランの音が響く、ガムランというのは正しいのかな竹製だから・・・と調べるとジェゴグというそうです。
そのジェゴグの響きがこれまたなんともいえない雰囲気を醸し出している。ジェゴグの響きと同じように長閑(のどか)ゆったり、のんびり、時はゆったり流れている。
これがバリか~しあわせ・・・

 ナシゴレン、ミーゴレン、ナシチャンプルーにフルーツでお腹いっ~ぱい、またまたシアワセ感に浸る。子供たちにも自由にさせて朝ごはんは10時までレストランは開いているから食べたければそれまでに起きなさいと告げてある。

 海辺のホテルなのにプールもある。プールサイドのベンチに金髪女性それも若い子が寝そべって本を読んでいる、それがトップレス。ジロジロ見るのは憚られる、しかし見たい何気なく自然に見たい(既に自然ではないが)とあれこれアタマの中で策略を廻らす。こういう場合は子どもをダシに使うのがイチバンだとばかり追ッかけっこを装うとか、水掛遊びをするとかの工夫を凝らした。

でも我が妻は既にお見通し、いやまあそのお・・・
レギャン夫人のことを書こうと思ったが今回はレギャン通りまでは行き着けませんでした。

バリ 出発まで

2006年02月17日 13時16分40秒 | バリ
 友人にバリキチつまりバリ気違いがいた。
バリ島に通いはじめて10年、毎年バリへ行っているようだった。”そんなに良いところなら一緒に連れて行って!”とお願いしたらツアーを組もうということになった。

 友人主体に募ったところ6家族10数名の参加者となった。我が家は長男が高一、長女中二、に次女が小六に夫婦の全員参加となった。大人の男性はツアーの大黒柱と私の二人だけ。その頃私の年代は社会の中核として仕事に全力投球している頃だった、同行の奥さん方の旦那さまは休めなかったのです。私はその頃から社会的責任を果たさないオトコになっていたのだ。

 我が家は家族全員行くがその外の家族はお母さんに子どもという組み合わせで、大人だけの参加者はいなかった。添乗員までも子供連れだった、ただ添乗員とは名ばかりで添乗員としての努めは殆んど無く添乗という名の休暇という感じだった。
それほどノンビリした旅をした。

 子供たちの為にもバリについて勉強してから行こうという提案があり、各家庭持ち回りで勉強会を持った。バリ島の所在地、島のカタチや主な地名、それに会話など子どもを主体に数回の勉強会を持った。
子供たち初めての海外旅行なので気分を高めるのに役立ち、また旅へ出る際の心構えをも教えるという利点もあった。それに旅へ出るには事前の調査が大切で欠かせないものであると教える事が出来たのもよかった。親たちも勉強になり全員の意思疎通が出来たので旅行中もトラブル無しで過ごせた。

 訪問先について事前に学習しておくといろいろタメになる。ガイドがいて連れて行ってもらうならさほど不便も感じないが、一人で行動するとなるとそうは行かない。何を見たいか、何をしたいか、買い物は何処で何を・・と自分で決めなければならないことが出てくる。

 事前に概要を掴み行動計画を立てても、現地で尋ねて行動しても観光地では結局同じような行動パターンになってしまいがちだ。しかし私は事前に調査勉強派である、同じことになるにしても自分の意思で行動を決めたい。

 バリでの動き、我々の行動は話し合いの結果せっかくバリに行くのだから有名な場所へは行く、その後はフリータイムという事になった。最初の二日間はバスをチャーターして全員で観光地巡りをする、その後は各自各家庭で好きなようにする、という事になった。
 ホテルもクタビーチのくルンくルン(だったかな)ホテル一箇所に留まる事になった。移動が無いのはラクだしその方がヨーロッパ人が長期に取るバカンス気分になれる。
みんな希望と夢を胸に出発・・・と思ったらアクシデントがありって五月の連休に予定していたのがダメになった。

 大黒柱がその日程では具合が悪くなったからである、幸い中止とならずに夏休みまで延期という事になった。
事情があるのでしょうがない、皆それまで勉強会を続けて出発を待った。
まあ、いろいろあるさ~
1990年のことでした。

初めての海外旅行

2006年02月16日 09時56分02秒 | 懐かしい旅の記録
 私は台湾生まれなので、ある意味引き揚げの地オキナワが始めての海外旅行かもしれない。(笑)
初めて外国旅行は日本か。あの頃ニホンへ行くのにパスポートが必要だったのでそういう考え方はある意味それは正しいと言えるだろう。

 ホントの初めての海外旅行は台湾です。幼くて殆んど記憶が無いが生まれ島なので台湾には特別な想いがある。台湾はヤマトよりも近いので周りで旅行した人は多い。ただ蒋介石の反共政策一本槍には多少反発も感じていたので強烈に台湾へは行きたいとは思わなかった。

 ある時友人に誘われて遊びに行った、当時(今も変わらないが)金が無いのにその人が出すというので付いていった。それ故行動は彼ら主体に動かざるを得ない。しかし彼らは夜が主体で昼間はホテルでダラダラ過ごしているのでこれ幸いとばかりに一人で動いた。
 故宮博物院、これは絶対に行かねばならない、台湾まで来て故宮博物院を見ない人は余ほどの変人だと思う。文化や歴史に無関心な人で教養が疑われる。彼らは以前見たということなので一人で出かけた。

 予想以上に感銘を受けた、有史以前の文物から現代までの美術工芸宝物で全館埋まっている。たった半日ではうわべを素通りするようなものだ。台湾へ行くたびに見学するようにしている。

 また龍山寺も面白かった、ここが台湾だ~という雰囲気がいっぱいの寺で、熱心にお参りしている人ごみの中で熱気と雰囲気を満喫しました。その頃(1990年)の台湾は外省人による支配に反発する空気が芽生えているように感じた。龍山寺はそれを訴える場所でもあったように思える。

 烈士○○君と書かれた横断幕をバックに熱弁を振るっている人がいて大勢の聴衆が取り巻いている。政府に抗議して弾圧された人がいて何かを訴えているようだった。言葉も漢字の意味も分からないので本当のところは知らない。
しかし民衆の鬱積したものは感じられた。

 初めて台湾へ行ってその面白さを実感した。それから個人的に、妻と二人で、家族と、一族と一緒にと台湾へ出かけた、その辺りは既に書いた別項台湾を見てください。

あのとき連れて行って下さった友人に感謝します、今では喧嘩別れみたいなことになっているが、海外旅行のキッカケを作ってくれたことには本当に感謝しています。

写真説明
中正機場の出発ゲートです。
琉球と表示されているので大好きなので、既に出した写真ですが再掲載します。

2006年02月15日 10時36分19秒 | バリ
 旅は西行芭蕉の例をとるまでも無く、心に何かを秘めて出て行く行為だ。
私の場合は例を挙げた人を間違えたようで、とにかく自宅から何処かへ行く事を旅と称している。

 遠いところ、宿泊を伴うものと考えている。日帰りでもいいのだが、それではナンダし・・・せめて島外へ出るのを旅と呼びたい。
旅と旅行はどう違うか・・違わないと考える。どちらでもいいので時により気分により使い分けする。

 では仕事で行った場合はどうか、これはムツカシイ。むつかしく考える必要は無いが旅は個人的な遊びが入る、仕事は自分で金を出さない。つまり行った先でのほぼ全ての時間は誰かの金で買われているのだ。
ここで羽目を外すと後で問題が起る可能性が出てくる。ただバレ無ければ良いという面もある。故に他人の金で出かけても精一杯楽しむことになる。

 現地で移動する間でも目に入ってくる光景は全て自分のものにできる。現地の人と話しをして仕事以外のことは自分のものになる。
こう考えれば仕事で出かけるのも悪くは無い。金の分、期待された分の仕事をこなせばいいのだ。

 どなたかこういう私を何処かに派遣してくれないかな~

 出張とか仕事の現場の関係で出かけた経験はそれほど無いが数えるほどはある。してやったり、と思う出張も経験した。ああいう旅はもう二度と望めないだろう。ほんの少しだけ苦労して十分オツリまで貰った。
公表しにくいので詳しく書けないけど楽しい3週間でした。
それはパスポートを持ってヤマトへ行った時のことです。

 最初にマニラへ行ったのも仕事絡みだったが楽しい想いをさせてもらいました。もちろん仕事はそれなりにチャントやったつもりです。しかしスポンサーがどう評価したかは別問題です。その時点では及第点だったのにその後別の問題が起ったとき、マニラでは何も仕事をしていない、と言われた、まあ金を出した人の人間性がそういうタイプだったので気にもしなかった。

 その後またマニラへ行ってくれと言われて数回行った、その間も仕事をしていない、言われながらも又行ってくれと言う、全く分裂症的な性格の人だった。私はその出張・仕事で金銭的には儲けなかったがマニラを知り結果的には良かったと思う。

旅に纏わる思い出はあれこれある、数も場所も多くは無いが自分なりに楽しんだので時には思い出しながら書きたいと考えている。

両替

2006年02月14日 13時42分32秒 | 旅-トルコ
 トルコリラはイスタンブールの空港内両替所で換えた。
1リラが約90円程度のレートであった。2週間で如何ほどのトルコリラが必要なのか見当が付かない。大きな買い物はカードを利用すればいいし、キャッシュは水を買う程度あれば良いと思い1万円かな・・と思いつつ2万円換える。

 3食付で交通費も必要ないし、オプションの追加料金は日本円で支払う事になるのでホントにトルコリラは必要ないと思っていた。

 ところが、ところがである、昼食時にストランでは水も出さない。水、ビール、ソフトドリンク、ワイン等は別途各自が買わねばならない。水でも大のペットボトルが4リラ、ビールが5リラほどする。

 二人のランチの飲物代で10リラは無くなる、トイレタイムで立ち寄るコンビニでチャイやトルココーヒーを飲んだりちょっとした物を買うと手持ち現金は予想以上の速さで底を尽いてしまった。
カードを切れないマチヤグァで土産品を買ったり、水以外にビールまで飲みたくなるし、夕食時にもワインやらビールが欲しくなるので予想以上に飲物代が掛かった。
朝食時にはコーヒー紅茶があるのに夕食時には出さない。結局水か何か飲物が必要になる。これは想定外の事だった。夕食時にはアルコールというのが一般的なのか。

 というわけで途中でまた両替する羽目になってしまった。地方で換えたのでレートは良くなかっただろう。これがフィリピンなら1食分の差額が出る。市中両替所、銀行、ホテルのレートには雲泥の差がある。
トルコに市中両替所があるかどうか知らないが、飲物代程度なので差が出ても水1本程度だろう。

 台湾ならガイドが両替してくれる、銀行レートで。
今回のように田舎巡りが主になる場合は余分に換金しておいても良さそうだ。若しくはドルを持参するのも良い。
両替で差が出て損をしたということではないが、飲物代にこれほど使うとは思わなかったので両替というのが頭に残っている。

写真は、コンヤの踊る宗教の聖地のモスクの展示物

出発までに

2006年02月12日 17時23分05秒 | 旅-トルコ
 格安ツアーの発着は大都市圏の空港からが多い、客を集め易い又集まり易いのでしょうがないけど地方在住の私には羨ましい。私たちイナカーは出発地まで自費でツアー料金とは別途に金を掛けて出て行かねばならない。帰りも又然り。
これまで福岡、関空、成田発に乗ったことがある。

 出発地まで出て行くだけならまだしも、出発時間によっては空港近くに前日出て出発に備えざるを得ない状況も起きる。帰りも翌日しか帰れない場合もある。田舎モノの悲哀というところか。

 これまでに福岡で帰りに1日、成田で前泊した経験がある。ケッコウな出費になる。旅費はそれも加算して考えねばならない。
こういうことは私たちだけでなくツアーに参加するメンバーの殆んどが程度の差はあれあるようだ。

 今回のトルコ旅行も参加者は富山や愛媛などから来ており帰宅時間は私たちと変わらない人もいた。福岡発着の場合宮崎の方はやはりその日には帰れないとのことだった。
私だけがタイヘン苦労しているわけではないが、更に2時間ほど飛行機に乗るので遠い~という感じがするのだ。

 最近超割とか安売りキップ(団券ばら売り)があるので以前ほど高くないので助かる。格安キップもヤマト発とオキナワ発では料金が違うのがアタマにくる。ヤマト発着のオキナワ便が圧倒的に安い、シマ~グァを苛めるな~。

 飛行場に関して言えば関空がラクだ、乗換に移動がないし金が掛からない。成田なら羽田からの移動時間と金がかかる。福岡は前・後のどちらかに余分な宿泊を強いられるケースが多い。やはり便数が多い幹線がいい、格安チケットでは東京だろうが福岡だろうが金額の差があまりない、もっとも出発時間によるけど。

 と、まあ地方在住の悲哀を若干書いたが、地方在住者が圧倒的に多いので私だけの文句ではないのだが文句のひと言も言いたい気分に毎回なる。旅行を企画するとき大会社の力をバックに地方からの応募者にもっと格安のチケットを手配するなり宿泊料の安いホテルの紹介するなりのサービスをプラスしてもらいたい。

写真は、空港待合室にて
帰路なので満足感、疲労感、待ちくたびれた疲労感がミックスした表情のようです。